
2025年12月26日
りんちゃん(甲斐)の授業にまざり3か月目に突入した11月の初旬。はじまった頃は汗ばむ日もあったのに、今ではフリースを着て防寒対策をして授業を聞いている。この日の授業はじゃんけん大会からはじまった。ここまで、それぞれがたくさんのオキナワの資料の中から関心のある資料を読み、誰になりきって語るかを決めてその原稿を書いてきた。いよいよ語る段になり、一緒に語って聞き合うグループを決めるじゃんけんをすることになった。誰と一緒に語って聞き合うのかは、それがどういう経験になるかにも関わってくる。
風越では、一見するといつでも「好きな人と自由にグループを組む」ように思えるが、実際はそうとは限らず、その時々によって異なる。今年度、7,8,9年生のラーニンググループの目標として「誰とでもつくる」=「だれつく」を置いている。りんちゃんは以前から、ことある毎に子どもたちに「誰とでも自分をつくる」ということを伝えてきた。
「『だれつく』だから、こういうグループじゃないといやだ、この人じゃないとできない、この人はちょっと、とかはなしでね。」というりんちゃんの思いを伝えてじゃんけんとあみだくじの運に任せてグループを決めた。すべてを子どもたち自身が決めると、どうしても自分にとって心地よく安心で楽な方を選んでしまうことが多くなる。学ぶこと、チャレンジすること、新しい自分に出会うためには安心のその先に行く必要がある。風越でアドベンチャーの経験を重ねてきている中学生にとってはそれもわかってはいるのだとは思うが、こういう場面で大人の思いをしっかり伝えることは大事だ。自由であることと自由になるためのことは、似ているようで結構違う。7,8,9年生は何のための「だれつく」なのかを少しずつ理解し始めているのだろうか、学年も男女も混ざったグループがすんなりと出来ていった。
同じ授業を受けてきても、誰になるのかはその人の関心や心が揺れたところから決められていき、多種多様になった。ひめゆり学徒隊の一人、米軍の基地建設のために自分の家を取られてしまった人、伊波敏男さんのお話を聞いた小学生、『へいわとせんそう』の著者谷川俊太郎さん、『平和は「退屈」ですか』の著者下嶋哲朗さん、未来で戦争をしている父。人だけでなく、沖縄の島自体になる人、沖縄の海になりきって語る人もいた。
今回の語るグループは3~4人程度の少人数。リハーサルと録音本番をこの3人組で行った。そこへ私も入れてもらい、一緒にその場の雰囲気も含めて味わい、子どもたちの語りをその場で聴かせてもらった。
グループ内の前日リハーサルでは、本番に向けてフィードバックをし合った。あるグループの7年生の一人は、米軍の宣伝ビラ「生命(いのち)を助けるビラ」を撒いた人になって語った。その語りを聞いた8年生が緊張しているのを感じたのか「台本通りに読まなくてもいいんだよ。内容はすごくいいから、自信持ってもう少し声大きくね。」とフィードバックしていた。録音当日のその7年生の語りを私も同じ場で聞いていたが、その人がどんな思いでビラを撒いていたのか、当時の沖縄の情景が目の前に浮かんでくる、まさに心に訴えかける語りだった。後で録音で聴いた語りの中にも同じように涙するような引き込まれる語りがいくつもあった。
この単元のはじまりは、自分の興味のあるところ、心が動くことに焦点を置き、それぞれが資料を読み探究していく。アウトプットでは個の語りが他の人たちの学びにもつながっていくのを傍らで感じていた。学び合うって、最初から最後まですべてをグループで一緒にやることではないのだ。こうして他の人の語りを聞くことで、その子が興味を持って調べてきた背景も含めて個の学びが他の人のさらなる学びへといざなっていく。もちろん、他の人がいたら語れない、自分の声では恥ずかしいという人もいて、そこはその子のチャレンジに任されたが、語らずともグループに参加して他の人の語りを聴くことは大切にされていた。
リハーサル、録音本番前にりんちゃんが子どもたちに繰り返し伝えていたことがある。原稿を読むのではなく、その人になって語る。読むでも演劇でもなく語るということ。今回の単元で初めてアウトプットを「語る」にしたというその真意を聞きたくなり、りんちゃんに質問をぶつけてみた。
「自分事にするということは、すごく体に関わっていると思っていて。詩を読むとかね。私もすごい気に入った文章は声に出して読む。竹西寛子さんの文章はよく音読していたの。意味がわかるだけじゃなくて、体に染み込ませたくて。
小学生でも国語で扱う物語を劇にしてみるということがあるけれど、言葉と体の関係性ってあるんですよね。身体化することと自分事にすることは、私はほとんど同義と考えていて、頭の中で自分事にするのと、体を通して自分事にするのとではだいぶ違うと思うんですよね。「語り継ぐ」ができるのは、その時の情景がその人の中にあるということ。体験はしていなくとも疑似体験して、想像力を働かせて自分の言葉になる。本当にあったことを再現するのではなく、自分の今まで生きてきた経験の中で一生懸命想像してその人になり切る。その人になり切って、自分の体験として語っているか。子どもたちには、情景が浮かんでいますか?を問いたかった。
それでも、「語って」と言って、簡単に語れるものでもなくて。今の風越の7,8,9年生のコミュニティならできるんじゃないかと思って今年はじめて挑戦したんです。」
土台の学びの一つであるりんちゃんの国語の授業を7,8,9年生が混ざって学ぶのは今年度がはじめてのこと。それまでは学年で分かれていた。はじめて混ざって学ぶ1学期が終わり、この単元がはじまる2学期にこの混合グループを組み直そうということになっていた。しかし、直前に9年生の一部の人たちから受験前だから9年生だけでやりたい、9年生のグループの時間を大事にしたいという声が上がり、スタッフも交えて9年生の話し合いが重ねられた。そのあたりの詳細はまた別の記事(りんちゃんが書いているのかな?)に任せるとして、第3者の私から見ると、7,8,9年生で混ざってこの単元をした意味はすごくあったと感じている。前述のリハーサルでの学年を越えたやりとりもそうだし、グループに信頼する上級生の兄のような存在がいることで安心の場にしてその場にいられた人もいた。単元の前半(資料を選んで語る内容を考える)は個人の裁量で進められるところも3学年混ざっていても一緒にできる点だったのだろう。そして、ここには書ききれなかったが、りんちゃんが子ども一人ひとりを理解しているからこそ、その時その子に必要な手助けをすることができる。7年生で資料を選ぶのも誰になるのかも全くどうしたらいいのかわからず困っている人がいたときには、その子にあった資料を提案したり、方向性を一緒に考えたり。授業に来れたり来れなかったりする人には、りんちゃんが沖縄でインタビューしてきた、平和劇を作っている人の話しをして、沖縄にはこんな人もいるんだよと個別に声をかけて伴走してきた。学年で分かれていても、混合でもりんちゃんの関わりは変わらないと思うが、子ども同士の関わりは学びを通してより広がり、深まっていくのではないかと私は感じていた。
りんちゃんは、「自分が意図していた学習を超えて、子ども達同士で学び合っている姿が語り合う時にも見えていた。自分が単元を始まる前にこうなったらいいなという姿、意見を言い合ったり、聞き合ったりの対話の時間が自然に生まれ、本気でこの単元に向かっている姿がたくさん見えていた。」と話してくれた。
ここまでの学びの軌跡を1人1冊の文集としてまとめてこの単元が終わる。彼らの学びは「ことば」の力をつけることではあるが、それだけではないことをこの3か月で私は感じている。それが何なのかはまだ言葉にならない。もう少し私の中で言葉にならない時間を過ごしてみようと思う。このシリーズはここで終えようと思うが、もしかしたら④を書いてしまうかもしれない。りんちゃん、一緒に学んでくれた7,8,9年生、読んでくださったみなさま、ありがとうございました。
以下のリンクから、子どもたちが語った音声を聞くことができます。(spotifyのサイトに遷移します)
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自然体験活動・環境教育のインタープリターから保育者へ転身。絵本とおもちゃの店の店員や、保育雑誌のライティングに携わった経験も持つ。軽井沢風越学園で新しい教育づくりに関われることにワクワクしています。
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