2023年3月27日
釣り船、カヤック、漁船、客船、フェリー、貨物船、ゴムボート、深海調査船、タンカー、潜水艦…。いろいろな船が出港し、寄港し、帰港する。たくさんの人や荷物を積んでいる、燃料も荷物もすっからかん、最新鋭や旧型、造船中に修理中、処女航海、試運転、各船状態も様々。港にもいろいろな人がいる。働いている人、釣りしている人、海を眺めている人、何かを売っている人、散歩している人。
その港で、僕は一人乗りのカヤックに乗っている。うろうろして、それぞれの船に声をかけたり、岸壁の様子を見たり、陸にあがったり。
そんな風越の港は、3月の半ばくらいからにぎわった。思い返すと、「みなとまつり」のようだった。僕は、小さい頃からまつりの準備も、本番も、そして後片付けも大好きだ。まつりが終わった今は、もう次に向かって全力で進んでいるが、夢のようなまつりの日々を記しておこう。
8年生が軸となりつくったスポーツフェスティバルは3月13日。影で支えてくれていた保護者のみなさんの存在、あたたかかった。当日は、1~9年生と保護者が異年齢のホーム単位で入り交じった。それぞれのホームの応援グッズは、子どもたちはもちろんだが、そのホームの保護者の皆さんが張り切ってつくっていた。「本部」の法被をまとった8年生の晴れ晴れとした表情。いつものことだが準備万端ではない。それでもなんとかなる、なんとかしちゃうのが頼もしいところ。1位が2つのホームあるから、急遽選抜リレーやるなんていう発想、大好きです。「8年生がしっかり9年生からバトンを受け取ったな」、そんなことを思いながら痛い足を引きずっていた。そう、僕はフットサルに参戦し、開始30秒で見事に右足脹脛肉離れで離脱。一度もボールには触れていないのに…。
どうぶつたんけんチーム(年長児)は、3月17日の「すだちの集い」の準備をなかなか始めなかったらしい。まだまだ遊び足りなかったのかな。前日になってやっと動きだしたそうだ。いつも集まっていた森に会場がつくられた。そこはたしかにハレの舞台だが、巣立ちの証書に描かれているような日常がゆっくりとしたリズムで弾むように流れていた。そして、最後。カエデちゃんとカホちゃんが大勢の人の前に立った。いわゆるおわりの言葉を担当しているようだった。2人はみんなの前で相談している。時々、口が「せーの」と言っているようだったが、その後の言葉が声にならない。どうぶつたんけんチームの面々が2人の所に近寄り、声をかけたり、そばに居たり。「この人たちなら大丈夫」とスタッフは覚悟を決めている。見守る大人たち。5分以上の時間が過ぎていただろうか。「これでおわります」と小さな声をカエデちゃんとカホちゃんは、見守る人たちに届けた。
9年生が行き先を告げられずにマイクロバスに乗り込んだのは3月16日。連れてこられたのはKAIさん(甲斐崎)とアンディ(寺中)が待ち受けるライジングフィールド軽井沢。7年生の時に越えられなかった壁に再チャレンジするのだ。9年生が自ら望んだチャレンジではないが、「受けて立とうじゃないか」という雰囲気。いくつかのエレメントへの挑戦を経て、いよいよ最後の3mの壁へ。体調が整わず休憩していたカイト、右足首の靭帯を伸ばしているコウキ、左手の指を骨折しているソウも加わる。制限時間を少し過ぎて、全員で壁を越えた。その日、9年生の様子をずっと観察しながら、僕はずっと言葉を紡いでいた。軽井沢風越学園初めての卒業生24人に贈る最後の手紙、卒業証書の文章をつくっていたのだ。それから5日後、手紙を一人ひとりに手渡す時が、とうとうやってきた。
9年生が自分たちの出港のためにつくったイベントの正式名称は「卒業証書ランウェイ授与」。卒業式ではない。そうぞうの広場に設けられたランウェイは、港の桟橋のようにも見えた。あの時あの場を共にした僕らは、世界一幸せな時間を過ごしていたんじゃないか。ランウェイを思い思いに闊歩する9年生の姿を見て、「俺たちの時、どうする?」と相談していた1・2年生がいたらしい。中学生ではない、小学生だ。それくらい9年生の姿は最高にカッコよかった。いっぱい泣いて、たくさん笑った一日だった。
2016年6月22日からはじまったプロジェクトの節目を祝うまつりが終わって、一人校舎を歩きながら考える。プロフィールにも書いてある通り僕の旅立ちは2032年3月と決めている。それまでの間、ルール・ロール・ツールをくるくる変えて、ここをおもしろい、おかしな港にしていく。たしかな手応えを感じた3月。ずっと工事中、ずっと未完成。行き先は誰も見たこともない遠くへ、進んでいきます。
何をしているのか、何が起こっているのか、ぱっと見てもわからないような状況がどんどん生まれるといいなと思っています。いつもゆらいでいて、その上で地に足着いている。そんな軽井沢風越学園になっていけますように…。
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