風越 参観記 2024年3月27日

風越でばん走する「ふり」をしながら考えていること(石川 晋)

かぜのーと編集部
投稿者 | かぜのーと編集部

2024年3月27日

まとまりのない文章を書き連ねていくことになります。ぼく自身が見ているもの感じていることをどう書き留めたらいいか、立ち尽くし、逡巡している感じなのです。とりとめもない文章にお付き合いいただくことになりますがお許しください。

風越学園への入り口

2022年度から風越学園に入っています。ぼくは元々風越学園の訪問にはとても慎重で、遠くから行く末を応援していたいというような心境でもありました。ぼくがばん走(*)していた先生方の多くがいろんな事情で結果的に風越学園のスタッフ入りしたことなどもあり、また、立ち上げの前から、中核的なスタッフと親しく関わっていたこともあって、近すぎない距離を選んである意味冷静に見ていたいという気持ちが強かったからでしょうか。ただ、今のばん走の動きを作っていく直接的なきっかけになった井上太智さんが、個人ばん走の形でぼくに授業に入ってほしいと要請してきたことで、これはもちろん引き受けるしかないなあと思って、2022年度から入ったわけです。

ちなみに太智の授業を岩瀬さんと一緒に見て、それを元に二人で対談するというのが、授業づくりネットワークが今の形態の発行になった1号目でした。少し時間が経ちましたが、今読み直すとさらに面白いところがたくさんありますので、興味のある方はお読みください。佐内信之さんが当時の太智さんの授業の記録も克明にとって、それも掲載されています。

*ばん走…2017年に公立中学校を退職後、年間120校あまりの全国の学校を訪問し、授業や研修会などを通して学校に伴走する取り組み。「学校とゆるやかに伴走すること」という本に伴走の物語をまとめています。


「学校」「学校的」ってなんだろう?

さて、それで、2022年度の後半は率直に言ってなかなか校内の空気は厳しく、先生方が背負ってるものが大きいんだなと、そばで見ているこちらの胸が潰れそうになる感じでした。
しかし今年度は春先の最初の訪問時から空気は大きく一新されていて、かなり驚きました。
卒業生が自分たちで卒業式をつくり上げて飛び立っていったということが多分一番大きかったのだろうと推察します。
教員の仕事って基本的に何かの成果が、例えば陶芸家のように成果物としてずっしりはっきり、自分の手でつくり上げたものとして残るわけではない。そういう仕事です。それだからこそ、卒業式というのはとても大きいものだなあと思います。

でも、これって面白いなあとも思うんです。もちろん風越の卒業式自体は、ぼくらの既成の概念を打ち破るような自由で闊達なものなのだろうと思うけれど、「卒業式」という仕組み自体はどのような形であれ健在で、ある意味「学校的」なものの究極の存在でもありますね。それが、スタッフや子どもたちの上に明るい日差しを差し込ませるというのは、とても面白い。そのこと自体が、「学校」「学校的」ってなんだろうということをぼくらに深くかんがえさせるものになっているなあと思うのです。

(参照記事)【第14回】はじめての卒業式 ―子どものほうが,風越学園のことをよくわかっているー

手から手へと渡されるものは何か

ところで、太智さんは実にセンスの良い人で、国立市の中学校に入っている時にも、2年目以降は、ぼくと周囲の先生・学年団とをなんとなく上手く結びつけて、組織全体を温めていく動きをつくっていました。ぼくが風越でどういう役割になっているのかはさっぱりわからないのですが、いくたびにたくさんの新しいスタッフとの関わりがあり、公的とも私的ともつかない不思議なサードプレイスへの引き込まれがあり、とてもおもしろい経験をしています。

今年度の2回目の訪問は、太智さんが主催する実践ラボが開催されていました。全国の、風越にあるいは探究理科に、関心のある人たちを公式に集めて話し合う場をつくるというもので、個性的な面々がたくさん集いました。
この日のことは、大阪で小学校の先生をなさっている殿村さんが報告されていたと思うので、それとは別なことを書こうと思うのですが、ぼくはあの日、太智さんの授業を見がてら、実はすぐ横で授業をしていたKAIさん(甲斐崎博史)の授業をじいっと見ていました。ライティング・ワークショップの大詰め。中学年の子どもたちがファンレターを書いている場面でした。少し目が悪くなってきたKAIさんが、原稿用紙に目を擦り付けるようにして一枚ずつを確認しながら、子どもたちに返却していく様子に、激しく心が動かされました。何よりも、彼の全てのプロセスが、手書き・ハンドメイドであることに、この数年ライティング・ワークショップにおいてもタブレット利用と手書きの間で揺れ動いてきた自分の問いが根本的に底が浅かったと気付かされる場面でした。「ライティング・ワークショップって、クラフトワークだったんじゃん」と。手から手へ渡されることにこれほどの価値があったのかということに打ちのめされるように気付かされたのでした。

「揃わない」をどう考える?

ぼくは最近、全国の教室・学校をばん走しながら(もちろん風越も含めて)、もう授業もクラスも「揃わない」が前提なんだよなという意を強くしつつあります。授業づくりネットワークの最新号「揃わない前提の授業とクラス」にも巻頭言の形でそのことを書きました。
実はあの中には書けなかった大きなきっかけがあり、それは、風越での今年度3回目の訪問体験の折の出来事でした。
ぼくは訪問の折にはたいてい午後からプロジェクトの時間に2階のどこかのRoom(教室のことを風越ではRoomと呼ぶ)に入るわけです。で、その訪問の際にもいつものように入ったのですが、アッと気付かされたことがありました。
一旦全員がRoomに収容された後、多少の時差はあるのですが、それぞれのRoomから子どもたちが図書館のある中央フロアに吐き出されていく形になる。つまり、プロジェクトの冒頭がどのRoomもみんな、先生のインストラクションから始まっているらしいということなんですね。そういえば、前もその前もそうだった。うーん、これはちょっとつまんないなと、そう思ったわけです。
揃わない、ごちゃ混ぜを、標榜する風越のプロジェクトがいつの間にか、みなさん同じような形態での授業構造・進行になっているのだとしたら、<学校はまあ、そういうものだからとみんなで納得するか>、<いや、そこを破りたいよと考えるか>。できれば後者であってほしいと思うわけです。もう子どもたちは揃わないが前提なんだから、実際に風越ならそのインストラクションの時間に入室してない子も、入室しているけど教室の後ろで本読んだり友人と戯れたりしている子もいるんだから、それをどう考えるかということだよなあ、と。

「立ち尽くす」姿をどう捉えるか

最後に。風越の先生方は、ぼくが入っている公立の学校の先生方と大きく違っている姿があって、それは、授業中にどうしたらいいかなと考え込んじゃう場面が多いということです。そして、そのことが自然に板についてきたなあと見ながら感じていることです。
ぼくはそれを「立ち尽くす」と表現しているのですが、この先生が子どもたちの前で、あるいは子どもたちと一緒に立ち尽くす姿が、そこかしこに自然にあるってめちゃくちゃ貴重なんだと思っています。
このこと自体が、ここにこの学校があることの価値だ、と。
ほとんどの公立学校は立ち尽くすことを許されていず(許されていないと感じていて)、結果、子どもにも立ち尽くさずひたすら足を前に出すことを要求することになっている。
風越はもっともっと子どももスタッフも気持ちよく立ち止まったり逡巡したりする学校になっていったらいいと、個人的には思っています。

2月のばん走では、3,4年生のプロジェクトの時間の中で読み聞かせをした

#2023 #スタッフ

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かぜのーと編集部です。軽井沢風越学園のプロセスを多面的にお届けしたいと思っています。辰巳、三輪が担当。

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