2024年3月18日
年中の冬頃の話です。
わが家のコウタはかわいいものが大好き。2歳年上の姉の影響もあり、マニキュアを塗ったり髪の毛を結ぶことが好きなのですが、かわいく装って登園した日は浮かない顔で帰ってくることが気になっていました。
ある日、マニキュアを塗って登園した日のこと。家に帰る車の中で目にたくさん涙をためながら、「コウタくんは、もう、マニキュアをやらない」と宣言したのです。
よく話を聞くとお友達から「男はそんなことしない」と言われて、そのことに傷ついていることが分かりました。親としては、やっぱりそうなったか…という気持ちと、コウタの好きなものを大事にしてほしいという気持ちが半分で、さて困ったなと思いました。
なぜならそのような発言をするお友達は、悪意からそう言っているのではないことが分かるからです。家庭でのちょっとした会話や、テレビや漫画の影響で、男性であるコウタが、一般的には女性のものとされるマニキュアやヘアアレンジをしていることに対して、「なんか知っているのと違う」と思ったわけで、このような反応はごく自然で当然だと思うからです。
一方親としては、我が子の好きなものや、我が子らしさが、誰かのモノサシではかられて消えてしまうことが悲しく、悔しくもありました。コウタの「好き」を大切にしてほしい。でもその過程でコウタが傷つくのは見たくない…。
家庭でもたくさん話をして「ママもパパもコウタくんが好きな色や格好、やりたいことを大事にしてほしい」というのを伝えましたが、「それはわかる。でもお友達に「変なの」と言われることはとても悲しいから、もうやらない」と決意は固く、その日からマニキュアをすることはなくなりました。
ちょうどそんなときに、年に2回のスタッフとの面談があったので、思いきってコウタのマニキュアのことを伝えてみました。日々の送迎時のやりとりや、子どもを通じた関わりの中でスタッフとの信頼関係は築けていると思うものの、やはりこのような話を切り出すのは緊張します。めんどくさいとか大げさな保護者だと思われたらどうしよう…と言葉を選びながら伝えたところ、「ふんふん…」と神妙な面持ちで聞いていたリリー(勝山)が一言、こう言ったのでした。
「マニキュアってカッコいいと思うんですよね。俺、明日からマニキュアしてきますよ」
ん?
あれ?
なんか思ってたのと違う!!(子どもたちと話してみますとかじゃないんだ!)
と面食らった次の瞬間、「これはどんな展開になるんだろう…」とわくわくする自分がいました。
そして次の日…
「コウタ、おはよう」と現れたリリーの爪には黒いマニキュアが塗られていました。
ん?
あれ?
なんか思ってたのと違う!!(黒とは想定外!!!)
とまたまた面食らった次の瞬間、にっこり笑ったコウタの顔が目に飛び込んできました。
そしてぽそりと「リリーの爪、カッコいいね」とつぶやいたのでした。
その後、子どもたちの間に何が起こったか…。まずは男の子たちに、爪をペンでカラフルに塗るブームがやってきました。コウタもご多分に漏れず、赤、緑、青、黄色…カラフルな爪で帰ってきては満足そうな顔をしています。
女の子の中には、家で「リリーの爪、カッコよかったんだよ」と話す子もいたそうです。そしてカラフルな爪をしている男の子たちを、誰も「男のくせに」とは言わなくなりました。
その後のコウタですが、マニキュアのマの字も口に出すことなく日々が過ぎて行きます。しかし約1年後の年長の冬、ふらりと寄ったドラッグストアで「リリーみたいなかっこいい色だったら、コウタくんもマニキュアして学校にいきたい」と言い出したのです。
たっぷり時間をかけて選んだのは、キラキラしたラメの入ったターコイズブルーのマニキュアでした。色とりどりある中からその一本を手に取った時のコウタの顔は、自分の「好き」に向き合う喜びと、それゆえの怖さが混ざったような表情でした。あの時のリリーの黒いマニキュアが、1年という時を経て、今この瞬間、コウタの背中をそっと押してくれたのだと思いました。
キラキラ光るターコイズブルーのマニキュアの瓶をぎゅっと握りしめる小さな小さなコウタの手に、がんばれがんばれ!と念を送ることしかできない自分がもどかしく、しかし一方で、自分の気持ちを大切にして一歩を踏み出したコウタのことをとても誇らしく思いました。
人間が20人もいれば、たとえそれが幼稚園児であったとしても、個性も価値観も様々で、たくさんの違いにあふれているのは当然です。わたしたち大人はその違いを、うやむやに扱うことで衝突や軋轢を避けるけれど、子どもは幼く正直だからこそ、その違いからくる違和感や抵抗感をストレートに相手に伝えます。言われたほうは驚いたり、時には傷ついたりもするけれど、子どもたちの様子を見ていると、そのやりとりはとても純粋で生々しい、人間らしいやりとりだなと感じます。
思えばどらにゃごチーム(子どもたちが話し合って決めた、学年チームの名前)の3年間はこんなやりとりがたくさんありました。
以前東京で通っていた保育園では、大人がしっかり介入することで子どもと大人の関係が強く、子ども同士ではあまり不和や喧嘩がありませんでした。それは「仲良し」を求める大人のニーズは満たしていたかもしれませんが、子ども同士の関係が浅くて関心が薄かっただけなのかもしれない、と今は思います。どらにゃごチームのようにちゃんと本音を伝え合えば、その分人間関係の難しさがあるのは、子どもであっても当然。そこに善悪や正解不正解はなく、正直な気持ちのやりとりがあるだけなのです。
正直な気持ちを伝えあうことで、お互いの違いに気が付くことができます。そして違いに気が付いて初めて、違いを違いのまま受け取ることも、違いについてとことん話しあうことも、相手との違いを通じて改めて自分自身を知ることもできるのです。
そんな生々しいやりとりを毎日毎日、何回も繰り返しながら、どらにゃごの子どもたちは相手と自分は違うことを学び、同時に自分も相手も大切にする方法を身に付けていきました。
この子どもたちの学びの根底には、子ども自身が考えたり、気が付くことを促してくれるスタッフの存在があります。
少し大人が手を出せば素早く正解や解決にたどり着けるようなこともあえて手を出さず、子どもたちの中で起こる生々しいやりとりを見守って、子どもたちをじっくり待つ。そして必要かつ最低限な関わりをする。
待つということは、根底に子どもへの信頼がなければできないことです。リリーは確かにマニキュアを塗ってきてくれましたが、それ以上を語ることはしませんでした。颯爽とかっこいい黒いマニキュアを見せつけて、子どもたちの中で起こることを静かに待っていました。
きっとリリーの中では、自分がマニキュアを塗ることで、どらにゃごの子どもたちなら自分たちで何かを考えて、気が付くことができるという信頼があったのでしょう。
そしてその信頼の通り、彼らは「自分が思っていたのとなんか違うけど、なんかいいじゃん」「誰がマニキュアをしたって別にいいよね」と違いを受け入れました。
年少から3年間、こんなやりとりをたっぷり繰り返してきたどらにゃごの子どもたち。まだそのやり方は幼く、うまくいかないことも多いけれど、「あなたと私は違うけど、あなたも私もとっても大事」という感性は大人顔負けのものがあります。その感性をベースにした「自分なら何でもできる!」という自分への信頼は目を見張るものがあります。
そして周りで見ているわたしたち保護者も「わたしたちだってなんでもできる!(はず!)」と鼓舞され、自分たちのことを「おばにゃご」と称するようになります。気が付けばわたしたち「おばにゃご」も、互いの違いを生かして様々なことを企画したり挑戦したりするような関係性になりました。
ここまでどらにゃご(と、おばにゃご)を見守り、育んでくださった幼稚園スタッフに心からの感謝を送るとともに、これからの風越での9年間も、ともに彼らの成長を見守っていけることがうれしく、また心強く感じています。3年間ありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いします。