2022年6月9日
年長になった姪が、ある時、私の部屋に来て、ベッドに置かれた赤木先生の『アメリカの教室に入ってみた』(ひとなる書房)を見るなり、「アメリカだってー」と手に取り、ページをペラペラめくる。意味わかんないので、ほっといたら「わぁ!みて!ねながらほんよんでる!いいなぁ。アメリカは、おこられないんだ。」と言ってきて、これはもしや・・・と思いながら、その時は「そうなのかもね〜」と言っといて。後で姉に聞くと、どうやら先生が厳しいらしく、小学校に向けて当番があったり、姪は自分が怒られていないのに、自分事のように怒られた気持ちになったり、次の日当番だと、前の日から忘れちゃったらどうしよう・・・と思っているらしい。
あるあるネタだな、がんばれ、姪!と、叔母の立場では思うけれど、今年度私も1・2年生のスタッフになったので、「小学校に入ってみた」みたいな感じで、この2ヶ月経て感じたこと、考えたことを徒然なるままに書こうと思う。また巷で話題の幼小の連携についても触れられたらいいけれど、どれも主観なので、悪しからず。
さて、幼児教育に携わって数年と、小学校に行って2ヶ月を経て、私の印象では、『幼児期は、個から集団へ』そして『児童期は、集団から個へ』というのがしっくりきている。これは、もしかしたら風越学園の特有かもしれないし、私個人の見取りの観点かもしれないけれど、結構的を得ているんじゃないかな?
幼児期、いわば幼稚園では、集団はあるけれど、まずは個が尊重されて、「みんなでおはようするけど、あなたはどうする?」から始まる。周りに同じような遊びを展開する子たちがいても、まずは生活から、遊びから、関わりから、五感から、自分を知っていく。そうしていく中で、自分に気づき、自分を知り、相手に目を向けるようになっていく。
一方児童期では、集団生活が基盤になる。ホームがあり、ラーニンググループがあり、そこに所属しながらその集団の中で、どういう自分でいるか、どういう自分が心地よいか、どういう距離感が自分も相手も居心地がいいか、この状況で自分はどういるべきか、この活動に対して、自分はどう感じるか、考えているか、どこを面白いと捉えているか、というように、自分へと戻っていく。
「えー、好きなことだけさせてあげたらいいじゃん。みんなと同じことさせられるの嫌じゃん」と私も集団とか苦手で、あのJK時代の周りが「カワイイ」って言ったら、同調しなくちゃいけない時代を生きていたので、よくわかるけども、どうやら人間は6年ほど生きると、『当たり前』なことが多くなるらしい。この『当たり前』ってのが、感性を鈍感にさせるものでもあるし、安心に導く効果もあると思う。
たとえば、幼児期にしていた好きな遊び。その頃は、同じことを延々と続けていても、発見の連続、不思議が溢れ出して、どんどんやっていくうちに、理解していく。これが、『当たり前』に変化した瞬間、気づきや発見に鈍感になって、安心になって、その中では新たなものに出会いにくくなる。だからもう、やらなくていいということではもちろんなくて、ある程度『当たり前』を知った人間には、違う視点を広げていくことも必要そうだ。そのために、集団での生活があり、自分とは違うようで同じような感じの人たちとの関わり合いがさらに自分を知ることへと繋がっていく。
だから私は、活動内容によって、やりたい、やりたくないの選択ではなくて、そういう感情を持つのはもちろんいいけれど、その気持ちを持った上で、「自分はこの活動を一緒にする集団の中で、どう過ごそうか」という意識を持って欲しいと思って、関わっている。そういうことを経て、どうやらこんな感じは面白い、あいつが言ってたこの発想は確かに気づかなかったな、こういう雰囲気苦手なんだよなー、窓みて落ち着こう、とか、色々な自分に気づいて知っていって欲しい。
幼稚園の卒園の時期には、「座っていられますか?」って小学校の先生によく聞かれたり、「人の話は聞けますか?」とも質問されたりしたけれど、なんというか、集団として行っている活動を面白がれる技を身につけられちゃったり、友達とたくさんぶつかったり、いろんな言葉を使って真似してみて相手の表情や感情を知って、言葉を理解していったりした先に、6歳の自分を確立していたら、それでいいんじゃないか、と思う。ただ、集団の中で生きていくことはちょっと意識して、集団の中の自分を見出せたらいい気がする。
こんなこと言っちゃうと、「お前も、そんな教育させる人間になったのか」ってため息つかれそうだから、ここからは、私の学びの視点をちょっと公開。
現在の1・2年生は、小さなプロジェクトを主に午前中にやっていて、私は『ゴミ宝探しチーム』。大きなホワイトボードを持ってきて、書こうとしたら、2年生のキョウが前にやってきて「それでは授業を始めます。」と笑いながら、言う。それを受けて、2年生のリンが「キョウ、先生やってよ」と言い、「それでは、皆さんさようなら」と言って、爆笑を起こす。(全く笑いどころがわからなかったのが、残念)そこで私が「風越って先生いるの?」と聞くと、2年生のガクが「スタッフはいるよね」と言うので、「先生とスタッフって何か違うのかな?」と尋ねると、これまたガクが「スタッフは見守る人で、先生は教える人」んー、なるほどね〜と思っていると、キョウが「さんだーは先生だよ。だって英語の先生だもん」と。本当にこの子達の感覚と思考は常に面白い。私は、先生になりたいのかな?
1・2年生のスタッフになるってわかった時に、願ったことは、関わる子どもたちが『自立した学び手』になってほしいな、ということ。幼児と関わっている時も常に『自立してほしい』っていうのが、私の中にはあって、ある意味『自立』は私の中では、支柱になっていることに気づく。『自立』することは、自由になることでもあって、何かをつくり出すことも変化させることも壊すことも全て自分の中にある。責任もあるし、判断を迫られることもあるけれど、どんな年齢であっても世の中の一員であるから。
ただ、『自立した学び手』になるために『教える』の作業は、とても難しい。「世の中、こういうものですから。当たり前はこうです。」って示しちゃうのは、この6歳、7歳、8歳の子たちには、必要なのかな?
「今日あったことでも、書こっか〜」って提案して、マス目の描かれたプリントを渡したら、「今日、何日ー?」「何曜日だっけー?」って複数言われたので、「じゃあ、一緒に考えるか」とホワイトボードに一緒に考えながら書く。日にちと曜日と天気。「おんどって書いてあるー」と言われたので、「えー、何度なの?」と聞くと、アオが「えーとね、今日の僕の温度は、36.5度」と答え、度肝を抜かれる。「えー、地球の温度じゃない?」と2年生のユイが言うので、「確かに温度だけだとどっちかわかんないねー。どっちでも、どっちもでも、いいんじゃない」と伝え、ホワイトボードには、どっちも書く。これを面白いと取るか、いやちゃんと教えろよと取るか分かれるだろうけど、一度これを世間の『当たり前』に当てはめちゃったら、一生もうその視点は出ないだろうな。
妖精の世界で生きている1年生のマル。私はこの世界が大好きなんだけど、ゴミ宝探しチームで、森に「見つける」をテーマにして出かけて、戻ってきた時に、絵日記仕様のプリントに森で見つけた花から『妖精の国のお花』のお話作りを始める。「できた〜」と言って、持ってきたと思ったら「ちょっと人間の世界の文字がわからないところがあったから、そういうところは妖精語で書いたの」と言って、私は妖精語がわからないので、読んでもらう。すごく羨ましいなぁと思う。きっとそのうち、人間が読めるように全部人間語になってしまうだろうし、人間に理解されるためにマル自身が変化するだろうけど、それまではなんとか自分の知恵を絞って書きたいと実現したらいいんじゃないか、と思う。もちろん見えるところにひらがな表は貼っておくけどね。
そうかと思うと、2年生では好きな時間を書くことがあって、多くの子が『3時00分』と書いている。「なんで?」と聞くと「おやつの時間だから」と答える。「え?いつも3時におやつ食べてるの?風越って何時までだっけ?」と聞くと、困り果てている顔を何度も見る。この『当たり前』の感覚、なんなんだろ?
ここからは1〜4年生のホームの話。「ぬけあな」(ホーム名)の住人の私は、ホームベースにぬけあなを作ることになったので、絵本『わたしのおうち あなたのおうち』(童話館出版)を読む。その後、こぐま(岡部)が「家は便利にするために作られていったけど、じゃあぬけあなは便利にするためなのかなー?」と問う。口々に「便利じゃない」「不便」「面倒」と出てきて、「じゃあ、なんで?」とさらに問うと「面白くするため」「ハラハラするから」「考えて通るから」となるほどなぁと思っていると、4年生のアマネが「豊かになるから」と答える。
便利=豊か、と思いがちな私たちの生活の中で、不便=豊か、という言葉にすごくワクワクした。これは、本当に何に対してもそうだと思った。学びも、知識を与えたら、その子が豊かになるかというと、そういうわけでもない。だから、スタッフとして、この子に今、どんな知識を与えたらいいのか、待つのか、その方法はなんなのか、そのためにはやっぱり集団で生活していても、一人ひとりの子どもに対してスタッフや先生が見とりをするのが必須で、たとえミニレッスンで授けるにしても、その時間にどんな風にどんな表情で、どういう行動をしていたか、見とる必要がある。集団であれば集団であるだけ、学びあいが起きるとしても、それを見とれなければ、どんな学びあいが起きているか本質ではわからないんじゃないかな。だからスタッフや先生自身が自分のそういう力量を知るのも大事なんだと思う。私は、すでにキャパオーバーで、思考に反して行動が追いつかない部分がたくさんある。
こんな感じで考えていくと、私はどんな場面でも、一人ひとりが感じて考えて工夫して気づき理解していく過程が豊かだと思うし、大事に思っているので、先生というよりはスタッフ寄りなのかもしれない。
そして野外は、そこに立っているだけでも、五感が刺激されるから、それだけでも豊かなんだけど、今野外と校舎を上手く融合できていないでいる。野外での学びの環境が整えられず、結局学びは室内でしか出来ていない。
これでいいのか、わたし。風越学園の幼小の狭間にいながらも、狭間を大きくしている気がする。幼から1・2年生を考えていくの?それとも9年生から1・2年生を考えていくの?
ただただ目の前の子どもたちにとって、を考えていくのが、なーんだか難しい。