風越のいま 2024年9月19日

ミーティングと協同

松江 右聖
投稿者 | 松江 右聖

2024年9月19日

私は、4月から風越学園にジョインし、それまでは公立小学校で学級担任をしていた。一人でクラスの子どもたちに授業をすることが当たり前だと思っていたので複数で授業を設計していく経験をそこまで重ねてきたわけではない。

そんな中、夏休み前まで1〜4年生の36人とスタッフ4人体制(とっくん(片岡)たけさん(竹内)ふぅ(林)、まっつー)のプロジェクトチーム「とってみよう!」(とってみよう!は野外の活動を軸に様々な「とる」を経験していく)がスタートした。風越学園に来た当初は、1〜4年生が同じグループで取り組むことや、複数の大人で1つの授業に携わっていくことにも驚きつつ、4人のスタッフで授業を相談しながらつくれることも面白そうだと思った。ただ、入って間もない職場で、やりとりできるのかなとか、風越では大人の協同も大事って聞いたりもするけど、自分にできるかなと不安も抱えてのスタートだった。

どうして不安なんだろう。新しい学校で新しいスタッフと子どもたちの環境にワクワクしそうなのに、自分の気持ちの根底には、教員は同じ空間で複数の大人が混ざり合いながら授業をつくることなんてできないと先入観があった。この記事を書こうと思った背景には、「とってみよう!」プロジェクトを終えた今、3人のスタッフと協同してつくるって楽しかった!との思いがあるからなんだけど、どうしても、協同って助け合いとか、力を合わせるとか、和やかで温かいイメージがある。馴れ合いにならずに、当事者意識を持って高め合うチームになれた背景には何が起きていたのか。

この記事では、「ミーティングから生まれるもの」に焦点を当てながら、初めての協同で私自身が感じたこと、考えたことを書き残したいと思う。

そもそも、「協同」って?

風越のカリキュラムページには、テーマプロジェクトで大切にしていることの一つに、「子どももスタッフも協同して取り組む」ことと記されている。スタッフ同士でもやってみたい、知りたい、解明したいと熱量を持って協同探究者を目指していくことで、肯定的な協力関係になっていく。スタッフ同士がお互いに「あなたの実践があったから、私がこんなことできたよ」であったり、「この人がいるからこのチームでよかった」と思い合えるようなことが要素として大切なのかなととりあえずは置いて考えてみる。

風越のカリキュラムページより引用。

協同は、話す・聞くから始まる

個人ではなくチームで授業をつくりあげることの特徴の一つに話をして聞き合うことがあると思う。今回のとってみよう!チームでもなるべく話し合う時間をつくろう、と始まった。

今回のとってみよう!チームでは、スタッフ4人で一緒に授業を作るけど、実際には小テーマごとにメインに立つ人を変えながら、1人が計画を中心に立てて、他3人はサポートするという形で進めてきた。また、毎日のミニレッスンでは、「とった後に〇〇してみよう」「雨の世界でとってみよう」「とりに行くための準備ってどんな感じだろう」などのその日に大事にしたいことや想定される活動を子どもたちに伝えてきた。

ミーティングでは、場にメインで立つスタッフが計画を話し、チームで聞くことを重ねてきた。例えば、とっくんが「とってきたものとラボが出会えるような時間」をつくりたいと計画し、それをみんなで聞き合いながら授業の内容をより深めていく。場に立つスタッフが進めてくれるから〜といった気持ちでは当事者意識が薄れていくことに気がつくこともあった。そのため、私は子どもたちととってきた松の根っこをラボの彫刻刀で細かく削り、それを煮詰めて、松脂をつくろうと子どもに混ざりながら本気で楽しむことを通して、学習者視点を持つことも意識した。

ミーティングの話す・聞くのやりとりで受け止めつつ、立ててくれた計画から起こりそうな子どもの姿を考えたり、自分ができることを提案することを通して、「あなたの実践があったから、私がこんなことできたよ」といった協同的な要素を積み重ねていくことが大切であると感じていた。

一人ではできない扉を開ける

「とってみよう!」は、月に1度のミニアウトプットを区切りに、小テーマを決めてきた。「とってみよう!ふしぎ編」の期間では、子どもたちはそれぞれとってきたものに対して、ふしぎを持ち、本や顕微鏡などを用いながら解明に向かっていた。

そんな「ふしぎ編」のミニアウトプットが終わり、次は何編になるのかを考えている時期だった。次のメイン設計者だった私は、子どもたちとのやり取りの中で、「アウトプットデイはこんな感じになりそうだ」とやりたいことを発散する時間をとった。その中から、全員で共通する小テーマを決めようと計画していたのだ。(例えば、「とってみよう!かたち編、いろ編、研究編」みたいな)

しかしとっくんは、「子どもが動きたくなっちゃうような小テーマが先にあるほうがいいのかもね」と言う。実際、子どもたちはアウトプットデイに向けて、「〇〇なものをとってみよう!」とイメージを持っており、〇〇には、色や形、触り心地などの、小テーマを持ちながら活動してることがわかった。他にも、たけさんは「とってみよう!〇〇編のように一人ずつ決めれたらいいのかもしれないね」と包括できるような視点を持っていたり、ふぅは「途中で合流したばかりの1年生が小テーマを持つにはどのような手立てで関わることが大事かな」と1年生への視点を持っていたりして、次はこうしようと何か一つに決めることが難しい。

みんなの意見を聞いて迷っている私に、「まっつーはどう思っている?それがいいとか悪いとかではなく、とりあえず聞きたいな」と質問をしてくれる。この人たちは聞いてくれる、話そう!と背中を押されたような感覚を持ち、その場で今の気持ちを伝えた。

「毎日、野外に出て、自然物に触れ合い、生命の力強さを五感で感じる。なんかこの花の色が綺麗だなとか、葉っぱの形がジグザグしているなとか、この苔の触り心地がいいなとか、そんな生命たちに惹きつけられてしまうのは、力強く生きて、この地球に種を残し、増えていこうとする本能的な部分が訴えかけているのかなと思うんだよね。だから、この本能にとりたくなっちゃうの先のテーマがあるような、、、」

とっくんがその想いに答えるように、「んーー。増える。今までの姿からも、緑が増えていく中で景色が変わって行ったり、1年生がジョインして仲間が変わったり、活動場所が川から風越山に変わったり。増えるよりも、かわる編とかどう?」と言う。

それは、スタッフ4人が考えながら、願いを擦り合わすというよりも新しくなんかこれいいよねが生まれた瞬間だった。「とってみよう!かわる編」が生まれ、スタッフの願いが包摂されたような感覚と、それぞれのスタッフが考えていることが自分の学びに繋がっていくワクワク感。この頃からかな、スタッフで協同することっていいなあって感じはじめていた。

自分たちがとってきたものを中心にアウトプットをしている。

願いを擦り合わせなくてもやっていける

ある日、それぞれのスタッフが大事にしていることを知ることで、その人との子どもの関わり方が見えてくると知った。ある週、たけさんは「子どもたちの『かわるへん』をたくさんやりとりする!」と置いていて、子どもたちとずっと遠くまで探検をしてとことん関わっていた。たけさんは子どもたちの「ここに行きたい!」の衝動と付き合っていく。ある子どもは、「たけさん、冒険行こう」「たけさんだったら来てくれる」と言葉にする。たけさんが言う「たくさんやりとりする」には、言葉だけではなく、行動を共にすることも大事なんだと教えてもらった気がした。

私は、たけさんのやりとりをみて、スタッフの協同は、ミーティングをど真ん中に置いて、相談しやすいチームであったり、願いを話し合って、聞き合って、擦り合わせていくことが大事だ!って思っていた自分に違和感を感じた。もちろんそれも大事ではあるんだけれど、目の前のその人(協同しているスタッフ)の行動をみて、肌で感じ、その人が何を感じその行為が生まれているのかに心を寄せる。「この人がいるからこのチームでよかった」と思えることにこそ価値があるんだ。私たちのチームは、ミーティングで大切にしている話す・聞くで願いを伝え合うことの他にも、野外で子どもと関わりながら、その人の感情から生じる行動をお互いが見合って体験することの良さを実感していた。

たけさんを追いかける子どもたち

ミーティングで自分の感情を受け止めた

ミーティングを重ねていると、話す・聞くは当たり前のような感覚、相談することへのハードルが下がり、なんでも伝えられる関係になってきた。ただ、依然として1人は計画を中心に立てて、他3人はサポートであったり、改善的な視点で明日の授業を検討することをプロセスとして踏んでいて、私の中には、計画を立てる人の願いややりたいことを確認しながら進めるようなプロセスを踏むだけでいいのかなという気も同時に生まれていた。

その背景には、どこかで協同的なチームには平等性のようなものがあるべきだと思う自分がいると思う。例えば、メイン設計者を決めることは、設計者にとっては個人の責任を生み、意欲と努力を促進するけれど、一人が計画を立てて進めてくれるからいいや〜と他のメンバーが思ってしまう可能性があるのではないかとも思う。それぞれが計画を設計し、やりたいこと、得意なことで協力し合うような分業的なチームではなく、お互いに協力しあって「とってみよう!」の計画を立てていくような改善的な視点を加えられるといいんじゃないかと思うようになっていった。

しかしその一方で、私自身が立てた計画を3人に共感してほしいと思う自分もいたりする。とっくんは「​​​​何言っているかわかるようでわからんけど、とりあえずまっつーがやりたいようにやれ!」と背中を押してくれることがあるのだが、そういう時も、そんなことを言ってくれるチームメイトに出会えることも貴重でありがたさを感じるし、考え込むよりも自分の計画を進めていきたいんだとワクワクした感情が自分の中に生まれるのを感じる。

だから自分の中には未だどちらの方がいいという答えはなく、気持ちが揺れ動く自分を認めるしかないのだが、この葛藤は、他者との相互作用を通して、自分とは何かを知ったり、自分と異なる相手の存在を認めて受け入れたり、逆に拒否する感情と向き合う経験が自分を測るものさしの客観性を獲得していく大事なプロセスのようにも思える。

子どものスケッチから活動が生まれていくように壁の掲示を大事にしている。ミーティングはこの壁を見ながら進めていくのが鉄板だ。

協同するって、、、?

私がとってみよう!チームで協同について感じたこと、考えたことをひとまずまとめてみると

・和やかで暖かさは大事にしつつ、馴れ合いにならずに、高め合う
→1人が立てた計画に質問し合うことでそのメンバーだけではなく、他のメンバーも価値を見出せた

・チームの喜怒哀楽を自分のことのように受け止め、話し・聞き合う
→情報伝達だけのミーティングではなく、雑談してお互いのことを知りやすい雰囲気をつくったり、感じていることや願いを共感することで、他者の行動の背景を知りやすくなり尊敬をもつことにつながった

・お互いに「あなたの実践があったから、私がこんなことできたよ」、「この人がいるからこのチームでよかった」といった一人ではできない扉を開き合えるような肯定的相互依存がある

の3軸に落ち着く。スタッフの協同って、ミーティング1つとっても、共感できない時とか、納得できない時、うまく連携や協力ができない時、一緒につくっている感覚が異なる時、そもそも熱量が異なる時といったように、難しさが先に来る場合も多いから、一概にこういう時はスタッフの協同性が高まりますなんて傲慢なことはいうつもりは無い。

でも確かに、私たちは4ヶ月間過ごす中で、とっくんが「とってみよう!ふしぎ編」を進めてくれたから、私が「とってみよう!かわる編」に取り掛かることができたなーとか、たけさんが子どもたちの冒険にトコトコ付き合って、虫網持ってきて率先してとっていってるから、とれたものを調べたいって子どもの新たな関心が生まれたなーとか、ふぅが子どもの活動を見て、明日の子どもの関心が広がるようにミニレッスンしてくれたから、次の日のミニレッスンで子どもたちの中に自分のとってみよう!を友だちにみてもらいたいといった他者意識が芽生えたなーとか、それぞれのスタッフが互いの実践を受けての今を実感しながら関係性を築き、授業を共につくっていくことができたと感じている。

喜びは分かち合わなければならない。幸せというのは双子で生まれるものだから。 ジョージ・G・バイロン

協同の感覚には、チームの願いをみんなで同時に達成できるようなゴールがあると思う。競争的に、誰か一人がゴールした時に勝ち負けがはっきりすることではなく、一人ひとりの走り方、走るペースは異なっても、同時にゴールして喜びを分かち合えることに幸せが生まれていくものだと。とってみよう!チームが最後の日に、この4人でやれてよかった!と心から思ったのは、最後の日に同じ景色がみれたからなんだろうな。

#1・2年 #2024 #3・4年 #スタッフ

松江 右聖

投稿者松江 右聖

投稿者松江 右聖

「〇〇したい!」「こうありたい!」って思えるまで時間がかかってもいいと思うんです。多少の違和感をのみこみながら、内省して生きていくのって面白いよなぁ。。

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