風越 参観記 2022年3月20日

実践を駆動する記録の共探究(山本一成)

かぜのーと編集部
投稿者 | かぜのーと編集部

2022年3月20日

滋賀大学の山本一成です。

この度、風越コラボ(多様な実践者が集まり探究を深めるコミュニティ)の記録ゼミの伴走者にご指名いただき、半年間を過ごしてきました。「実践を駆動する記録」というテーマで走りながら、考えてきたことをまとめてみたいと思います。

本題に入る前にまず触れておきたいのが、風越コラボでの「伴走者」という役割です。実は私は保育記録が専門の研究者ではないので、最初にスタッフのあやさん(遠藤)からご依頼を受けたとき、お引き受けできるかどうか迷った部分もありました。しかし、なぜ私に声をかけてくれたのだろうと考えてみたとき、今回の伴走の役割が、「専門的な知見を参加者に教える」ことではないということに思い当たりました。

「保育記録」については、海外ではイタリアのレッジョ・エミリアをはじめとする「ドキュメンテーション」や、ニュージーランドの「ラーニング・ストーリー」、国内でも鯨岡峻先生の「エピソード記述」や、河邉貴子先生の「保育マップ型記録」といったように、さまざまな手法が開発されています。もちろん、それぞれの手法は実践者と研究者が協同し、試行錯誤を経て理論化されてきたものですが、それを形式的に取り入れたのでは「実践を駆動する記録」にはなりません。それぞれの記録の手法は、それを切実に必要としてきた実践者の願いや哲学があり、それぞれの人が、「大切にしたいことをどうしたら大切にできるか」を探究した結果、生まれてきたものです。記録が実践を駆動するためには、そのプロセスの部分の方がむしろ重要になるはずです。

風越学園の教育が、「学びのコントローラー」を学び手自身がもつことを大切にしているように、ゼミの伴走者もまた、スタッフの方や参加者の方の想いや関心を聴きながら、その先の学びを共につくっていく役割を担っているのだと思い至りました。そんな「伴走者」になれるかどうかはわかりませんでしたが、かつて保育者をしていたときに「経験を言葉にする」ことを目指して研究者へと方向転換した私が、何か役に立てることもあるのではと思い、お引き受けすることになりました。

さて前置きが長くなってしまいましたが、ゼミの大前提となったのは、本当の意味で「実践を駆動する記録」をつくるためには、何らかの記録の手法を形だけ取り入れるのではうまくいかないということです。そのため、ゼミでは参加者の方に、「わたしたちの記録をつくるために」というテーマで、自園の記録の在り方や、ご自身の実践観・記録観を振り返ってもらうところから始めていきました。

そもそも「記録」とはどのような役割をもったものなのでしょうか。特に保育の現場は、子どもたちひとりひとりの理解から出発してカリキュラムを作っていくため、記録は保育者間の「省察(reflection)」を促す点で重要な役割を持っています。また、事実を言語化・視覚化し人に伝えるという意味での「記録(record)」としては、成績評価のための資料ではなく、日々の保育の軌跡としての日誌が中心となります。そして、子どもの発達を価値づける「評価(evaluation)」は、目標の達成度を測る“到達度評価”ではなく、子どもが今どのように育とうとしているのかを理解するための“形成的評価”に重点が置かれます。

多忙を極める保育現場のなかで、この「記録」に関する3つの機能(Reflection,Record, Evaluation:以下RRE)を、どのようにして無理のない形でつくっていくかが問題となります。しかも、このRREは、「保育記録」という文書上だけでなく、たとえば掃除のときの立ち話、保護者向けの展示、帰宅後のお風呂のなかで思い出す今日の子どもの一言、といったようにさまざまなかたちで展開されてもいます。コラボゼミでは、このような観点から、今自園で、あるいは自分自身が取り組んでいる「記録=RRE」にどんなものがあり、何を大切にしているのか、どんな方向に向かっているのか、どんな可能性がありそうか、といったことを、参加者みんなで考えていくという方向で進んでいきました。

あやさんの記事に詳しいように、風越学園のスタッフの方も、さまざまな試行錯誤をしながら学園ならではの記録の在り方を探究してきました。風越学園の方々が実践を駆動する記録について、「どのようなことを大切にしてきたか」、また「どのようにしてそれを実現しようとしたか」について、あくまで一伴走者の視点ですが、私から見えた景色を描いてみたいと思います。

記録ゼミを進めるなかで印象に残ったのは、ひとりひとりの子どもが今何を感じ、何を考えているか、ということを、心から理解しようとしているスタッフの方々の姿でした。言葉にするとありふれた保育の原則であるように聞こえるかもしれませんが、前期だけで120人を超える異年齢の子どもたちが広大な敷地で生活し、そのときの旬の出会い、偶然の出会いを大切に保育を行っている風越学園で、それを実践していくことは並大抵のことではありません。

この「子ども理解」の徹底は、以前かぜのーとの青野遼さんの記事(今、何が、どう見えてる?)のなかで、坂巻愛子さんとのやりとりのエピソードを読んだときも、それを感じました。青野さんは、初めて前期に入って間もない頃の出来事について、以下のように述べています。

ある時、「いやー、子ども同士をつなげるのって難しいですよね」って、あいこさん(坂巻)に聞いたら「あなたはその時に、その子とその子をつなげたいって思ったんだね。なんでつなげたいって思ったの?」と聞かれて「えっ?」ってなった。つなげたいと思う理由なんて、考えたことなかったって。

「たしかに。なんでつなげたかったんだろう」って思った。その目の前の子が「つながりたい」って感じてたかどうかなんて関係なしに、自分がつなげようとしてたなって。「子どもって、つながりたいっていうときにつながろうとするから、無理やり大人がつなげようとしていいときと悪い時があるよね」って言われて、ああそういう見方もあるよねって思った。


「つなげようとしていいときと悪い時」の判断というのは、一瞬の出来事でありながら、深い子ども理解と自己理解を必要とする実践です。目の前にいる子どもが「つながりたい」と思っているかどうかを感受するためには、ひとりひとりがこれまでどのような日々を過ごしてきて、今どう感じているのかを読み取る必要があるし、それは生活の片隅でつぶやかれる一言や、小さな行為の意味に丁寧に耳を澄ませることによって支えられています。記録ゼミで探究された「ふせん型記録」は、そのような子ども理解の瞬間の記録を、スタッフ複数人で協力して蓄積することで、個々の子どもの想いや育ちの道筋を、立体的に見ていこうとする工夫でした。記録を通して、保育者同士が自分の感じ方や子どもへの見方を交流させ、振り返ることで更新していく。そのようなRREが一体となった「記録=共有」の在り方を模索することによって、実践が駆動されていたように見受けられました。

そのような探究の末、最終回のゼミで話題になったのは、1・2年生になると「学び」の視点が強くなり、「暮らし」の視点が弱くなるのではないかというテーマでした。小学校になるとどうしても「できるできない」が見えやすくなり、「生活のなかの学び」ではなく「生活」と「学び」のあいだに距離が空いてしまうことが話題となりました。この違いは、もしかしたら神戸大学の赤木和重さんが記事(「個に応じている学び」なのに なぜ「学びに向かいにくい子ども」が出てくるのだろう?)に書いている、「3年生以上の後期については学習ベースで子ども理解がなされており、生活ベースでの子ども理解が十分ではない」ということとも関わるのかもしれません。なお、赤木さんはスタッフの課題でなく、カリキュラムの課題としてこれを記しています。


コラボゼミの際、私は同じ「形成的評価」という言葉を使っていても、保育と学校教育でその意味するところが異なるのではないかというコメントをしました。少し例を挙げて説明してみます。

「形成的評価」は、保育の文脈では、「日々の保育の方向性・計画の出発点を形作るために行う評価-カリキュラムの終了後ではなく、カリキュラムそのものの中でなされる評価」という言い方をされます。このとき「形成的評価」は、保育の方向の「出発点」を形成しています。

一方、学校教育の文脈では「診断的評価は教育を行う前に学習者の準備状況を把握するために行う評価であり、形成的評価は教育の過程で成否を確認し、指導を改善するための評価である。また、総括的評価は実践の終わりに学力を総体として捉え、目標に照らして到達点を把握するための評価である」と言われるように、「目標」に向かうプロセスにおける成否の判断として位置づけられています。

もちろん保育においても子どもの育ちへの願いは欠かせないものであり、未来への道を思い描くことで実践は進んでいきます。しかし、その道は直線の道ではなく、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、寄り道しながら進んでいく原っぱの散歩のような道であり、立ち止まるたびに次への出発点が見出されていくようなイメージで捉えられます。そのような暮らし的・散歩的「形成」と、学んでほしい知識や技術、見方や考え方がある程度はっきりした学習的・目的的な「形成」では、同じ「個に応じる」という言葉でも意味するところが違うような気がします。そのように考えると、採用しているカリキュラムの枠組みが、記録(RRE)の視点そのものを無意識に規定することがあるのかもしれません。

もちろんこの2つを明確に分けること自体が適切ではないのかもしれませんし、それらのあいだにある「生活のなかでの学び」にふさわしい形成的な見方があるのかもしれません。おそらく風越のスタッフの方は、そのような子どもの傍らにある評価・記録を探究されているのだと思います。

この2月まで走り続けてきましたが、その勢いそのままに最後は少し先走ってしまいました。あくまで外部からの視点ですので、風越学園の実際とは異なるところもあるかもしれないことを踏まえて読んでいただければ幸いです。

最後になりましたが、ゼミ参加者のみなさま、風越学園のスタッフのみなさま、よい学びの機会をいただきありがとうございました!

#2021 #スタッフ #前期

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かぜのーと編集部です。軽井沢風越学園のプロセスを多面的にお届けしたいと思っています。辰巳、三輪が担当。

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