この地とつながる 2022年12月24日

感覚的なことを積み重ねること〜田んぼや外環境の活動から〜

斉土 美和子
投稿者 | 斉土 美和子

2022年12月24日

軽井沢の晩秋はあっという間のかけ足で過ぎていく。田んぼの稲刈りを終え、脱穀、堆肥撒き、畑仕舞い・・。いつの間にか景色はすっかり冬になっていた。

今年の田んぼのお米はまずまずの出来であった。夏のひどい暑さ、雨がゲリラ的に一気に降るような異常気象はあったものの、はぜかけで天日干ししている間に台風が来なかったことは唯一の幸い。お米はもとより馬や羊たちの餌になるワラが、乾いた良い状態で収穫・保存出来たことがなによりうれしい。人間の食べるお米はツルヤ(地元スーパー)で買えるけれど、無農薬のワラは売っていないから。

今年の春から、風越学園の庭にも田んぼが出現した。それは本当にひょんなことから始まった。

まあるい田んぼ作り

学園の1年生が私の追分の田んぼに種もみ蒔きに来た日、僕たちもやりたいと9年生のオカショーと8年生のキヨも田んぼへやってきた。全部の苗床に種もみを蒔き終わったのに、まだ少しだけ種が残っており「学校でもこれを種まきして田んぼを作ればみんな毎日お米を見られるんじゃない?」と言い出したのだ。

あれよあれよという間に学校の芝生をはがし、二人で田んぼを掘り始めた。

「小さな子たちも遊べるように丸い田んぼにしない?」
「かわいい感じのね。」

学校の校庭の土は砂利が多くてかなり固く、苦労して何日もかけて穴を掘り続ける二人。時々雨が降ると水がたまるが、すぐに沁み込んで次の日にはもう水が無くなっている。

「こんなにすぐ水がなくなるんじゃ、お米ちゃんと育たないんじゃないかな。」
「なんで田んぼには、あんなにいつも水たまっているんだろう。」

その後また二人が田んぼに代かきに来て、幼稚園児と一緒に泥を踏みならして柔らかくし、昔は牛が引いていた重たい木の道具で平らにならしていた時のこと。裸足で土を踏みしめていたキヨが「なんか深いところに石がある。足の裏に当たるんだけど。」と気づく。私は「田んぼの水が抜けにくくなるように田んぼの一番下には大きな石が敷きつめてあって、その隙間に泥が挟まって水が抜けにくくなると爺ちゃんが言ってた。」と伝えた。この辺りは浅間山の噴火の火山灰が積もった場所で、水が抜けやすいから田の土に石や粘土を混ぜたと聞いたよ、とも。

たしかに既存の田んぼには「床」と呼ばれる岩盤や石を堆積させた層があり、トラクターで耕運するときも「床こわすなよ、水もれるからな。」と地元の爺ちゃんたちは気を使っている。それを聞いてキヨは「じゃあ学校の田んぼにも石を入れたら水が溜まるようになるのかな。」と、次の日から幼稚園の子どもたちにも手伝ってもらって、学校の田んぼに大量の石を投げ入れ、踏み固め始めた。

さらに学校に田んぼを掘る過程で「土が固い、ジャリジャリする。」とオカショーは土の具合が違うことに気づき、「わこさんの田んぼで代かきした時ドロッとしてて踏み込むとムニュっとした、あの感じがしないんだよね。だから水がすぐ抜けるのかな。」学校の固い土ではすぐ水が抜けてしまい溜まらないと稲が育たないのでは、と田んぼや畑から土と堆肥を運びこんだ。この頃から9年生のウタも作業に加わり3人で手や足を動かしていた。

一ヶ月以上かかり私の田んぼではもうとっくに田植えも終えた頃、石と土を層にして入れたまあるい学校の田んぼはやっと出来上がった。

余った種を苗床で育てた小さな苗は、3人の手で丁寧にまるく田植えされ、そよそよと風越の風に吹かれていた。雨水を利用しようと雨水タンクから田んぼへ水をひいて水位を調整するための池まで掘り、なんと水を入れて二日目にはアメンボが泳ぎ始め、一週間でカエルの鳴き声が聞こえ始めたのには驚いた。

どうやったら伝わるのか 伝えられるのか

この田んぼが、今年の「いのちのつながりづくりプロジェクト」ワークショップの外環境作りの発端となり、劇的に変化した庭全体の主軸にあることは、綾さん(遠藤)の書いた記事に詳しい。

田んぼから低い場所に川を流し循環させることを考えた子どもたちは、幼稚園から中学生までみんな一緒になって川底の浅間石を運び、太陽光パネルでポンプを動かし雨水を循環させた。しばらくすると川ではゲンゴロウが泳ぎ始め、暑い時期には水遊びにもうってつけの場所になった。

このワークショップを開く前に三人に、学校の外環境作りをやろうと思っているんだけど一緒にやってみない?学校の子どもたちや保護者にもやってみませんかと呼びかけたいんだけど、どうやって告知するのがいいかな・・なんかtyphoon(保護者と子どもとスタッフで使っているオンラインコミュニケーションプラットフォーム)で知らせるのとは違うアナログなやり方ないか・・と相談してみた。それはちょうど私の田んぼに草取りに来ていた日、たまたまバッグの中に絵本と一緒にお絵描き道具も入っていて、ウタは「ポスター描くか。」とクレヨンと画用紙を広げた。

どんなことを伝えたいか考え、土の手ざわり、水の冷たさ、風のそよぎ・・などの言葉を羅列してみて、三人でワークショップ初日の題名はささっと決めてしまった。

「風越の自然を五感で味わい作る7月11日」


キヨ「学校の校舎と丸い田んぼと描いてさ、人工物と自然のものの対比、みたいな。」
オカショー「人の手で作る、ってことで手を入れるのは?」
アイディアもどんどん出てそれをウタはささっと下絵にしていく。以下描きながらの三人の会話。

「こういうのってウタはほんとはパソコンでささっと描けちゃうんでしょ。」
「うんまあ今は色々簡単にもできるね、でもそういうので簡単に描いてもなんかそれなりのっていうか。」
「いい絵にならないってこと?」
「いや、そこそこ面白いものは描けるけど伝わるものがそれなりにしか伝わらないっていうか、手で描いたほうが手触りとかね、伝えたいものは手で描いた方が伝わる感じするよね。」
「手触りってデバイスだと伝わらない感じする。」
「ああそれわかる、パソコンの画面通してじゃ、さらに伝わらないかも。」
「だから紙に手で描いた方が伝わる気がする」
「じゃあtyphoonじゃなくてやっぱ紙のポスターがいいじゃん、実際にそれ見てもらったほうが伝わるでしょ。」
「学校のエントランスとか駐車場に貼ればいいんじゃない?」


ウタが下絵を白黒で描いた後に、あーでもないこーでもないとワイワイ言いながらクレヨンで色を重ねていくと、いつの間にかポスターが出来上がっていた。

この時の三人の会話に私は心底感心していた。確かに便利な世の中だ、検索したり描いたりと簡単にできるツールは山ほどある。でもそれを使うか使わないか、伝えたいことをどうやって伝えるか、どうすると伝わるか、それを自分たちで考え自分たちの手で選んでいることに感動すら覚えた。デバイスを与えることで起こる弊害や大人が危惧していること、簡単に手渡せることと出来ないこと。そんなことをちゃんとこの三人は感覚で捉えているではないか。

出来上がった丁寧に色を重ねたポスターを前に、このワークショップを絶対にいい時間にしていかなくちゃと決意を新たにした。

体感して捉えたことを言葉にする

一方、4年生のチヅルは、私の追分の田んぼの一角で「自分の田んぼ」をやりたい、と四角く仕切って水を溜めた中に田植えをしていた。学校ではなく自分が住んでいる地域の昔から田んぼをやっている場所で、自分の田んぼをやってみたい、と。

「ちー田んぼ」と名付けたそこに、チヅルは通い続けた。春の前にする田んぼの水路の掃除に始まり、種籾の選別から水に浸して芽出し、種もみ蒔きからトンネルの苗床作り、苗ができてくると田んぼの代かき、いよいよ田植え、水の管理、夏の間の草取り、ついに稲刈り、はぜ掛け、脱穀・・。ほぼ田んぼのお米の作業の全てに関わり、自分の田んぼの仕事を自分の手でやってのけた。

この作業の過程をチヅルは「田んぼにっき」に記録してきた。

彼女はとてもよく本を読むからか、表現の語彙が豊富だ。田んぼの記録にも面白い表現がよく出てくる。例えば、田植えの日の記録。

「私の気持ちは、どろとちがいまりのように弾んでいました。」

秋、田んぼが黄金色に色づいてきた日には

「田んぼを上から見ると、きれいにほうそうされたプレゼントみたいだったのです。田んぼはいったいなにをプレゼントしてくれるのでしょうか。」

表現豊かな彼女の言葉を見るのはいつも楽しみだった。

そして12月のアウトプットデイで写真やこの記録を整理して、これまでやってきたことを発表したいと決めてからの怒涛のような表現・表出は、特筆すべきエネルギーに満ちていた。彼女はほぼ1〜2日のうちに写真にキャプションをつける作業をやり終えてしまった。

ここにも気持ちをこめた豊かな表現があちこちに出てくる。

「芽が育ってきました。稲とよぶのにふさわしい姿になってきたと思います。」

熱中してキャプションを書いているチヅルの姿を見ていて、春から田んぼで感じてきた、体感して感覚的に捉えた様々な事象は、ある程度の時間が経っても色褪せず残っているものなんだなと感じた。これが検索して調べた知識だったり誰かに教えてもらった受身な知恵だったりしたら、ここまでスラスラと溢れ出て来て書けるものだろうか。

伝えたいこと つながっていくこと

アウトプットデイでは、このチヅルの田んぼプロジェクトの発表のほかにも、いのちのつながりづくりプロジェクトで外環境を作ってきたメンバーの発表があった。オカショーたち三人の田んぼを発端として、川作り、スパイラルガーデン、畑、アースオーブン(ピザ釜)作りなど、春から進めてきた環境作りを分担し、それぞれ自分がまとめた内容を持ち寄っての発表だった。

ここでも大人がなにも手を貸さなくともメンバーはさっと写真と文章をドキュメントにまとめて来て、リハーサルも必要ないくらいの完成度。しかも実際にそれをもとにしてそれぞれが自分の言葉で、少し前のことでも詳細に昨日のことのように語っていた。

観覧者から「いのちのつながりづくりプロジェクトという名前と今回の活動は、それぞれ自分たちの中でどんなふうにつながっているのか聞かせてください。」みたいな抽象的で少し難しい質問が出ても、

シュウゴ「川を作ったら水辺にしかいない生き物が来てくれたり、食べたり食べられたりと物理的に土に還るってことだけじゃなく、それを作ることによって色んなことが繋がっていく感じがしました。」
オカショー「僕は田んぼでお米を作ってみて、みんながご飯を食べるためにお米は育てるんだけど、羊たちの堆肥を使ったりその田んぼがまた川に繋がったり、人間がお米を作ることで色々なことがつながっているのかなと思いました。」

といった具合。今まで泥を触ったことがなかったイイナが、土を掘ったり重たい石を運んだり、手や洋服を土でガビガビにしてアースオーブンを組み立ててきた達成感を熱く語ったように、手を動かして実感を伴って感覚的に捉えたことは、自然にほとばしり表出してくるものなのかもしれない。

効率よく学びを手渡す、というやり方よりもずっと時間のかかる自然の中での暮らしを活かした活動は、思う通りに事が運ばなかったり、もちろん失敗もたくさん生まれる。今回のワークショップでも川の水がうまく流れなかったり、川の石があちこち動いて転げてしまったり、ピザ釜がひび割れてきたりと、前回の改善点を直すことから始めなくてはいけないことも多かった。予定通りにいかないと日数もお金もよけいにかかったり、学校という様々な予定が絡み合った日常のなかではスケジュール的にうまく進まなかったり悩むことも多かったように思う。四季がはっきりあり冬の寒さが厳しい軽井沢ならではの、この季節にはもう凍ってしまってこれはできないということもやってみてわかったり、来季に持ち越しになってしまった作業も少なからずあった。

それでも時間をかけて議論し、力を合わせて手を動かして進めてきたプロセスのなかには、身体や五感を通して蓄積した感覚のようなものが積み重なって思考へ向かい、それが探究や問いをもつというこの学校が大切にしている学びの在り方に繋がっている実感がある。

「暮らし」やいのちの営みは日々続いていくものであって、そのプロセスで体感している様々な事象がミルフィーユのように積み重なってその人自身をつくっていく。時々それらが言葉などにほとばしり表出する時は饒舌になるけれど、多くは無意識下のうちに静かに積み重なっていくような、そんな蓄積が子どもたちにとって結構大切なものかもしれないということは伝えたい。デバイスやtyphoonで大勢の人たちに伝えるより、ウタたちがいうように手触りをも丁寧に伝えるやり方って?実際に学園の庭作りに参加してみてください、田んぼに羊たちを見に来てください、美味しいモノを一緒に食べませんか。そんな伝え方の過程においてこそ、より伝えたいことが伝わるよ、と私は子どもたちから教えてもらっている気がしている。

感覚的に捉えたその部分を、一つひとつ文章化や文字化することは大人にとってもなかなか難しく、しかも成果がその都度きちんと表れるというものでもなかったりすると、つい忙しく効率を求められる日常に埋もれてしまうこともあるなと感じている。

つい先日、オカショー、キヨ、ウタの三人は、学園の田んぼで採れたお米を焚き火で炊いて食べ、米を取った稲ワラで正月のしめ縄飾りを作った。チヅルも自分のちー田んぼで採れたお米を、キッチンで黒米ご飯にしてスタッフたちに振る舞った。

私も焚き火で炊いた美味しいご飯をご相伴に預かりながら、オカショーに聞いてみた。「田んぼの後継者を見つけなきゃって悩んでたじゃない?(オカショーとウタは9年生でもうすぐ卒業なので後輩たちの誰に田んぼを継いでもらうか、密かに後継者問題で悩んでいる。まるで日本の農業、農家事情のよう。)オカショーは田んぼでどんなことが面白い、って伝えたいの?」

オカショー「自分の食べるものを自分の手で作れるよ、ってことかな。」
キヨ「それがさ、こんなにめちゃくちゃおいしいよ、自分で作れるし達成感半端ないよってことも。」
ウタも三杯目のご飯を頬張りながらウンウンと頷いている。

これ食べるときっとわかってもらえると思うんだよね、絶対おいしいって思ってくれると思うから、と三人は来年度田んぼを引き継いでくれそうな人たちをつかまえては次々とどんぶりご飯を振る舞っていた。あちこちで聞こえてくる「美味しーい!」「旨っ!」の声に、このいのちをつなぐ「食べる」こと、そして美味しいと心底思うことも一番しっかり身体にしみこんでいく、残っていく感覚なのかもしれないなと。このおいしい!を聞くために、田んぼや畑や川や堆肥やグルグル回る時間のかかる日常を、積み重ねているのかもしれない、そんなことを思っていた。

感覚的なことを積み重ねる。手足を動かし汗をかいたり、力を合わせたり。うまくいかなくて落ち込んだり、一緒に笑って美味しく食べたり。その過程で感じたことがその人の中に残っていく、積み重なっていく。
その中から生まれたものが時には問いとして学びにつながり、またそれを伝えたいという思いが次の行動を生み、誰かへとつながっていく。自然のなかでの「暮らし」には感覚的で言葉にするのが難しい事象がたくさんあるけれど、その毎日の積み重ねの中にこそ、子どもの底力が備わっていくと信じている。

#2022 #わたしをつくる #探究の学び

斉土 美和子

投稿者斉土 美和子

投稿者斉土 美和子

浅間山の麓に来て20年。たくさんの命に出会ってきました。淡々と生きる命、躍動する命、そして必ず限りある命。生きるって大変だけど面白い。そんな命が輝く瞬間を傍らで見ていたい。一緒に味わいたいです。

詳しいプロフィールをみる

感想/お便りをどうぞ
いただいた感想は、書き手に届けます。