2022年8月23日
人は誰でもいろんな側面や強みを持っている。それにしても、岡部(以下、こぐま)の中には、3,4人の分身がいるよう。ラボを中心とした造形活動を主に担当しながら、図工室で子どもたちの「〜したい」に伴走するだけでなく、農機具小屋をはじめとする大工仕事をこなす。ベーシストとして様々なミュージシャンと共に演奏を行い、Live Libraryでは企画や出演者のアレンジもする。アドベンチャーのロッククライミングは、こぐまなしには成立しえない。
風越学園での造形活動については、本人が記事を積み重ねていることもあり(上記のスタッフページから読めます)、インタビューでは、とことんクライミングの話をしようと思い立った。2019年の終わりからクライミング熱が再燃したこぐまのおかげで、同じくクライミング病に罹っている辰巳が聞きました。
21年前の2001年、大学の終わり頃にクライミングに出会ってしまった。もともと自然とか山は好きで、でも山頂を目指す登山というより、登山道ではない誰も行かない道を歩いて、一人で森を散策するのがおもしろくて。日本だけでなくカナダとか海外の山にも旅する大学時代だった。
でも、怖がりだからクライミングには手を出さずにいたんだけど、ある時ふと1泊2日のクライミングツアーに応募してみたら、うっかり当たっちゃって。小川山(川上村にあるクライミングのメッカ)まで、電車で行った。最初に登った「ガマスラブ」は手で持つところが全然ないし、トップロープ(*2)とはいえ、本当に怖かった。
この時の体験ツアーは、開拓クライマーでありクライミングカメラマンの飯山健治さんがガイドの一人で、興味半分に色々聞く自分に飯山さんはこう言った。
「今日、 5.10のルートを登れたかもしれないけど、あれは全然初級ですね。昔は5.10を登れたら神様って言われたけど、今は入り口にすぎない。現在(2001年当時)、世界で最も難しいルートは5.14で、自分もこの間やっと登れたルート(「Liquid Finger」5.14a)があるんだけど、それを登るためには、茶碗を持つ手や、座ったり立ったりする時に一切の余計な力が入っていないか?持っている箸の角度やバランスは適正か?とか。日常生活のありとあらゆることに意識を向けないとならないです。そういう世界。」
その時は、クライミングなんてもう二度としないだろうし、へぇー。ってくらいだった。とはいえ、翌日、フェニックスの大岩で、僕らが全く太刀打ちできないルートで色んな登り方を見せてくれる飯山さんの姿は信じ難かった。
運命的な2回目のクライミングは、山にハマっていた親友がどうしても、クライミングをしたいっていうわけ。自分は先にやっていた手前、断りがたくて新宿のICIスポーツで、ロープとか靴とか一式買い揃えて、また小川山に行ったの。あの時は、前回トップロープでできたからなんとかなると思っていたんだけど、今回は自分達で行くので至極リード(*3)、あまりにも無知だった。今なら、この時点でかなりやばいのは、もう明白だよね。技術書は徹底的に読み込んだ。でも、スタイルによる次元の違いというか、命がけの意味をこのとき初めて心底味わった。
最後のプロテクションは足元の遥か下。ここで落ちたらタダでは済まないという状況で、自分の手がかりは、僅かに数ミリ窪んだスプーンのような凹み、もう、次のホールドらしいホールドは何一つない!行くのか。。行かないのか。。。いや、もう、戻ることすらできないほど、手も足も限界だ。。絶望的な恐怖の状況下で、わずか数ミリのくぼみに足を置いて進む以外に、選択肢はなかった。終了点まであと7メートル。牛歩のごとく体を進める数十分…。
これ、たったの2回目の話。もし、ガイドがいたら絶対にリードはさせないでしょ?!しかもビレイヤーは初心者も初心者。これはもう無謀の極致だった。でも、自分の知る限り、異常に優れたセンスと身体能力の持ち主の親友だから、信用してたんだけどね。一方で、その友人は初めてのクライミング、本当に喜んでいたっけ。
この時、初めて経験したリードの恐怖こそが、クライミングという沼に落ちるきっかけかな。そして、その後、どこまでやったら命が危険なのか、逆にどこまで攻められるのか、いろんなところで限界を追究する原点になっていると思う。
__ それからずっと続けられた理由は?
うーん、単純に言うとアドレナリン中毒だと思うんだけど(笑)。本当はもっと深い。岩というのは驚嘆に値する存在で。岩が創造される過程は、種類によって違うけれど、いずれも僕らには計り知れない時と変遷を経て地表に現れる。そして、今、僕らに「ここが登れるぞ。。」と伝えてくる。だから、岩のコトバを聞く人は登りたくなってしまうんだよね。登ることは、自分と岩との対話によって生まれる表現だと思っていて、それは、ここにしかない、今しかない体験。記号化されたものが溢れる社会の中で、自分自身の五感をもって感じる、極めて濃密な質の出来事で、それはもう、驚きであり、喜びであり、登ることを通して新しい自分に出会うことが出来る。本当に楽しい時間だね。これは音楽にも通じるところ。
実は、初めの数年間は本当に初心者だった。せいぜい、5.10くらい。でも、当時の岩場は自分より年長者ばかりの時代で、危なっかしいことしている僕を見て、日本のクライミング界を牽引した錚々たる面々が育ててくれたの。
登り始めて6年目の頃かな、とある岩場に向かってるところで、ふと、青い空に岩が浮かんでいるというか、岩が落ちてくる映像が見えたの。目は醒めているのに夢を見ているように映像が見える。その後も何度もそれが見えて、なんか怖いなと思いつつ、その後ビレイしていたら、自分があらかじめ見えていた状況が目の前で起きたんだよね。登ってた仲間が岩と一緒に落ちてくるの。事前の映像のおかげで気を張っていたから、なんとか怪我なくやり過ごせた。不思議なことがあるもんだなと、でもなんでそんなことが起きるんだろうとずーっと考えてたんだけど、しばらくわからなかった。でも、これをきっかけに、ある日すとーんと、イメージさえ持つことができれば、登ることができるっていうことがわかった。
これを機に、圧倒的に登れるようになった。よいイメージがよいクライミングにつながる、そんな体験が重なって、「登れる」っていうことがどういうことかを確信と共に、わかるようになった。岩以外でも言えるけど、「できる」って思った、確信した瞬間に、道が切り開かれていく。岩を見て、こんなの絶対無理、登れない。と、思ってるうちは本当に登れない。それは、自分の意識が決めているんだね。どうかなーって時は、登っていて「やばいかなっ」て思った瞬間にパンプ(パンプアップのこと。筋肉が張って保持出来なくなる状態)して、本当に落ちちゃう。だから、クライミングは「意識が現実をつくる」ということを自分の身体を通して実感しやすい遊びだよね。「実感」することって、物理的現実と身体感覚が合わさって初めてできると思ってる。
__ クライミングは、失敗が全身で体感できるよね。全力でチャレンジできて、全力で失敗できる。
落ちるか登れるかだから、失敗か成功かは明確にわかるね。とりあえず登れるようにあらゆる可能性をあれこれ考えるんだけど、失敗も含めて面白いの。もっと言えば、クライミングのおもしろさの理由の一つは、失敗するしないはさておき、全力を出さざるを得ない状況に陥ること。怖さを乗り越えたところで、自分の全力を発揮するのが成功のためには必要で、でもそれはとても難しくて普通なかなかできない。ところが、岩を登るとそうせざるを得ない状況に自分を追い込んじゃうんだよね。
__ そうやってギリギリのところで、自分の全力を出して次の動きに繋げていくことを繰り返していると、日常にも変化があるような気がしていて。ふだん私たちが使っている身体の感覚とか機能って、そのポテンシャルのごくわずかでしかないのが、少しずつストレッチされているような。
うん、それはあると思う。使っていなかった感覚を使うということは、自分の思考回路をもう一度新しく繋ぎ直す感じ。だから、落ちても落ちても、トライしながら自分の可能性が拡がっていく。このプロセスは嬉しくて、楽しくて、ひたすら味わいたくなっちゃうんだな。自分の限界にトライするから、失敗して墜落しまくるけれど、進んでやっている人にとって、失敗って何の苦でもないじゃん。これって学んでいるってことだよね。
全身全霊をもって岩や自分と向き合うことは、同時に一切から自由になれる。これは意識を浄化してくれるの。
登るためには、動きや手順、岩の形状、天候、自分の食べるもの、考え方、可能性は何でも探るよね。そして、自分にとってその課題が本当に難しい場合、何度も何度もイメージして、その上で意識が自由になった時、無心になった時に初めてそれが可能になる。身体が自動的に動くというか、自分が岩と調和して自然に登れちゃう瞬間がある。
じゃあ、はじめから意識を変えて、執着を捨てて登りゃいいじゃんと思うけど、なかなかできなくて。意識を変えるっていうことは簡単なようで、本当に難しい。一方で、いとも簡単で単純なことでもあるっていうことを、初めてクライミングをした日に、飯山さんから聞いた「Liquid Finger」(伊豆・城山 5.14a→5.13dにグレード変更)と向き合うことになり、このルートを通して教えられた。
「Liquid Finger」はルートの下部から、傾斜135°くらいの核心に入っていくと、ホールドが第一関節もかからないくらいなの。強傾斜で一瞬も気を抜けず、休むホールドもないから、次のホールドを取るまでのムーブ(動きの中)でレストを意識する。このセクションだけで50回くらい落ちたから、今でもその手が再現できるほど。初めは本当に面白かったんだけど、登りたいというワクワクが執着に変わり始めてから、本当に登れなくて。いつの間にか、クライミングが楽しくなくなっている自分がいた。
これはもう、どんなに全身全霊を以てしても、自分には無理なんだ。って思って一度あきらめたら、熱まで出ちゃって。そこで執着が断たれたのかな。9ヶ月後の次のシーズンに何気ない気持ちで登ったら、一発で登れちゃった。「あれ取らなきゃ落ちる。絶対取ってやる。」ってこだわりが、身体の微妙な強張りを生んでたんだよね。
その後もしばらくは色々な高難度ルートをやったけど、結果的にはこれが原因で燃え尽きちゃって、そこで一度引退しました。
今は自分にできることもあるし、できないこともある、ってのを以前より平静に受け止められている。執着を捨てた上で、岩と自分とフラットに向き合っている気がするな。
__ 授業の準備でも、「一旦全部考え抜く」っていう話をよくするよね。
大人が仕掛ける授業で、子どもの熱量高く没頭できる環境をつくるには、インストラクション(最初の導入)や材料、声かけ、環境、子どもの見とり、子どもの意識・無意識に入る、入ってしまう全てを、一旦は全て徹底的に考え抜く必要があると思う。毎回完璧にはできないけれど、一旦考え抜いて完全に腹落ちした経験があれば、そのあとは流れに任せても自然に生きてくるんだよね。
クライミングのルートで言うなら、あらゆるホールドやムーブの可能性、岩質、クリップ、天候も含め条件があるでしょう。この学年の子たちは、こういう材料を目の前にすると、こういう気持ちだろうな、これまでにこういう経験を積んできてるな、などの条件を可能な限り想像して想像して、その条件の中でよい方向に進みそうな状態を考えていく。でも、子どもたちは生きているから、授業って条件が変動しやすい。いつも過ごしている家やグループの影響を受けているから、想定しきれない部分が多いけど、それでも始まるギリギリまで考えちゃうな。
__ 去年から始まったアドベンチャーでは、子どもたちをロッククライミングに引率することになりました。
学校の授業で岩場でクライミング。こんな学校、他にないよね。でも、教えるというより、自ら無心で全力を出してしまうような、時間をつくりたい。子どもたちには、こういうふうにしたら登れるよとか、あんまり必要ないと思ってるの。クライミングはやりたいなら自分で探究できるから、周りで誰かがあれこれ口出す必要はあまりない。でも学校でやると、その日だけの体験になっちゃうからね。本当は繰り返しできるといいんだけど。自分の気持ちがあれば、登れなかったとしても得るものがある。一方で、やりたくないし、登れなかったっていう経験になっちゃうと勿体無いから、やりたい子がやれるといいね。。その人にとって自分に意味があることの最適なタイミングって、本人が無意識に知ってるもの。やりたいって思わない時は、その時じゃないと思う。
何はともあれ、僕にとってクライミングは本当に楽しいわ。一日が30分くらいに感じるね。でも、こんなに全力出しても、誰のためにもならないし、一見なんの役にも立たないことってのがまたいいの。そのほうが尊い気がする。楽しみながら考えて、衝動とか執着を手放した先に、よりよくなっていけると思うから。
*1 ) 5.12aとは国際山岳連盟(UIAA)による、クライミングの難易度を示すグレード。デシマルグレード。5.と形容される場合は墜落があることを踏まえ、ロープによる確保が必要なルートを意味する。2022年現在、5.1〜5.15まであり、5.10以降は一桁の中でも難易度順にabcdと細分化されている。
*2)トップロープとは、ルートの終了点に予め支点とロープを設置し、クライマーが墜落することなく安全が確保された状態でのクライミング。主に練習やリハーサルで用いられるスタイルだが、非常に易しくなるため、正式にルートを登ったことにはならない。
*3)リードとは、カラビナなどのプロテクションに、登りながら自分でロープをかけていく正規のクライミングスタイル。墜落した場合は直前のプロテクションまで落ちることになる。なお、リードで登ることで、正式にルートを完登したことになる。