2022年7月27日
風越学園の人になって、約4ヶ月が経った。
ここに来て、一番感じていること。それは、「風越は、自分を見つめる場所」だなあ、ということ。
入ってしばらくの間の私は、「風越のスタッフらしさ」を探していた。
例えば、子どもたちがけんかを始めた時。「風越のスタッフって、こういう時どうするのだろう?」と、考える。
子どもに何かを聞かれた時。「風越では、どれくらい答えて、どのくらい自分で考えさせるのだろう?」と、その線引きを知りたくなる。
では、今までの私は、どうやってその場面での自分の行動を判断していたか。それは、その学校の決まりと、学校という仕組みだった。公立学校では、その学校の決まりや仕組みがまずある。そして、迷った時にはそれを拠り所として、子どもたちへの対応や自分がやることの判断を行うことができた。もちろん、その決まりや仕組みが全てではなかった。けれど、迷った時に拠り所となるその軸は、学校が作ったものであり、それに沿っていれば良しとされていた。
しかし、今の風越学園には決まりがほとんどと言っていいほど、ない。それは、大人に対しても、子どもに対してもだ。仕組みだって、まだまだ試行錯誤中で、がっしりとした頼れるものでは、ない。逆に言えば、どうにだってできる状況。
「『風越らしさ』ってなんだろう?」「私は、どうしたらいいのだろう?」と、正解を探すように、周りの様子を観察したり、うかがったりする、不安定な日々が続いていた。
そんな悩みを持つ中でも、子どもたちとの日々は待ってくれず、流れていく。子どもたちと過ごす「現場」というものは、本当に色々なことが起こる。
様々な悩ましい場面に出会う中で、「今までの私だったら、こう対応していたかなあ。」「対応に悩んでしまって何もできなかったけど、あの場面はさすがに許せなかったなあ。」など、色々な感情が出てくる日々。
そんな中、ゴリさん(岩瀬)から「最近どう?」と声をかけてもらい、立ち話をしていた時のこと。スタッフの介入について、活動の構成の度合いについて…と色々な話をして、ゴリさんから最後にかけられた言葉は、「風越らしさって、あるようで、ないから」という一言だった。
同じ時期に、幼稚園スタッフのわこさんに「風越に入ってみて、どう?」と話を聞いてもらう機会があった。
何を拠り所にしていいか分からずに困ってしまっていることを正直に伝えてみると、わこさん(斉土)からも「私も、ずっと迷っているよ」「あれでよかったのかなあ、こうした方がよかったかもなあ、と考え続けている」というお話を聞く。そして、最後に、「迷うことはたくさんあるけれど、大事にしたらいいと思うのは、『人』として…じゃないな、『きみどり』として、その場で感じたり考えたりしたことを、子どもたちに伝えていくことじゃないかな。」という一言。
「教師」として、でもなく「スタッフ」として、でもなく、「人」として、でもなく、『私』としてそこにいること…。
そう思うと、今までの私は、「教師」として子どもたちといることが、私の在り方であり、「教師像」が私の拠り所だった。「教師として、こうするべき」が私の行動基準だった。でも、風越学園では、「こうするべき」がない。そこで求められるのは、「私は、どうするか」、なのだ。
風越学園で過ごしていると、どうしていいか悩んでしまうような、思いもよらない場面に、信じられないくらい遭遇する。
それは、こちらが用意した流れに子どもを乗せたり、固定的な活動場所で過ごしたりするのではなく、子どもたちが考えて行動をしたり、流動的な場で活動をしたりする場面が多いから。
「なるほどなあ!」と予想外な子どもの様子が素敵に思える場面もあれば、「困ったなあ…」と正直、まいってしまう場面もある。
たとえば、こちらが考えていた流れと違う動きを子どもたちがやり始めた場面、今やっている活動ではないところで子どもたちが夢中になっている場面、提案したことを「やりたくない」と言われた場面、思わぬ出来事によって活動が大きく変わりそうな場面…
5月のある日の私の振り返りを紹介しようと思う。
少し話の筋から逸れてしまうのだが、面白いなあと思うのは、今こうやって5月の振り返りを読み返すだけでも、今の私の考えることが前と変わってきていると感じることだ。
今の私は、このような子どもの姿が見られる場合は、子どもたちにとって、「プロジェクトの時間」が今までやってきた「授業の時間」と何ら変わらないものになってしまっているのではないか、と感じる。座って机に向かっているのではなく、動いて活動をしているから…といって、子どもたちは夢中になるわけではない。また、「◯◯の時間」のように時間で区切っていくことで、その◯◯に縛りたくなるし、◯◯でない場面に目が向くようになってしまう自分がいることに気づく。そういう意味では、「プロジェクト」という◯◯に悩み、縛られていた4ヶ月だったと思う。
そう考えると、私が担当する1、2年生だからこその時間の区切り方や、逆に区切らなさ、みたいなものがあるのではないかと思うし、そこにチャレンジしていきたいなあ、と感じる。
と、このまま続けるとまだまだ語り足りなくなってしまうので、この話題はまた今度。
さて、話の筋に戻ると、このような悩ましい場面では、「私は、この場をどう感じているか」「私は、この場についてどう考えるのか」という、『私の感じていること』に向き合い、耳をすまさなければならない。これは、今の私にとっては思った以上に難しく、日々トレーニングしている気持ちでいる。
そこで、感じていることとズレたことを伝えたら、なんだか胡散臭くなるし、子どもたちに伝わらなかったりする。根拠がないようなそれっぽい答えでは、子どもたちが納得しないことも多々ある。
どんな場面でも、「私は、こう思う」ということを、それぞれの人が、自分の感じていることに正直になったり、じっくり考えたりすることが、風越学園での行動基準になっていく。そして、それを行動基準として自分の軸にできるところが、風越学園のよさなのだと思う。
風越学園では、大人も子どもたちも「あなたは何がしたいの」と問われる場面が多くある。風越学園にいる人だからって、自分のやりたいことがはっきりしている人ばかりではない。その問いに困ってしまう人たちも、もちろんいる。でも、そうやって「あなたはどうしたいか」を問われる場面を重ねていき、それに悩み続けることで、もがいてもがいて、苦しみながらも、少しずつ自分を見つめていくのだと思う。
子どもも大人も、そうやって自分を見つめていく場所、それが風越学園なのかもしれない。