2022年9月20日
(書き手・久保 元城/2024年3月退職)
風越学園に来て4ヶ月、7月にアウトプットデイがあった。(アウトプットデイとは、各学年のテーマの発表の他に、マイプロと呼ばれる自分がやりたいと思ってやっている活動の発表会のようなもの。)そこで驚愕したことがある。今回はそれを書き残しておきたい。
教室のドアに「2年ぶりにオカデ、復活します!」という看板が出ていた。
「オカデ?何だろう。2年ぶりとは!?」興味が湧いて中に入ってみると、20程度の教室の椅子はほぼ埋まっており、立ち見する人がいるほどだった。
そこには、大きな段ボールが一つあり、その周りに子どもたちが立って、何かを話している。どうやら、5・6年生(カナエ、タツ、メイ、ショウタ、ロイ、タイガ)の劇の発表のようだった。
だが、台本や道具の準備、練習もほとんどしていない様子で、セリフや動きがその場のアドリブに見える。しかし、ダンボールがバタバタと動き出したり、そこから手が出てきたりすると、会場からは、大きな笑いが。
劇が終わるとすぐに「ちょっと..うまくできなかったんで…あしたもう一回やります…!やる場所とかまだ決まってないけど….どっかで必ずやります!」と、観客に向かって叫ぶ主催者のカナエ。
会場からは、拍手と「来年も、ぜひやってよ!」という声。観ていた大人たちは、にこやかにその会場を後にした。
その後、これまでの準備のことや発表の感想が気になり、カナエに話を聞いた。「アウトプットデイの1週間前にみんなと話して、やってみようかなって。もうオカデは、やめようかなとも思っていたけど、発表したら、またやりたくなった」と話していた。
オカデはカナエたちが3年生の時に「はらぺこあおむし」をモチーフに始まった創作劇らしい。
この「オカデ」の発表は、私にとって衝撃的だった。
というのも、一般的な学校において、保護者や地域の人などが見に来る場といえば、教師たちは、立派な子どもたちの姿を見せようと、一生懸命に計画や練習を重ねようとする。
劇の発表であれば、セリフをしっかりと覚えるように指導し、演出から衣装、大道具、音楽、全てに教師の手が入る。さらには「もうわかった」「もうできる」などと子どもたちが思っても、「もっとできる」「まだいける」という教師たちの熱意、さらに「保護者に心配をかけないように」という不安も加わると、教師の気持ちがおさまるまで練習が重ねられていくことがある。
子どもにとって必要感のない練習や、「劇や学習発表会はこういうものだ」というモノサシを当てられた子どもたちは、果たして幸せなのだろうか。教師の手が入りすぎた発表会で、一体何を学んでいくのだろう。きっと自分自身の思いに蓋をし、権力をもつもの(教師)の言うことを黙って聞く術を身につけていくのかもしれない。
白状すると私自身も、17年間公立の小学校教諭として、多少の違和感をもちつつも、「学習発表会は完成度の高い作品をつくるものだ」という観念に支配されていたと思う。
もちろん、完成度が高いに越したことはない。練習を重ねさせることで、子どもだけではたどり着かない境地にいける場合もある。抜かり無く準備するという経験を重ねることで、より良いモノをつくっていくマインドや体に整えていくことができるとも思う。
だがやはり、そうした他人の解釈を入れて、手を出すよりも大切なことがあるのだとも思う。
風越学園には、オカデの発表を見ていた保護者のように子どもの気持ちに向き合い、とことん付き合う大人たちがいる。「ちょっとやってみようかな」という姿に気づき、見守ることができる大人たちがいる。未完成の発表に、拍手を送る大人たちがいる。そんな大人たちの中で育った子どもたちは、どのような大人になっていくだろう。
私には、教師として変わらない願いがある。
物事を良い悪いだけで判断するだけでなく、あるがままを認めることができる子になってほしい。何をするかや、何を持っているかということだけではなく、どうありたいかという視点に立って、未来思考で自分自身を捉える子になってほしい。そして、「よくやったな」「頑張ったな」と、自分自身にマルをつけられる子になってほしい。
自分を愛することができる人が、他人を愛することができると、私は思うからだ。
風越学園が掲げているように、私は、子どもたちに幸せな子ども時代を過ごしてほしい。だから、子どもの横に座り、その子が何を見て、何を大切にしているか。その子の物語に耳を傾けたい。
とはいえ、風越学園でも義務教育学校としてやらねばならないことがある。待ったなしに学ばせなくてはいけないことが決まっている。子どものペースでどこまでも放置しておくわけにはいかない。私は教師として、子どもの願いに関係なく、何かしらの課題を出し、評価していかなければならない。
一方で、課題など出さず、評価もせず、ただその子の物語を聴く存在でありたい。そして、その子のありのままを認め、その子が自分のモノサシで自分にマルをつけられるようにしていきたい。
義務感や責任感と自分の願い。相反するものが行ったり来たりする。まるで矛盾の海にいるようだ。この海で私は、「何を本当に大切にしなければならないんだ」と葛藤し続けていた。
そんな中での、このオカデの発表。
子どもの物語をありのままに受け止めてくれる大人の存在こそ、その子を本当にエンパワーする。そのパワーこそ、矛盾の海を泳ぐ推進力となる。それは私にとっても、子どもにとっても。
生きることは、矛盾の海を泳ぐことではないか。とすると、自分のことを丸ごと受け止めてもらえる経験こそ、子ども時代に積みあがっていくといいのではないか。
オカデを見守る大人たちは、そんなことを私に教えてくれた気がする。
追伸:オカデとは、本当は「はらぺこむかで」としようとしたが、「むかで」と書いた「む」が「お」に見えて、「おかで」となったそうです。