2021年11月17日
設立準備期間〜現在まで、300記事以上を公開してきた「かぜのーと」。軽井沢風越学園の“いま”をなるべく正直に、スタッフや子どもたちが書き綴ってきました。
改めて、この積み重なってきた風越の道のり(記事)を届けることはできないかと考え、今までの記事を新たな視点でまとめる「キュレーション企画」を始めてみることにしました。
保護者、子ども、スタッフ、地域の方々…その人ならではの視点で切り取ったかぜのーとをお届けしていきます。第三回目は、保護者の新井美幸さんと大野裕子さんです。
かぜのーとは、共に子どもたちの幸せを願うつくり手たちが綴る一冊の本です(※)。
この本は「なるべくそのままを正直に伝える」というスタンスで編まれた大らかな本でもあるので、読み手はたっぷり設けられた余白を使って自由に問い、考え、学ぶことができます。
今回は互いに年長の娘がいる新井と大野のそれぞれの読み方を、参考までにご紹介させてください。
我が家の玄関をくぐると、床から天井まである本棚が見えてきます。間取りを考える時に大切にしたことの1つが、本棚の位置でした。
毎日必ず通るところ、家に入ってまず目につく場所、すぐ手にとれる空間に本を置こう。そうこだわったのは、ゴリさんの「ライブラリーを校舎の真ん中にした理由」のこんな一節に出会ったからです。
刺激がすぐそばにある。こんな場所を教室にもつくりたいと思い、教員になってからは、教室に図書コーナーを常設するようになりました。手が届くところに本があること。日常的に本が見えていること。これは、想像以上のちからを発揮しました。子どもたち、めちゃめちゃ本読むようになるんですよね。また他の人が読んでいる本も気になる。読んだことについての交流がうまれる。やがて、そのコーナーで勉強する子どもも出てきました。「本が日常の中にあることで起きる豊かな学び」というのがぼくの実践上の核になっています。
我が家に訪れた本好きな人たちは、大人も子どもも、必ずこの本棚に目を通します。
目ぼしいものがあると、その本についての二言三言から、最近関心のあるテーマへと話題が広がってゆき、まさに「読んだことについての交流」がはじまるのです。この本棚は、子どもたちが本に親しむきっかけをつくるだけでなく、私たち大人の日常も想像以上に豊かにしてくれています。
このように本が身近にある我が家の娘ですが、これまでひらがなに全く興味がなく、年長になってようやく自分の下の名前を書きはじめるという様子でした。そして私も「文字の手前の世界を今のうちにたっぷり楽しんで」とゆったり構えて過ごしていたのです。
ところがある初夏の日、昨年度の年長児を対象にしたKAIさんによる体験授業の動画を見ていたら、みるみるうちに焦りの感情が湧いてきました。
「あれ?みんな、こんなにひらがなが書けるの?」
果たして娘があと数か月でこんな風になるのだろうか。今のところそんな気配は感じられない。そういえば、周りのお友達は本も読めるし、お手紙も書けている。もしかしたら、我が家の読み聞かせに問題があるのかもしれない。
突然降ってきた「1年生になったら」というものさしにオロオロし、動揺している自分にも不安を覚えました。そんな私を落ち着かせてくれたのが、ちかの「おもいをかきだすということ」です。
人間は文字や数字で考えるようになるまで何万年もの間「絵」で物事を考えてきたといいます。私自身、人の成長を人類史に置き換えて考えることを時々するのですが、そうすると文字に出会う前の「絵」で物事を考える時間をたっぷりとることの意味があるような気がします。(中略)文字を書くということは、どうしてもこう書かなくてはいけないという決まりのようなものがあるし、豊かな表現は文字を学び始めた人たちにとっては全てをそこで表現する難しさもあります。そうすると、せっかくその人の中にある豊かな情景が外に出るときに委縮してしまう気がするのです。
たしかに、娘が描く絵には、その時々の情景が宿っているなと思うことがあります。春にはもぐらが顔を出し、梅雨時には雨粒が水たまりではねている。そして、ひらがなもまた絵のようにかく娘に「書き順はそうじゃないよ」と言うのはしばらくやめておくつもりです。
鉛筆をギュッと握りしめた手で大好きなお友達の名前を一所懸命にかいている時、娘がかいているのはひらがなではなく、お友達の名前という絵なのかもしれない。ちかの言葉が私にそんな視点をもたらしてくれたのでした。
かぜのーとはつくり手による実践の記録で、そこには「具体的な知」が詰まっています。もちろん「あぁ、素敵だな」とただただ読後感を味わうこともあるけれど、そこから受け取ったものを自分なりの「よりよい」に繋げていけたら。そんな願いも持ちながら、これからもかぜのーとを読んでいこうと思います。
かぜのーと。皆さんどんな読み方していますか?かぜのーとの大ファンで日に数回更新ボタンを押す私が、僭越ながら、おすすめの読み方をひとつ。
会話の糸口としてかぜのーとを使ってみてはどうでしょう、という提案です。
まずは「出願前おすすめ記事」のタグもついている、こちらの記事について。
保育者は、先導するものでもなく、一緒に生活する中で、環境を整えてみたり、整えすぎなかったりしながら、自分をつくっている君と一緒にいよう。
一緒に葛藤して、悩んで、考えて、そして選択していこう。
私と一緒にいて、安易な幸せは手に入らないけれど、充実した日々は必ずある。
君は自分で自分をつくる。そこに保育者として、ちょこっと参加させて欲しい。
この記事の書き手てんてんは、娘の年中時の担当スタッフでした。
年少時は毎朝泣いたり私の手を離さなかったりですんなり登園できたことはほぼなく、期待して風越学園へ進んでからも彼女から「行きたい」という言葉は出ませんでした。
てんてんからの連絡では日々楽しんでいる様子が伺えていたので、そこまで心配はしていなかったし、時折てんてんが娘へ声を掛けてくれていた(早く寝るといいよ、早く登園するとこういうことがあるよ等)ことも知っていました。けれど、毎朝渋る娘を1歳の息子も連れて登園するのは私にとって大変なことでした。
ひんやりとした秋の日。その日の娘の決意は特に固いものでした。
もう遅刻連絡の時間も過ぎており、「休むならてんてんに直接言いに行かないと。」と私が言うものだから、グラウンドの奥にあるかぜのとおりみち惑星へ手を繋いでトボトボ歩く娘。(もちろん、つどいの様子をみて「行きたい」と言って欲しいな~という親の浅い思惑がありました)
かぜのとおりみち惑星が近づいたところで、突然ピタっと止まり、「もういくってきめた。いってくるね。バイバイ!」振り返らずにスタスタつどいに入っていったのです。草の奥の惑星からは「おはよー!」「おそいよー」と惑星の子どもたちの声。
子どもが自分で決めた瞬間。
こんな驚きがあるなら、今困ったり悩んだりしていることも、楽しみに待てるかもしれないなんて思った朝でした。(ちなみにその後行き渋りはなくなりました!日曜日には「はやくかざこし行きたいな〜」と言うほど!)
てんてんの記事を読むと、当時のことが強い風のようにぶわあっと思い出されます。そして記事を読んだ保護者さんと一緒にてんてんの考え方や当時の出来事について思いを巡らせたことも。
「娘が自分で“行く”と決めるのを、てんてんは待っていてくれたのかな。」
「自分で決められる力があるって信じてくれたんだろうなぁ。」
「言葉を、行動を自分から出せるまでてんてんが鍛えてくれてたのかも。」
こんな風に読者同士でそれぞれの考え方を言語化しやりとりを重ねる時間は、とても楽しいものです。みなさんはこの記事を読んでどんな気持ちが浮かびましたか?みんなの話を聞いてみたいなあ。
つづいて、こちらの記事をどうぞ。
朝。「おとうさんバイバイ、おとうさんバイバイ」と何度も繰り返し、手を振っている。土手の向こうは駐車場。危険はある。駆け出してしまうかもしれない。逃げ出してしまうかもしれない。そばに行った方がいいかもしれないけれども、離れてしっかり待つ。彼を信じて。できるのは念じること。
おとうさんの車が見えなくなると彼は、くるりと向きを変えて、土手をこちら側に駆け下りてきた。僕の右手の人差し指と中指を握りしめて言う。
「そうちゃんね、だんだんなかなくなってきたんだ。おかあさんとおとうさんとバイバイできるようになってきたんだ。」
子どもを信じる。そこが出発点。
大人の不安を絶対に出発点にしないこと。
風越学園の
今でもはっきりとした答えは出ていないし、唯一の答えがあるような問いではないとも思いますが、この記事をめぐってこんな対話をしたことがあります。
「子どもの存在全体を“この子は大丈夫”と根拠もなく信じてはいるけれど、例えば車通りのある道ばたで、私はしんさんのように離れて待つことができるかな。」
「でもさ、しんさんはほぼ毎日あの場所に立っているじゃない?きっとそうちゃんがパパとママから離れない姿も、泣きつづける姿も、ずっと見てきていると思うんだよね。」
「たしかに~!これまでの過程を見守ってきているってことか。その中で、今日のそうちゃんなら離れて待っていても大丈夫だって信じられているのかも。」
みなさんにとって「子どもを信じる」とはどんなことでしょうか?細かなニュアンスは家庭ごとに個人ごとに違うはずです。みんな違うから、話してみたい。私はそんなふうに思います。
かぜのーとの記事を読んでいくと、様々な「?」や「!」に出会えます。
まだ母親になってたった6年の私が、子どものことも自分についてもこんなに考える時間が出来たのはかぜのーとのおかげです。
「今までの自分はどうだっただろう」「子どもはこの場面でどうするかな?」「あの人とこの記事の話をしたいな」などなど、考え感じる時間をかぜのーとは与えてくれる。だからファンなのかもしれません。
その時の気持ちや考えを共有してみること、それが私のおススメのかぜのーとの読み方です。あなたも身近な誰かと話してみませんか?
さて、私たちはいま「信じる」ということについて改めて考えはじめています。
今回ご紹介した4つの記事はそれぞれ別のエピソードですが、共通して感じられるのは「子どもを信じる気持ち」と「書き手それぞれが子どもたちと重ねてきた時間」です。
「かぜのーとを読んでいると、スタッフをすごく信じられるなって思うんだよね」
これは私たち2人がこの記事について初めて打ち合わせをした時に出てきた言葉です。
スタッフが子どもたちを信じるように、私たちもまたかぜのーとに登場するつくり手たちを信じている。それは、読み重ねてきた時間があるからかもしれません。信じることを支える1つの柱は、相手の過程を知ろうとし続ける姿なのでしょう。
互いに幼い息子もいる私たち。今はまだ学校のつくり手として動きたいようには動けていません。もしも風越学園にかぜのーとがなかったら。きっと学校が馴染みのない森のように思えて、分け入ることをためらっていたと思います。
「来年になれば、もう少し自由に時間を使えるかもしれない。その時にはどんなつくり手として風越に関わっていけるだろうか」
そんな思いを胸の奥に置きながら、子どもを寝かしつけたあとのベッドのなか、子どもたちが遊びまわるリビングのかたわら、ひと息ついたダイニングテーブルで、今日もかぜのーとを開いています。
※文頭のこのフレーズは、あすこまさんの「もっともっと本を読もう」に触発されたものです。