風越のいま 2022年10月25日

自然スクールTOEC訪問記

片岡 利允
投稿者 | 片岡 利允

2022年10月25日

念願のTOEC(トエック)へ

2020年の風越学園開校当初から、何度か話を聞いていた徳島の「自然スクールTOEC(以下、TOEC)」。これまでチャンスを逃してきたが、今年の6月にスタッフのふな(渡邊有紀さん)、プーさん(仲本桂子さん)、代表のたつろうさん(伊勢達郎さん)が風越に来られたことをきっかけに、9月22日から25日の4日間「フリースクールセミナー」に参加することになった。念願でほんと嬉しい。

写真を撮り忘れていたのでHPより拝借。約5000坪の広大な田畑がTOECのメインフィールド。ようちえん、自由な学校(小学部)、キャンプの3部門からな​​るTOECは、この地で30年以上、たくさんの子どもたちがのびやかに自分になる暮らしを積み重ねてきた。フリースクールセミナーの4日間もここで実施した。

僕のような教員以外にキャンプ団体の方や保育園の園長、療育関係の方、スクールカウンセラー、大学院生、これからフリースクール設立される方など多様な19人が集まり、スタッフも含めた約30名で、4日間遊んで学んで、本当の意味で共に暮らした。今回は、この4日間で体験したこと、個人的な気づきをぜひシェアしたいな、TOECを知ってもらいたいな、という思いで書きはじめている。まとまらないとは思うが、ぜひ読んでみて欲しい。

「スタッフのことを見てほしい」

広大な田んぼのど真ん中をあぜ道を進んでいくとたどり着いたのがTOECの家。フリースクールなので、本来は「校舎」と表現すべきかもしれないが、僕としては「家」と表現する方がしっくりくる。中に入ると、調理場と大きな机の並ぶ土間と、大人30人程が輪になるにはぴったりの畳のスペースがあって、そこにぞろぞろと参加者、スタッフが集まっていた。

「歌からはじめようかな〜」

あるスタッフがそう口にし、ウクレレを持ち出して「にじ」を歌うところからフリースクールセミナーがはじまった。(いきなり歌!?)と内心思いつつ、スタッフが楽しげに歌うので僕もつられてリズムに乗って楽しく歌っていた。はじめましての人たちの集まりだったが、ウクレレの音色と歌声によって一体感が生まれ、なんだか場が一気に緩んだ感じがした。これは子どもがいるときも同じで、はじまりは音楽を通して一体感を感じるところから。朝ごはんのようなものでもあるのかもしれない。

代表のたつろうさんは、フリースクールセミナーでは、自慢のスタッフを見て欲しいと誇らしげに語っていた。僕はこのとき、スタッフの姿、語られる言葉を中心にして、この4日間過ごしてみようと決めた。

「どうしようもないスタッフがどうしようもないままで」

1日目は出会いの日。参加者とスタッフ、そしてTOECと出会う時間。

参加者とスタッフ同士の交流の場があったあと、2日目のフリースクール見学に向けての「ようちえん」と「自由な学校(小学部)」の概要説明がはじまった。「ようちえん」はスタッフのもぐら(坂本亘さん)が語る。

「あそびのパワーはすごい。そばにいるとわかる。共感できる。」など、子どもとあそぶことの大切さについて語るもぐらに、「もぐらははじめ、子どもと遊ぶことができなかったんだよね」と他のスタッフからのつっこみが入る。何気ないスタッフ間のやりとりなんだけど、「ああ、この人たちとは安心していられるなあ」って何となく感じた。

途中、説明に言葉を詰まらせてしまったもぐらはすかさず、「たつろうさんがあとで説明してくれると思うので・・・」とたつろうさんにふると、場が温かい笑いに包まれた。そういえば、風越に来てくれた時にたつろうさんが「うちはどうしようもないスタッフが、どうしようもないままで育っているんだよね」というようなことを言っていたのを思い出した。そう話す愛おしむ表情を今も鮮明に覚えている。

「たくさん泣きあってきたね。もぐらの今をうけとめつつ、でもこの方向性でいきたいんだよねって、こういうことを大事にしたいんだよねっていうことを繰り返し伝えたんだよ。」と、当時のもぐらとのエピソードを語るスタッフもいて、これがTOECの「概要説明」なんだなあと思った。

「むしろ、もっと『わたし』になる」

「自由な学校」の方は、プーさんが説明した。

「TOECは日本一の学校やと思っちゃってるんだけどー。」と、たつろうさんの時と同じく、TOECへの誇りを語るところからはじまる。子どもの作品たちを並べて眺めながら、俳句が書かれた紙を手に取って、そのエピソードを嬉しそうに語りはじめた。他のスタッフが「何が起こっているんやろか、って楽しそうなプーさんを見るのが好き」とも話してくれた。

いくつかのエピソードを語った後に、風越を見学しに来たときのことを話しはじめるプーさん。ドキッとする僕。

「玄関から校舎に入ったところに、目標のようなものを飾ってあったよね。「 」になる、だっけ。なにか遠いところにある何かにならないといけないのかな、と違和感を覚えたの。遠くにある別物になるのではなくて、例えば一輪車が乗れるようになりたいだとか、そういう距離感というか。むしろ、もっと『わたし』になる。向かっていく方向がこっち(外側に向けて)じゃなくてこっち(内側に向かって)なのかなーって。」

この話は、ぜひ、風越の仲間たちとも話題にしたいなあと思った。

「その場の大人のフィーリングを大切にするんですよ」

概要説明後にたつろうさんから、自由保育のなかでの危機管理について話があった。TOECでは、幼稚園児でも刃物を使って工作をするし、調理の手伝いもする。野外で自由に遊ぶ中でも危険は常に付きまとうが、TOECでは「フィーリングリミット」という方法を取っている。

「ルールをつくらず、あぶないと思った時にとめています。その場の大人のフィーリングを大切にするんです。人によってリミットは違いますよ。現場は責任を取れる人で関わる。この子はこの道具を使っていても大丈夫だけど、この子はちょっとまだ不安ということもある。子どもによっても違うんですよ。なんかよぎる時には、逃さないですよ。」

はじまって以来、大きな事故はほとんど起こっていないという。

「悪い関わりは分かりやすいけど、良い関わりは見えにくい」

2日目は、フリースクール見学の日。子どもたちが普段通り登校登園してくる日だ。

スタッフはすでに朝から農作業や荷物運びなど、一日の準備であちこち動き回っていた。たつろうさんがその様子を見ながら話してくれる。

「農作業は状況を待ってくれないのでね。」
「(何かが壊れても)業者に頼まず全部自分たちでやります。これも保育の一つです。」
「政治的なこともやります。国葬問題にも踏み込んで。主権者として。」
「悪い関わりは分かりやすいけど、良い関わりは見えにくいんですよ。デザインも同じでね。」

なるほどなと思った。確かに見えにくい。だからこそ、どういう視点をもって臨めばいいのか、聴いてみたくなった。

「考えたことは全部インチキじゃないですか。なんとでも言える。でも感じたことはリアル。ええ感じやなとか、盛り上がってるけどなんか変な感じやなとかね。その時、スタッフは何をしていて、何をしていないのか。まあ、面白がって見てくださいよ。」

見ようとすると、より見えなくなる。まず感じること。そこからだんだん見えてくることを逃さずキャッチすること。風越でも「子どもがつくり手になるための大人の関わりとは?」の問いをもってスタッフは日々子どもと向き合っている。これは持ち帰りたい話だなと思った。

「見ている人は遊ぶ人じゃないよ。学びに来ているんだよ。」

僕は、「自由な学校」を見学することにした。子どもたちが登校し、朝のモーニングミーティング(1日のはじまりに「話したいこと」「困っていること」「やりたいこと」について話す時間)がはじまる時間になったので畳をのぞいてみると、15人程度の小学生たちとスタッフ4人が音楽に合わせて歌って踊っている。その後、輪になって女の子が名簿順に名前を呼び、スタッフのペーターは土間でお昼ご飯の支度をしているTOEC卒業生の保護者に人数を伝えた。

そんな中ひとり輪の外で、机の上に何かを並べているオレンジ帽子の男の子がいた。僕は彼が気になって、今日は彼を中心に、この子を通して「自由な学校」を感じてみようと決めた。僕の今の関心はそういうところにある。

モーニングミーティングでは、スタッフも話したいことを話す。スタッフのむっちゃんが子どもたちにセミナー参加者の説明をする。「見ている人は遊ぶ人じゃないよ。学びに来ているんだよ。」と。さらにペーターはセミナーの人たちが学びたいことを書いた紙をここに貼ってみたよと紹介。「知らない字もあるね」と、書いてある文字のことにも触れる。

ここにいる子たちは、大人も学び手であるということをよく知っているんだな。そして、そういう文脈から文字にも関心を向けるきっかけの種もまかれている。ここはあくまでも「学校」。

「見てるよー。気になってるよー。関わりたいよー。」

モーニングミーティングの最後、ホワイトボードが数人に手渡され、近くの人とおしゃべりしながらやりたいことと名前を一人ひとり書いていく。オレンジ帽子の彼は輪から離れてスプーンなどを綺麗に並べ始めている。スタッフのスプーが彼に「何する?」と声をかける。

全体での共有がはじまった。スプーンを並べていたオレンジ帽子の彼は、今度は塩の入ったケースを持っている。それを見てすかさずペーターは「ショウタ!今日塩の結晶をつくりたくてさー。今日それだけしかないからさー。・・・」と声をかけた。

一人ひとりの名前とその人のやりたいことの発表は続く。だんだんと輪が崩れてなんとなく動き出したい雰囲気になってくる。「今日も1日よろしくお願いします!」ペーターの締めの一言でみんなわらわらと動き出していった。

ペーターは6年理科の教科書を持ってきて、塩の結晶づくりに集まった人たちと、「これってこうかな?」「どうやってつくったらいいんだろうな。」「何入れる?」「入れたいだけ入れれば」とおしゃべりしつつ、塩を溶かしていく。ショウタも話を聞きながら同じように塩を溶かす。言葉は一言も発さない。

「ショウタは何杯入れた?3?」女の子が聞く。ショウタは頷く。ペットボトルに入れて塩を溶かすためにシャカシャカがはじまる。

その後もスタッフのラテが「実験してるの?」と声をかけたり、プーさんがやってきて「おおー、何してるー?」と数分ごとに誰かしら様子を見て、よく声をかけにくる。過剰な感じはしなくて、ちょうどいい感じ。「見てるよー。気になっているよー。関わりたいよー。」が伝わってくる。過不足なく、というのはこういう感じかも。よく声をかけるし、関わるし、感じたこと思ったことをよく言葉にする。そこに一緒にいてくれる感じがする。回数は多いが、一回一回が最低限の関わりだ。

セミナー参加者の僕たちに対しても、そういう隙間のコミュニケーションが豊富だった。参加者のみんなもその細やかさに安心感を覚えていたとよく話していた。子どもたちもそうだろうと思う。

「ショウタ、叩きつけて溶かすんか」

流れている音楽に合わせて飛び跳ねながらペットボトルのシャカシャカが続く。ペーターが曲を変え音楽の音を大きくするとシャカシャカの動きも盛り上がってくる。ペーターの動きを真似しているようで、自分なりの別な動きを試しているようにも見える。言葉でのコミュニケーションは相変わらずないが、身体を通して思いっきりコミュニケーションを取っているようだ。

「つぶつぶ見てみよー」「これ、塩のつぶじゃなくて泡かな?」ペーターが虫眼鏡を持ってきて、シャカシャカしてできた泡を見ているのをショウタも真似して見ている。

「ショウタ、叩きつけて溶かすんか」とペーター。彼がいろいろ試してみていることを言葉で返す場面が多々ある。彼の中で名もなき行為に、言葉を与えて名前をつける。こうやって体験を通して日常的に言葉と出会っていっているんだろう。言葉数少ない彼にとって必要な関わりだろうなと思う。

叩きつける、上に投げてキャッチ、同じ動きを繰り返す。同じ動きでも同じことは起こらない。途中でペーターがキャッチしてきたり、他の人も関わってきて起こることがまた変わっていく。「竜巻!」スタッフのラテがペットボトルをぐるぐる回しているのを見て、ショウタはニヤリと笑った。「塩はいっているよ」と自分からラテに伝えていた。はじめの硬い表情からすっかり様子は変わっていた。

あとで聞くと、今日はいつも遊んでいる友達がみんな休みだったそう。それでも、関わってくれる人がいて、午前中、たくさん遊んで学んでいたショウタだった。

「ありのままで100%じゃないですか」または「TOECの専門性はよく働く、を体現すること」

夕方、たつろうさんからスタッフの専門性についてのレクチャーがあった。

「ありのままで100パーセントじゃないですか。どんな人にもあなたを必要としてくれて、必要とする場があるはずです。」

「(大事なのは)やってみたいという気持ちですよ。あーしろ、こーしろ、あれだめ、これだめなら簡単にやる気をなくす。意欲がなくても、楽しめる世の中になってしまった。ご褒美をあげたり、褒めてあげたり、競争したり、そしたらやりますよ。そういう巧みな動機付け、素晴らしい指導で育つ力を依存心って呼んでいます。でもそれは、一番大事なその人自身から立ち上がってくる気持ちや、自分で開発するプロセスを邪魔していますよね。もともと持っている共感力が力を発揮できる教育をやりたい。生きることの中身が大事。教師になりたい、じゃなくて、どんな教師になりたいか。漁師もそう、デザイナーもそう。」

「TOECのスタッフの専門性は、スキルを超えているんですよ。『自由』を使いこなして、もっともっと自由になってほしい。そのために必要なのは、やり方よりも『在り方』なんですよ。だから、TOECの専門性はよく働く、を体現すること。薄っぺらなスキルじゃダメなんです。言葉には温度や重みがある。資格があるとか、肩書きがどうとか、関係ないですよ。そんなのは全く通用しない。自由になれる方へ自分を使うのが在り方。何かやることに重みや温度が乗っかってくるのが専門性。だからうちのスタッフはよく働きます。」

確かに本当にスタッフのみんなはよく働く。子どもとの関わり以外にも、農作業や食事の支度、環境を整えるといった暮らしの隅々に渡って「働く」存在としてそこにいることが、TOECの専門性であるということなのだろう。

「過不足ない関わり、支援。認めるということ。」

続いて、見学のメインテーマでもあったスタッフの関わりについての話へ。

「僕らは過不足ない関わり、支援と言ってます。」

風越でもたつろうさんの言葉を借りて「過不足ない関わり」について話題になることがある。

「(関わりなんて)農業と同じで基本放置ですよ。過不足っていうけど、ちょっと不足ぐらいがちょうどいいですよ。基本『過』な社会なんですから。褒めない、叱らない、認めるということを大事にしています。そのために1つは、判断しないこと。いいとか悪いとか。評価、解釈しようとしない。もう1つは、その人がこんな感じなのかなっていう風に心を寄せていけること。その人が嬉しいなら嬉しいなってことわかる。この2つを合わせて、それが良い時も悪い時もできること。これが認めるということです。」

認めるということ。これがTOECのスタッフの基本的な姿勢、立ち振る舞いの根底にある考えなんだな、ということがこれまで見てきた、感じてきたスタッフの姿や言葉を踏まえて腑に落ちた。

「『きく』ということ。『今ここ』の気持ちをきくんです。」

最後に「きく」ということについて。TOEC実践の核の部分のお話。

「社会に開かれていること、関心を寄せていることも大事ですよ。子どもたちのお手本になる。政治的なこともやります。何かしたい、貢献したい、これを共同体感覚と言うんです。何か大好きな場に貢献したい。出入り自由な共同体。そのために大事にしていることが『きく』ということ。『今ここ』の気持ちをきくんです。頭できくんじゃなくて、心できく。自分をきく。自分の中で何が起こっているのかをきく。感じる。そして場を感じる。どう場が動いているのかをきく。そこに自分をどう使っていくか。様子を伺うことを『感をきく』っていうんですよ。何かにイラついてるなとか、いきたがっているエネルギーを感じること。きくには、共にいてこそ質感がわかる。俯瞰していてもわからない。プロセスを切らない方がいい。プロセスは信頼に足るんです。ただ、共にいると、共にい過ぎるということがあります。共に沈んでいくということが。でも、共にいながら客観的に見るということができるんです。そうすると、より共感的になれて、より客観的にも見えてくるってことがあるんです。」

たつろうさんの質感が少しは伝わるだろうか。これらの言葉、僕たちセミナー参加者はもちろん、スタッフは毎年聞いてる。スタッフのなべちゃんは「何回聞いてもヒットするところが違って面白い」みたいなことを言っていた。こういうのもTOECを支えている文化なんだろうな。

「歌をつくりたいな」

さて、3日目。体験フリースクールの日。大人だけの体験と実習の日だ。

午前は、昨日見学した子どもたちと同じく、モーニングミーティングから始める。子どもたちのフリースクールでの体験をセミナー参加者も体験しよう!ということなのだけど、決して子どもになりきる、というわけではない。あくまでも自分として、体験する。

「話したいこと」「困っていること」「やりたいこと」をホワイトボードを3つの部屋に分けられているところに思いついた人から名前を書いていく。

僕は、「やりたいこと」に名前を書いた。この2日間、たくさん感じて考えてきて、さらにたくさん歌を歌ってきたので、今度は「歌をつくりたいな」と思ったのだった。偶然にも、他にも歌をつくりたい、歌いたいという人が何人かいた。他の人のやりたいことを聞いているうちにそれもやりたくなってきたりもした。

木陰を見つけてゴザを敷き、集まった人たちと歌いに歌った。参加者のひとりがジャンベを叩き、それにのっかって踊り出す人。僕はそれにコードをつけて、即興で歌が生まれちゃった。これこれーって感じ。少し離れたところでは泥団子をつくっている人、筆で絵を描いている人、田んぼで泥遊びをしている人、一人で雑草を集める人、虫取りをする人。みんなそれぞれ過ごしたいように過ごしている時間。何から何まで気持ちよかった。

音楽隊の仲間たちはブルースにハマり、そこから寿司ネタ即興ソングになっていき、通りすがりの人を捕まえては巻き込んだ。「ハマチ、ハマチ、ハウマッチ!ギャハギャハ!」とバカなことで大笑いした。音楽を楽しむ文化、そうそう、僕はこれが心底大好きなことだったんだ。なぜ、すぐに忘れちゃうんだろう。楽しむ余裕もなくなっちゃうんだろう。そうだ、遊び仲間が必要なんだな。

そんなこんなでお昼になった。ご飯を食べる時間もまた、大事な時間なんだなってことが腹の底で感じられる時間。TOEC農園のものをたっぷり食べられることで、この地をつくる循環の環のなかにいる共同体感覚もあった。

「歌にする、って心が現れる感じだよねえ」

そして午後は、いよいよ実習。僕はせっかくなので場づくり実習をした人に対するフィードバックの場のファシリテーター役に手をあげた。他にも手をあげた人がいたが、譲り合うでもなく、ちゃんと思いを聴き合い、結果的に僕がファシリテーションをやることになった。こういう些細なプロセスもお互いに聴き合うチャンス。風越の現場でも大事にしなきゃだ。

僕のグループは、モーニングミーティングからはじまった。参加者のひとりが場づくりをするスタッフ役で70分の実習がスタート。僕は困っていることとして、お腹の調子がずっと悪いことを話し、まずはのんびりと畳に横たわることにした。

仰向けからうつ伏せになり、「今のこの感じ、575にしたくなってきた」とふとそう思ったと同時に呟いていた。近くで同じくのんびりしていたプーさんが紙とノートとペンを貸してくれた。僕は紙を選んでうつ伏せになりながら、「畳にのめりこみたい・・・」とブツブツ言いながら今の感じを575にしてみた。

重たいな このまま畳に めりこみたい

すると、「なんか、めりこむとのめりこむって似てるなあ」と口から溢れる。

めりこむと のめりこむは にているなあ

お腹の中の詰まっている感じ、なんなんだろう。なかなか腸が動いてくれない。ここまで泣きたい気持ちも、嬉しい気持ちもあっただろうに、なんだかそれも詰まっている感じがする。

なんなんだ 詰まるところに 何がある

お腹の中 なかなか中から 泣かないな

言葉遊びが楽しくなってきた。4つの部屋に分かれた折り目がある紙はあっという間に埋まり、新たに4つの部屋をつくって、また埋めたくなってくる。

差し込む日の光がきらめき、ゆらゆらと揺らいでいる。でも、僕はこれからのことに対して怖れの感情を持っていることにも気づいている。

煌めきと 揺らぎの中で 怖れるか

「木もれ日っていい言葉だよねえ」プーさんが言った。僕は「木もれ日」とだけ書きはじめ、いつでも思いついたら書き出せるようにペンを持ったまま突っ伏していた。すると、プーさんが「とっくんに木もれ日が直撃してるよ。木もれ日が俺を直撃!木もれビーム!(笑)」と笑いながら言う。ちょっと面白すぎるねんけど!と思い、僕はそのまま続きを書いた。

木もれ日が オレを直撃 木もれビーム

ああ、埋めたい。言葉よ降りてこい・・。いや、待てよ。焦らない、焦らない。まあ、待とう。何もまとわず、的を射なくてもいい。

まあ待とう 何かをまとわず 的を射ず

あれ、歌にしたくなってきたぞ。そんな気持ちが立ち上がり、「重たいな〜♪」と直感で湧いてきたコードとメロディに合わせて歌ってみる。おお、いい感じ。そういや僕、これまで「曲づくり」のためにギターを初めて、一生懸命「曲づくり」をしてきたよな。でもこれは「歌にする」って感じだ。

プーさんが、「つくるって頭を使う感じだけど、歌にするって心が現れる感じだよねえ。」なんてことを言ったもんだから、おお!そうだ!僕は、ゼロイチの「ない」を「ある」にする曲づくりをしてきたけど、本当はもうすでに「ある」ものをただ「歌にする」ことで表現するだけでいいじゃん!そんなことに気づいちゃった。

うたにする 心が表に 現れる

そうして、70分の間に「今」が「歌」になっちゃったのだった。ひとりで「曲づくり」するより、仲間と「歌にする」方が僕は断然好きだ。TOECでのここまでの体験が導いてくれて腹の底から実感できたことだった。

「畳のうた」
重たいな このまま畳に めりこみたい
めりこむと のめりこむは にているなあ
なんなんだ 詰まるところに 何がある
お腹の中 なかなか中から 泣かないな
煌めきと 揺らぎの中で 怖れるか
木もれ日が オレを直撃 木もれビーム
まあ待とう 何かをまとわず 的を射ず
うたにする 心が表に 現れる

「とっくんの話を聴く感じになっちゃう。」

70分の場づくり実習の時間が終わり、この曲をみんなにお披露目。充実感でいっぱいだったのも束の間、その後すぐさま、僕のファシリテーション実習がはじまることを忘れていた。あたふたしている感じを開示しながら、徐々に場づくりに対するフィードバックの時間をファシリテートしていく。まずは僕の思いを場に置くところからはじめていった。

これまでTOECのスタッフのみんながファシリテーションしてきた時の立ち振る舞い、空気感、間合い、特にプーさんの感じをイメージとして腹の底に持ちつつ、一人ひとりの言葉と温度をしっかり聴くことを意識した。こんな風に聴いたよ、僕はこう感じたよ、ちょっと聴けてなかったけどさっきの大丈夫だった?など、いつもとは違う自分の立ち振る舞いに挑戦してみた。自分のくせもよくわかる。僕は一つ一つ、なんでも反応してしまう。でも、それって自分のエゴで、自分が、応じたいのよね。相手にとってノイズになるかどうかまで意識していない。時折、そんな自分が出てきそうになっては、我慢をした。出てたが。

そうして、僕の30分のファシリテーション実習は終わった。その後、僕に対するフィードバック。「聞いてくれてるなあと感じられた」「温かさを感じた」「安心して話せた」など、基本的にポジティブなフィードバックのなかで、スタッフのなべちゃんが「こなれてる感じというか。とっくんの話を聴く感じになっちゃう。」というようなことを感じて伝えてくれた。ああ、思い当たる節はあるなあ。「そうそう、途中からとっくんに話してたな。」と別な参加者も。ちょっと自分が握るんだ、自分が聴きたいんだという意識が強かったのかもしれないな、と内省。聴き合う場ということの意味が少し立体的になったような気がした。

自分からきく。何よりそこから。

4日目、最終日。

朝、スタッフのバンブー企画でフリーダンスからはじまった。青空の下、流れる音楽が心地いい。音に乗せてみんな自由に体を動かす。自分の体がなかなか自由になれないことを感じながら、それもまたオッケーだなとも思える朝。

その後、小屋の中で大きな輪になって最後のチェックアウトミーティグ。参加者とスタッフ30名ほどのそれぞれの思いが、涙になったり、笑いになったり、言葉にならなかったり。僕の思いは、歌になった。

涙、笑い、歌、おいしい、うれしい、かなしい、たのしいなどの気持ちは人と人、さらには自分と自分自身を繋いでくれる。本来、人の持つパワーを存分に味わった4日間だった。そんな場を手作りで暮らしているTOECのみんなはすごい。

TOECの「今ここ」の気持ちを聴き合う文化が、本来、その人自身が持っている「のびやかな自分になる」力を存分に発揮させる。ある夜、スタッフのなべちゃんに、「とっくんは、そうあるべきだって思ってるんだね」って僕の思いをどう聴いたのかを返してくれて、ハッとしたことがあった。

そんなやりとりの中で、まずは自分が自分のことをきけてないな、と気づかされた。何よりそこからだなって。きくってうれしいことなのだという実感は、戻ってからも大切にしていこうと思った。

あれから1週間。

「そっか、そっか。そう思ってるんだね。」
「僕はさ、こう思ってるよ。」
「その思いが聴きたかった。ありがとう。」
「今のこう聴いたけど、どう?」

風越での日常に戻り、「ああ、きけたなあ。」と思える瞬間が少しは増えた、、、かも。

#2022 #スタッフ

片岡 利允

投稿者片岡 利允

投稿者片岡 利允

奈良県公立小で4年勤めたのち、準備財団時代の2019年から軽井沢にきちゃいました。B型山羊座の左利き。男三人兄弟の長男です。好きな教科は国語。うなぎとうたが大好物。学生時代は、野球部でバンドのボーカルでした。関西人ですが、どちらかというとツッコミの方です。

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