2022年3月20日
設立準備期間〜現在まで、300記事以上を公開してきた「かぜのーと」。軽井沢風越学園の“いま”をなるべく正直に、スタッフや子どもたちが書き綴ってきました。
改めて、この積み重なってきた風越の道のり(記事)を届けることはできないかと考え、今までの記事を新たな視点でまとめる「キュレーション企画」を始めてみることにしました。
保護者、子ども、スタッフ、地域の方々…その人ならではの視点で切り取ったかぜのーとをお届けしていきます。第六回目は、保護者の山本裕介さんです。
風越学園に息子2人が入学して、もうすぐまる2年経つことになります。保護者としてされて一番困る質問の一つが、学園に興味を持っていたり子どもに入ってもらいたいなと思っている親御さんからの「風越学園ってぶっちゃけどうですか?」という質問です。
たぶんこの記事を読んでくださる中にもそういう方がいらっしゃると思うので、いつもの自分なりの答えを書いておくと、「あくまで自分の目から見えている学園の話はできますが、それはたぶん子どもや保護者、さらにスタッフや関わる人によっておそらくすべて異なっているので、その前提で聞いて(この記事の場合は読んで)ください。そしてそれこそがおそらく風越学園というものの特徴を端的にあらわしていることの一つだと思います」というものです。
この感覚は入園当初も、2年経った今も全く変わっていません。個人的なイメージで言うと、学園という大きな枠組みや大切にするべきこと、根底となる軸はありつつも、実践のレベルはスタッフやグループ活動などの単位に良い意味で任されて行われているので、「試行錯誤の渦」がそこかしこで同時発生してて、互いに影響しあったり、ぶつかったり、途中で消えたり、空高くまで昇ったりしている感じ。
通常の組織にある「中心」や「指示系統」みたいなものがなく、少し離れた場所から見ている保護者からすると「おお〜なんか色んなところにいっぱい渦がある!」という感覚。そしてその渦を起こすのは、まぎれもなく子どもとスタッフの熱量。
個人的にはこの「中心がなく」「いろんなところに渦があって」「毎日いろんなところでいろんなことが起きている」というメタファーはけっこう気に入っています。なぜかと言うと、それってすごく自然なことだと思うからです。
自分も含めて、一般の人がイメージする学校というのは「まず教科という学ぶ内容の区分けがあって」「それぞれの内容は独立しており」「決まった授業のコマ数があり」「学習した内容を試験で確認して一つの軸(つまり点数)で並べられる」「教科書の内容は基本的に抽象化・概念化されている」「先生の話はだいたいつまらない」「校長の話はムダに長い」「休んだやつがいると給食のデザートの取り合いがやばい」といったあたりでしょうか。
自分もそういうイメージしかなかったのですが、どうもこの2年くらいを見ていると、風越学園に通っている子どもたちの学びがすごく「具体的」で「暮らしに近い」なぁと。
例えばうちの長男は「保存食について学ぶ」プロジェクトに参加していて、いつも家に学校でゲットしたシワシワのきのこみたいなものとか、昆布みたいなものとか、ちょっと見た目では判別つかないものをくちゃくちゃのラップに入れて持って帰ってきて、「一口食べてみて」とめちゃくちゃ嬉しそうに渡してきます。そしてラップがあまりにくちゃくちゃすぎて間違えて捨てられる事件が割とよく起こります。たまに泣かれます。すまん。先日は家に帰ってくるなり「学校でつくったジャムが美味しかったからつくりたい!」と言ってジャムをつくりだしたり、「浸透圧って知ってる?」とキャベツの千切りに塩をかけたのとそうじゃないのの比較をしたりしていました。
自分はこの「学んでいることと普段の暮らしが具体的につながっていること」が、とてもいいなあと思っています。具体的で、しかも暮らしの中にあることは、すぐに試せて、結果が出て、フィードバックがある。学んだ内容を再現したり、より深く理解したり、他者に伝えるために抽象化したりすることも、教科書を読んで頭の中だけで理解した時とは違うはず。
自分の子ども時代を振り返って、こういうふうに学校で学んだことを家ですぐにやってみた、みたいなことがどれだけあったかな、と改めて思います。学校で学ぶ教科書の中の世界と、現実の暮らしはやっぱりどこかで乖離していた気がしますし、それをそういうものだとふつうに受け入れていた気がします。
対して、学園での学びはそれぞれの暮らしに寄り添っているので、個人やグループの思いやふとしたきっかけ、子どもたち同士やスタッフとの学園内でのやり取り、季節のうつろいや町の変化など、いろいろな要素で変わっていくんだろうなと思います。あらかじめ教科書で決められた内容をなぞるのとは違う、だからこそ自然発生的に、色んなところで、色んなことが起こる。もちろんそこにはスタッフの皆さんの子どもを見るプロの眼差しや適切なタイミングでのサポートの手腕が生かされていることは間違いないのですが、でも自分にはすごく自然に、暮らしや思いに寄り添って進んでいるように見えます。
前置きがすごく長くなってしまったのですが、そういう観点で見ると、風越学園ではこの「学びと暮らし」(そして「遊び」)の関係をすごく大事にしていることが、かぜのーとの記事からもわかります。
例えば、『いつでも遊んでいて、いつでも学んでいる』という記事では、以下のように「探検の中で見つけたものを具体的に計測する」ことや、逆に学びの中で得た数字を遊びの中に活かしたり、さらにそれを「他者に教える」ということまで発展している様子がわかって、とても面白いです。
“探検に出かけて見つけたものを題材に、数えたり、測ったり。「オタマジャクシは何匹いる?」「花の調査で使う棒は、全部で何本?」「さくらの実は合わせていくつ?」「うなぎ2貫、いくら3貫、ラーメン1杯なので、お金の葉っぱ6枚ください」と、暮らしや遊びの中で数と出会い、体験を通して量感を身につけることを意識していた。”
また、『暮らしの中で学ぶということ 〜ぶんぶんばち、綱引きの綱を借りにいく』という記事では、「暮らしの中で体験したことが、どのように教科の学びにつながっていくと考えているのか」という部分について子どもたちの具体的なやり取りを通じて知ることができます。写真だけ見ると「ちょっとした遠足」みたいに見えますが、学校側で目的やゴールが用意された企画ではないからこそ、子どもたち自身による話し合い、準備、実行など、それぞれの過程で各教科につながる学びがあることがわかります。
“いわゆる「学級会」のような特別活動としての話し合いの機会、国語の「話し合い」の授業が先にあるのではなく、必要な動機が生まれた時に必要な活動として「話し合い」をする。あとでこの活動を振り返った時に、結果として「話し合い」について学んでいたことに気づく。これが、僕の持つ「暮らし」の中で体験的に学ぶことのイメージのひとつ。こうした学びは、子どもたち自身のリアルとして、暮らしに根付いた生き続ける学びになっていくんだと思う。そして、必ず、教科の学びにもつながってくる。活動が教科を生む。”
他にも『田んぼの暮らしの手渡し方』や『わたしたちの「暮らし」づくり』の始まりもすごく興味深い記事なのでぜひ読んでほしいです。
ちょっと変わったところでは、生徒が書いた『人生初のクマとの出会い(ユナ)』という記事もめちゃくちゃ面白いです。
学校帰りに野生のクマに遭遇してびっくりした体験から、「北海道の約55%の地域にヒグマが、本州の約45%の地域にはツキノワグマが生息している」というような「マクロな生態系の理解」につながったり、軽井沢エリアでピッキオという団体がツキノワグマの保護管理をしてくれているおかげで、クマに遭遇せずに私達は危険な目に合わずに過ごせているという「人と野生動物の関係の理解」につながったり、軽井沢生まれ軽井沢育ちの友達が一度もクマを見たことないことに衝撃を受けつつ自分の中で勝手に「ステレオタイプ」な思い込みをしていたことに気づいたりと、実際の生活や暮らしの中で起きた出来事からの拡がりがとてもいいなと。
もちろん、毎回すべてうまくいくというものでもないこともわかります。例えば『遊びと勉強と学びは、地続きだ』という記事では、「勉強」 = 「誰かの教えに従い身につけるべきことを身につけること」、「学び」 = 「個人のやりたいが連続的に繋がっていくもの(繋がってできた成果)」「自分からありたい自分になること(なろうとすること)」と定義した上で、身近な自然である浅間山を題材に勉強から学びへの転化へのトライとその難しさをシェアしてくださっています。
“「浅間山」を題材に据えたテーマプロジェクト。ここでは、”浅間山の歴史”、”そこに住む人々の想い”、”火山地帯に息づく命”、”大地や地球そのもののエネルギー”、子どもたちの興味に引っ掛かるのではないかというインプット(勉強)を用意した。歴史を紐解き、火山や火山から吹き出る物の組成を確かめ、ハザードマップから火山の隣で生きることの意味にも触れた。結果、テーマプロジェクトを終えて、勉強が学びに変わった子は少なかったと言うのが僕の印象。こちらから手渡した知識が学びのキッカケになることをねらいとしていたのだが、思ったようにはならなかった。”
また、より大きな問いとして、『【第9回】「個に応じている学び」なのに なぜ「学びに向かいにくい子ども」が出てくるのだろう? 』という記事では専門家の目線で以下のように問題提起をしてくださっています。
“風越学園のそれぞれの子どもの関心・意欲・能力に応じた柔軟に学習内容が決められる流動的なカリキュラムは,とても魅力的です。「みなと同じ内容をみなと同じペースで教えられる」学びかたではなく,自分の関心に応じた学習内容に取り組めるような風越学園の教育は,子どもたちのもっている力を発揮・涵養していくことにつながります。本当に魅力的ですし,子どもたちが「変態」していく様に魅了されます。
ただ,今回のトピックでも明らかになったように,個に応じた学びをつくるカリキュラムを作りさえすれば,「すべてうまくいく」というわけでないことにも目をとめておきたいと思います。流動的なカリキュラムを組むことで,トータルな子ども理解のしにくさにつながります。その結果,学びに向かいにくい子どもが出てくることにもつながるのでしょう。”
でも、こういう「うまくいかないこと」も含めて、とても自然なことだと思いました。個人の中にも、暮らしの中にも、遊びの中にも、勢い・熱量・気持ち・気分・機嫌のムラがあるのは当たり前で、日々、完璧に健全でやる気に満ちた暮らしをしている人なんて世界中どこを探してもきっといません。遊びでも何でも、最初からうまくできるなんてこともありません。
現実の暮らしや遊びと地続きだからこそ、そもそもアプローチや解決方法は一つではない。試験の答案用紙におさまる一つの正解を探す作業とは違い、そもそも正解の定義も自分(たち)で行います。それは机に向かって「一つの科目を勉強する」のとは違い、領域横断的な知の使い方が求められる、むしろ知的には負荷の高いタフな行為です。
また、そもそも「何をするか」の前に「自分は何がしたいか」を考えたり感じたりするために、「自分と向き合う」ことが必要です。これも同じくタフなことだったりします。
科学のプロではないので素人解釈ですが、渦を生み出すのは基本的には連続する運動のようです。動き続けているからこそ渦ができる。他の人とぶつかったり、巻き込んだり、崩れたり、形を変えながらさらに色々な動きを起こしていく。そういうタフさを日々学んでいる子どもたちがどうなっていくのか、今後も無数の渦の行く末を見守っていきたいなと思っています。