2021年3月24日
2月4日の夕方、何か下心がありそうな表情でユーミンがやってきた。
「しんさん、明日の9時からって時間ありますか?」
「え?なに企んでるの?」
「明日、年長児に卒園まであと何日の集まりやるんで、その進行をお願いしまっす!」
「前日の夕方にそれ頼んでくる…。カレンダーとかつくっていい?」
「おねがいしまっす!」
ということで、卒園までの6歳の活動に巻き込まれたのだった。
うれしい。
この6歳の活動って名前あるんだっけ?
今日(3月3日)ちょうど決まって、「かぜロケット6号」。
その「かぜロケット6号」のはじまりから、話を聞きたいんだけど。
え、はじまり?はじまりはそれこそしんさんとやった2月5日の「あとなんにち?カレンダー」の集まりですよ。
はいはい。それはわかってるんだけど、その前のところの「どんな願いからスタートしたのか」を聞いてみたいなと思ったんだよね。
何に?
小学校への意識と、今の仲間がそれぞれちがう場所に旅立つということへ意識かな。それで「どうせ始めるなら、ワクワクした感じから始めたいね」と、2月5日の午後の時間にこっそり6歳になった自分たちだけで集まる時間をつくることにして。「謎の招待状」を送ったんです。
2月5日の朝、子どもたちが登園したら、
自分のロッカーに謎の招待状が貼ってあった。
あれ、おもしろかったね。(笑)。招待状には、なんて書いてあったんだっけ?
「2がつ5にちきんようび 9じ おとこむらへ」とだけ。誰からのメッセージかもわからず、その謎のメッセージだけが書かれていたから、それにワクワクする子もいれば、見て見ぬ振りをする子もいたし、訳が分からなくていつもの生活を送る子もいました。その感じが面白かったけど、どう声をかけたらいいかはすごく迷って。ハジメがいつも通り惑星の集いのところへ行っちゃった時には、リリーに「こっちだよ」ってしてもらうようにして。
あれ、そもそもかぜロケット6号はゆーみんが担当になったんだっけ?
「かぜのとおりみち惑星」に一番6歳の人が多いから、その流れを汲んでいたほうがいいねって。でも、私とリリーがまた組んじゃうと、それはかぜのとおりみちになっちゃうから、私だけが入ることになりました。それで、私以外にもいろんな大人に関わってもらえるといいなーとは思ってたんだけど、みんななんだかんだ忙しい。なかなか他のスタッフに入ってもらうことは難しかったところ、しんさんに最初に手伝ってもらった流れで、そのまましんさんが「6歳の人」になってるんです(笑)。
そっかそっか。でも、スタートのところでいつもと違うぼくが入ったことで、「あれちょっと違うぞ」っていう感じにはなったよね。
うん、それはすごくよかったなあって。
謎の手紙で集まった初日の「あとなんにち?かれんだーの集い」はどんな感じで振り返ってる?
初日は、今までにないワクワク感と緊張感が混ざってた感じがあった。普段自分たちだけで入っちゃいけない森で集まること、普段とは違う大人がいること。いろんなことが重なった中で、「じゃあどうしたらいいんだろう」と自分たちで考えるあの感じは、ホームや惑星では味わえないものだったんじゃないかなあ。しんさんはどう思います?
「おおきくなるっていうことは(中川ひろたか/童心社)」を読んだあと、一人ひとりに「どんなところがおおきくなってるって感じてる?」って聞いたじゃない。その時に、みんながそれぞれの言葉で語っていたなと思っていて。ケイは「おおきくなっているときにはわからないけど、おおきくなったらわかる」って言ってたよね。まさにそれを今、感じているんだろうなって思ったかな。
次の日の6歳の集いでは、おわりの日までにやってみたいことを出し合う話し合いをしたんだよね。
「(卒園するまで)あとなんにち?かれんだー」を見ながら、それまでに何をしたいのか話をした時に出たものを集約すると「森で遊ぶ」「ピクニックに出かける」「なにかをつくる」の3つになったんです。でもそこまでに話し合いでたどりつくまでに、「バスにのって、かみをつくりにいきたい」とか、「1ねんせいになるまえにべんきょうをしてみたい」って出てきて。それって、後期(3年生~7年生)までの人たちがやっていたことじゃないですか。そういうおおきい人の姿が記憶に残ってるんだな〜って驚きました。後期の人たちのことを知らないようで知っているんだって。
影響を受けてるんだね。
後期だけじゃなくて、しんさんと保護者がやっていた「森の日」の木を切る作業とかもそうで。保護者も一緒にやっていた作業だったから家で話題になったのか、目で見て「私もやりたい」と思ったのかは分からないけど、月のうさぎ(年少を中心とした惑星のひとつ)が「しんさんのお手伝いをやりたい」と言っていたのとは、また違う“やりたい”だなーという気はして。
“やりたい”の種類が違う?
やる工程が分かっているやりたいというか、わくわくを楽しむというか。経験して満足というレベルじゃないんだなと思った。「したい・やりたいを実現できる自分たちであってほしい」という大人の願いもあったので、どんどんみんなのやりたいを実現できたらなと。
たしかに、もうちょっと話し合いに時間をかけるのかなと思ったけど、トントンと始まったもんね。
話し合いはそれぞれの惑星で結構してきてたんです。わくわく星は、バナナ鬼とケイドロどっちからやるかとか話し合っていたし、かぜのとおりみちも、ケイドロをやっている時に「ルールがちがう!」って一人が叫ぶと、そこでみんなで集まって話し合う…みたいなことをしていて。自分たちで話し合って日常の流れをつくるみたいなことはたっぷりしてきていたから、ここでは「したい・やりたいを実現するサイクル」みたいなものをつくることを大事にしたいと思ったんですよね。
それで、すぐに森へ行ったのか。
そうです、そうです。
「森をまっすぐ歩く日」はさ、誕生日が遅い人順に先頭を歩いたのがよかったなと思っていて。2月生まれのソノちゃんが一番最初だったよね。みんなで歩くというよりも誰か一人の歩きに、みんなが着いて行くという経験になったよね。ただ森をみんなで歩くのだと、いつものメンバーが先頭にきていつものメンバーでああだこうだ言いながら歩くことになっただろうけど、それとは違う歩き方ができたよね。
「ソノちゃんからやろう」と伝えた時のいつもリーダーシップをとるメンズたちのあっけにとられる感じというか、足取りが遅くなった感じは、いつもと違う動きになり、すごくいいぞと思った。
今回、それに加えて「まっすぐ歩く」というテーマを持って歩いたじゃない。その「まっすぐ」をにコンパスという道具を基準にしたんだよね。それによって子どもたちの動きや判断が結構掻き回されてた…。コンパスを使ってみることはぼくのアイディアだったけど、使わないほうがよかったかもなぁとは思っている。ただ、使ったことでいろいろなことは見えたんだけど。
一番手だったソノちゃんは、コンパスが自分の行きたい方向を示していなくてもずんずん進んでた。ところが、なぜかは分からないけど森ではなく道路を歩いてた人もいたし、行きたかった方向とは全然違う森の奥にどんどんどんどん歩いていった人もいた。
コンパスを使わないで「一人ひとりが思うまっすぐで行きたいところまで歩く」とすればよかったのかなとも途中で思ったんだよね。コンパスという外からのモノサシを与えたことで、それに縛られて不自由になる子と、外からのモノサシがあっても気にならない子がいて。いろいろ感じたな。ユーミンは、どんな風にみてた?コンパス。
最初、しんさんがコンパスの使い方の説明してくれたけど、私もよく分からなかったんですよ。でも六番手の人くらいの時に「あれ、コンパスって、まっすぐだと思う方向にある対象物をコンパスで確認して、その対象物に向かって歩いて、その目的についたらまたコンパスで照らし合わせて微調整して…ってやるんじゃなかったっけ?」って気付いて、ようやくもどかしさを感じたわけです。「こうやって使ったらいいんじゃない?」って言ってもいいけど、子どもたちは今、なぜかコンパスに信頼を置いてるぞ、と。
新しい道具を持つことの嬉しさもあったんだろうね。
そう。それに、進む方向を決める先頭の子よりも先に行っちゃう子たちが、「何を信じればいいか」ということに気付いて戻ってくるあの感じもすごいよかったなあと思って。
だから結果としてコンパスを用いてよかったとは思ってってるけど、大人がすごく試された。子どもが物を持つと大人がすごい試されるんだよなあー。
はいはいはい。
もしあれが3人くらいでの活動だったら、全然苦じゃなかったけど、16人いる中でコンパスを持ったことで1メートル進むのに10秒かかるみたいな感じは、大人としての立ち位置を問われるなという感じがした。子どもが、というより。
この日、僕が一番安心したのは、お弁当の時かな。ユウダイが歩いた先で「はい、ここでおべんとうです」って自信満々に言ったじゃん(笑)。そしたら周りのみんなも僕ら大人には確認取らずに、ユウダイが言うならここでお弁当なんだって準備し始めて、そこは育ちとして「おぉ、いいねいいね」と思ったな。
しかも、ユウダイは鉄塔の方で食べたい気持ちがあったから、コンパスを鉄塔に合わせていた感じがあったんですよ。「みて、てっとうのほうむいてる!」って。
そのまっすぐでいいんだよね。
うん、そのまっすぐがいい。
「森をまっすぐ歩く日」から3日後の「6才、西部小まで7キロを歩く」。あの7キロが充実してましたよねー。
あの日、歩き始める時、ユーミンは「しゅっぱつー!!」って指揮とらなかったよね。大人ってそうやって音頭取りをやってしまいがちだけど。出発するまでも少し時間がかかったけど、子どもたちが出発したいタイミングで出発した。
もうこの時期は、どう始めるのかも、どう深め、どう広めるのかも、自分たち(子どもたち)次第じゃないですか。もう一年間一緒に過ごしてきた仲間だし、ここで私がまた「行くよー!」とか言うのは違うなと思って。
出発して1㎞も進んでない風越公園の公衆トイレのところでさ、
じゃんけんしていたところですね。
そうそう。みんなトイレから出てきているし、信号も青になっていて、出発しようと思えば出発できるけど、子どもたちはじゃんけんで盛り上がっていて。リュックサックを全然背負いそうもないのに、ユーミンは何も言わない姿を見て、「あ、これは声をかけないでいくパターンなんだ」って思ったんだよね。
いや、なんかすごい楽しそうじゃなかったですか?
楽しそうだった。まだちょっとしか歩いてなかったけど(笑)。
7キロ先の西部小まで行ってみようという呼びかけではあったけど、辛い思いをして、歩き切ることに目的は置いてなかったし、それは求めてないよなと思って。まぁ最悪15時に着けばいいし、まあいいかなーと思って、あのトイレのところは見てたんですよ。
そしたら、その先のスケートリンクのところでも、氷のメンテナンスの様子をながーく見てたじゃないですか。まだトイレから100メートルも進んでないのに(笑)。塀をよじ登れたおもしろさもあったと思うんですけど、その時はさすがに「やっぱり声かけようかな」と。でもなあ、声かけてただ先を急いで歩くのはつまらないしなーと悩んでたら、ガクが「ねぇ、あるかないの?せいぶしょういかないの?」って私に言ってきて。「でもみんなまだあそこで見てるね」って返したら、声かけに行ったんですよ。
そうだったんだ。でもたしかにゴールはしたけど、ゴールを目的にはずっとしてなかったよなあ。それこそゴミ拾いだってさ、あれ全然予想もしてなかったよね。「なんでこの子たちこんなに歩きながらゴミ拾うんだ?」って不思議だった。
その前の「森をまっすぐ歩く日」にヒナタが森の中のゴミを拾ってたじゃないですか。そこの意識なのかなあって思って。
それにしても西部小までの道のり、ものすごいゴミの量でしたよね。カオルなんてリンに袋をもらうくらい拾ってた。
カオルとリン、最後西部小で喧嘩してたよね?「これはおれが拾ったゴミだ」って。そこで喧嘩するんだって(笑)。
そうなんだ(笑)。
あとルカね。よく持ってたよね。かなりの量のゴミだった。
家まで持ち帰ったんですよね、分別するって。私は西部小に着いたら牛木校長先生とかに、「ゴミお願いします」って言うんじゃないかって思ってたけど、そういうのはないんだって。
風越をスタートして少し経ってからゴミを拾い始めて、結局最後まで拾って。頼もしく見えたよね。ゴミを拾うことで時間はかなりロスしてたけど、やっぱりゴールするのが目的じゃないんだなとも思ったし。
そうですよね。でもまぁ今日のツルヤまでの道では誰もゴミを拾わなかったけど(笑)。
なんなんだよ(笑)。
彼らの「やりたい」ではじめたことをやると、こんなに自信がつくんだというか、ますますいろんなことにワクワクするんだって思っていて。
それは、大人が経験させたいと思っていることをさせるんじゃなくて、本当に子どもたちがしたいと思っていることを一緒に実現していくという感じなのかな。
そうですね。ぶっちゃけて言っちゃえば、大人の考えひとつで、子どもの気持ちを他の方向に持っていくこととか、大人が考えた活動をやっちゃうこともだって出来ちゃうわけじゃないですか。
そうしたって、子どもたちは楽しむとは思うんですよ。でも、「あと十数日でもっと輝くんじゃないか」と私も期待したし、子どもたち自身も期待し始めた感じがあって。「やりたい」に本当に寄り添わないとバレる感じがしたんだよなぁ。
その「輝くんじゃないか」という輝きって、外から見た変化だと思うんだけど、子どもたちの中では何が起きているんだろう。何かが起きていて、それを外から見ると輝きなんだと思うんだけど。
一歩前へあゆみを進めることが怖くなくなったという個々の心の中で起きている変化もあるだろうし、あとは、お互いへの信頼が生まれたというのが一番あるんじゃないかなー。今日も塩沢湖の手前でテニスコートの方と18号線にでる方とどっちが近いかという話になったんですけど、「こっちだとおもう」「あっちは、こうじしてるんだよ」っていろいろ言い合ってたんですよ。ああ、言い合える関係になったんだなあと思って。
個々が輝くっていうよりも、関係性や信頼の話なんだね。
個は、それぞれに元々すごい世界を持っているじゃないですか。それはそれでいいんだけど、それを活かし生きていくためには、その周りの環境だったり、人間関係が大事になってくる。そこの部分を築き始めた感じがするんですよね。人間らしくなってきたというか。
大人が経験させたいことを経験することと、子どもたちがしたいことを経験することの話で思い出したのが、カリキュラムのことなんだけど。今年は前期のスタッフ、ずっとカリキュラムのことを考えてきたじゃない。その時に「カリキュラムのねらいはなんなのか」というやりとりがあったというのを聞いて、そのねらいを実現するためにどういう手立てや、環境構成、時間をどう使うのかということに苦しさだったり、悩みがあるんだろうなというのを感じていたんだけど、その“ねらい”が“願い”というかたちになると、ちょっと見え方とか取り組み方も変わってくるのかなって思ったんだよね。
今回、6歳で西部小へ行ったり、KAIさん(甲斐崎)の授業を校舎の中で経験したりしているけど、そこに”ねらい”はなかったんじゃないかなと思っていて。ねらいではなく、”願い”があったんじゃないかと思うんだよね。
西部小に行った時は、西部小にゴールするという目的より過程を楽しんでほしいという願いがあったかな。今はまだ小さくて一歩が短いから、ゴールに到着するのには時間がかかるけど、その分、足元にあるものに目が行き、出会える世界があるじゃないですか。でも、小学校にあがって一歩が大きくなると、目的地にはすぐ到着できるかもしれないけど、気づけなくなることもあると思うんです。だから、早くゴールすることだけを目的にした学びや遊びだけをしてほしくない、っていうとあれですけど、そういう思いも込めてたかなー。
KAIさんの授業は、「学び=鉛筆と紙を持ってやる」というイメージが子どもたちに強かったから、後期のプロジェクト、いわゆる紙とペンの学びじゃない学びを伝えたくて、後期のプロジェクトに入ってみるのはどうかな?と思ってたんだけど、「それもいいけど、1・2年生の真剣で真面目な感じも体験してみるといいんじゃない」とさやさん(岩瀬さやか)に言われて、KAIさんにお願いしたんです。
私としては、真面目な感じを体験した後、「学校なんて行きたくない。ずっと遊んでたい!」という気持ちが芽生えたら、それはそれでいいなって思っていたんですけど、授業後「こんなにはなまるもらった!」ってめちゃめちゃ喜んでいて(笑)。
その日の幼児のスタッフミーティングでは、「丸の威力はすごいね、でも丸ってなんなんだろうね」って話になりました。丸って何をもって丸なんだろうねって。
KAIさんはその日、ひらがなを書いたあとにその紙の裏にそのひらがなから始まる言葉をいっぱい見つけるというのをやってたんですけど、その紙の表のひらがなについた丸が、幼児のスタッフはなんだか気になって。読めれば丸なのか、丸つけをする担当の大人がきれいだと思ったら丸なのか。
幼児の生活には丸って存在がないんですよね。ひたすら自分で考えて、考えて、考えて、なのに大人は決して答えを言わない。「どう思う?」「どうしたらいい?」って、そうやりとりして隣りにいる。だからこそ、学ぶ経験をしてもらった丸という正解は嬉しかったんだろうなと思ったし、簡単というか、違う方向の頭を使わないでできることなんだなとも思ったんです。
幼児期には外のモノサシがなく、自分のモノサシで進みたいほうに進んでいた子どもたちが、森のコンパスでは不自由になった子が多かったけど、外の他のモノサシである丸には上手に反応したというか、今のところ不自由になった人はいなかったんだね。
丸をつけてくれる人がいなかったり、コンパスがまっすぐだよって教えてくれない状況で進んでいくのは難しいと感じる人もいるかもしれない。でも、僕の願いとしてはそれがなくても自分のモノサシで進んでほしいというのがある。西部小までの7㎞はそうだったなって思うんだよね。前に進めなくても、遊びたいところで遊び、疲れたら休む。でもやっぱり彼らは着きたかったから、途中でごはんを食べるという声には賛同せず進んで、辿り着いたら辿り着いたで、お腹空いてるって言ってたにも関わらず、まずは遊ぶ。自分たちのしたいようにしていった結果、ちゃんと辿り着いたわけだけど、それは僕らのモノサシで辿り着かせたわけではなく、16人で行けたんだと思うんだよね。だからその子どもたちの姿と、丸の話と、森の中をコンパスで歩いた話って、繋がっている気がしててさ。
風越で幼児期を過ごした子どもたちが、これから義務教育学校の9年間でどう過ごすのか。どうカリキュラムをつくるのかというのは、今回の卒園前の6歳と過ごしたの時間で改めて考えなくちゃいけないなって思ったんだよね。やっていること全然違ってくるわって。
子どもがひらがなを何個か書いて持ってきた時に、「ユーミンはこの形の“し”が好きだな」って言いたいなって思いました。丸をつけずに。絵と同じ感じの学びはできないのかなーと。だって、幼児と小学生が同じ場所で生活するってなった時に、小学生がひらがなを勉強しているところに幼児がきて「わたしもやりたい!」って、よく分からないけどなぞって、そこにはなまるをもらうって意味がないんじゃないかなと思うんですよ。絵を書いている子と同じようにひらがなを書いて、「どっちもすてきだね」って言えるのが、今の私の理想だなと。
でもあれだね、今回のかぜロケット6号の時間は、やりたいを実現していくのを短いスパンで、しかも個人のやりたいではなくて16人のやりたいを繰り返していったね。
もしかしたら「やりたくない」と言い出す子もいるんじゃないかなと思いつつ・・・
でも、誰かのやりたいに乗っかってはいるよね。
ソノ、マハル、ヒナタ、ユイの4人で散歩に出かけた日があるんですけど、ヒナタがずっと下向いて歩いてたんですよ。だからいやなんだろうなって。でも帰り道にソノが白線の上を歩いていったから、このままだと別の道に行っちゃう、行きだったらいいけど帰りだからなぁと思って、「あれー、こんな蜂の巣あったっけ?」と声かけたら、ソノ「ここはおうちのちかくだからこっち」、マハル「あれ、ちょっとまって」、ユイ「え、どっちなんだろう」って。それでしばらく話し合ってから、ユイが「ヒナタどうおもう?」って聞いたら、「いきはこのみちはこういったから、こっちじゃなくて、あっちにいくんだよ」ってヒナタが言ったんです。下向いてるだけじゃないんだ、ちゃんと見てたんだ、しかも会話にも入ってたんだと思って。目的でいったら、ヒナタ的にはもしかしたら違うことがしたかったのかもしれないけど、でもあの中での自分の存在というか、ちゃんと自分もそこの一人として参加しているんだなという感じが印象的でした。
したい/したくないで言うとわからないけど、参加する/しないで言うと、それぞれ自己決定している感じだよね。
そうそう。今日も、リンくんとカオルくんが泥のところに何かを落としたとかなんだとか言って、カズヤはその様子を見てて散歩の時間になっても来ないから、3人は置いてくことにしたんですよ。小学校になったら全員連れていかれるだろうから、ここでは置いていかれる経験もしていいよねって。それで、3人には何も告げずに出発しちゃったんですけど、体育館のあたりまで来たところで「3人が走り出しました」ってトランシーバーで連絡が入って。「じゃあ、連れていきます」って結局は一緒に行ったんですけど、今までだったらもう置いてかれたんだって諦めていたかもしれないところを、走って、しかもカオルは泥んこのまま来て。自分で決めたんだなーと思ったら、頼もしかった。
「散歩に行きたい」という自分の気持ちから行動したのと、同調圧力的ではない一体感みたいなものもあったんだろうな、「おれ、6歳だし」みたいなさ。そういう気持ちが育ってきているんだろうなあ。
(対談:2021年3月3日)
何をしているのか、何が起こっているのか、ぱっと見てもわからないような状況がどんどん生まれるといいなと思っています。いつもゆらいでいて、その上で地に足着いている。そんな軽井沢風越学園になっていけますように…。
詳しいプロフィールをみる