だんだん風越 2022年4月25日

祝メルマガ60号、「かぜのーと」編集で大事にしていること

辰巳 真理子
投稿者 | 辰巳 真理子

2022年4月25日

開校前の2017年5月から始めた「かぜのーと」、2022年4月のメールマガジンが60号めの発行となり、まる5年続けたことになります。なにぶん同じことを長くやり続けることが苦手な性分の私が、毎月コツコツと一度も逃さず発行できたことは、ちょっぴり誇らしく、また同時に一緒に編集しているひかちゃん(三輪)なしには到底無理でした。これを機に、なぜ私たちがこのような学校広報を試みているのか、どんなことを大切に編集しているか、またどんなことに難しさを感じているか、書いてみます。

「かぜのーと」とは、次のように紹介しています。

子どもたちの遊びと学びの様子、日々生まれるスタッフの問いや気づきなど、
学校づくりについてなるべくそのまま正直にお届けします。

2022年4月18日時点の掲載記事は、418。昨年度だけで134の記事が増えました。年に何度か、こんなにたくさん記事を出さなくてもいいのでは…、と頭をよぎることがあります。それでも届け続けているのは、なぜか。
一つは、子どもの育ちに関わる教育関係者や保護者のみなさんと共有しうる問いやヒントを記事で届けることによって、幸せな子ども時代を過ごす子どもが増えてほしいという願いがあること。二つめは、一言では言い表しづらい風越学園について、多様な書き手が多様な切り口で伝えることで、じわじわと風越学園の輪郭が浮かび上がってくると考えているから。最後に、記事を書くことがスタッフ本人とチーム両方の力になっていくのではという確信に近い仮説があるからです。

「かぜのーと」を通じて生み出したいことは?

開校前は、校舎も具体的なカリキュラムも何もない状態だったので、特に未来のスタッフとなる教育関係者と入園・入学前の保護者に向けて、考えていることや迷っていることを正直に書こうという意識が強くありました。開校後の今も引き続きその意識は持ちつつ、在籍の保護者・子どもたちとのコミュニケーションの機会としても位置づけています。各家庭と学校の関係性だけでなく、他の家庭の子どもの育ちをともに喜び、見守りあえるコミュニティでありたい、そのための一助になっているといいなと願います。

スタッフにとっての価値について、もう少し書いてみます。目の前で起きていることを自分がどう見て、どう考え、どう行動していたかについて自覚的にならないことには、また自分なりの意図や仮説がなければ、記事はなかなか書けません。もちろんスタッフ内でのふりかえりやミーティングで疑問やモヤモヤを扱うこともあるけれど、書くという行為によって生まれる気づきや思考の整理、深まる考えの価値を信じています。
日々、風越学園で同時多発的に起きているさまざまな物語を全スタッフが共有するのは、もはや不可能に近いことです。多少の時差はあれど、同僚が書く記事を読むことで自分の現場ともつながる問いやヒントがある、そんな記事を出していきたいと思い続けて、ここまできました。

編集のプロセスにおいては、書き手の思考や実感、存在、難しさやもやもやができるだけ読み手に伝わるようにと意識しています。安易にスタッフの言葉をわかった気にならず、「もう少し書くとどういうことだろう?」「この記事を読んでくれる読み手が受け取るメッセージは何だろう」などとフィードバックを重ねます。

また編集方針として、他の何かとの相対比較で風越学園のことを語らない、ということも大事にしていることの一つです。既存の教育の何かを否定しているから、風越学園の取り組みがあるわけではありません。私たちはこんなことを大事にして、こんなふうに考えて、こんなやり方を試してみているけどどうだろう?と、差し出したいだけなのです。

機能や構成の工夫としては、昨春から、各記事に「感想・お便り」を届けられるようにしました。ぽつりぽつりと届く言葉に、こんなふうに受け取ってもらっているのかと嬉しくなり、力をもらっています。
また、スタッフ以外が記事を書くことによって、より多面的・立体的に風越学園が見えてくるだろうと考え、神戸大学の赤木和重さんをはじめとする外部の書き手にお願いしたり、在籍保護者が過去の「かぜのーと」をどんなふうに読んでいるか紹介するキュレーション記事を始めたりしています。

どんなふうに、よりよくしていく?

難しさを感じていることの一つは、読みたい・必要としている情報にたどり着くために、どう工夫できるか、です。400以上の記事にはカテゴリとタグがついていますが、過去の記事はどうしても埋もれてしまい、いろんな切り口でのキュレーションはまだやりようがあるなと思っています。

「かぜのーと」ページの検索ボタンを押すと、カテゴリとタグで記事を探せます!

スタッフの書く時間の確保も長らくの課題です。子どもがいる時間に書くことはなかなか難しく、下校後の放課後も個別の家庭の対応、授業準備や学校運営に関するミーティング…とまとまった時間が持ちづらい。編集部としては、書き手とおしゃべりしながら、記事のテーマを練り上げたり、考えや構成を整理するサポートによって、書き始めのハードルを下げる工夫に留まっています(とはいえ、スタッフ一人あたりの担当は年に2回くらいだから、なんとか頑張れ!という気持ちも少なからずある…)。
一方、うまく言葉にならないことがある、言語化できることがすべてではない、とも思っていて、映像だからこそ伝えられることは「かぜシネマ」として少しずつ紹介しているところです。

また、書かれた記事が他のスタッフにとっても力に変わっていくためには、記事をもとに考えを交わし合うための機会をつくることも必要だなと考えるようになりました。スタッフ間では何度か、記事を読んで対話する場をつくり、さらに考えたい問いを出すきっかけにしたり、子どもとの関わりを再考したりしました。子どもたちや保護者と記事をもとにした対話の機会を持つことで、コミュニティとして育ち合っていけるといいなと、「アクティブ・ブック・ダイアログ(ABD)」ならぬ「アクティブ・かぜのーと・ダイアログ(AKD)」を始めてみることも保護者と画策しています。

今回あらためて、「かぜのーと」ってどういうものだろうと考えたときに思い浮かんだのが、もう20年以上も前にある研修で出会った次の詩でした。

「共にあるということ」

 共にあるということは、私たちのなかに、また私たちの周囲に現実に存在するものを、見たり聞いたり、それに触れたり、味わったりすることだ。思考・感情・空間といった個人に与えられた能力を結集することだ。つまり、人格としての自己に面と向かうことである。

 共にあるということは、ささやかなものに心を寄せることだ — 一枚の草の葉、飛びまわる虫、ふくらみゆくつぼみ、巣立ったばかりの小鳥など。

 共にあるということは、美しい旋律に耳傾けることでもあるが、それと同時に聞き慣れた音にも注意を向けることだ — 吹きすさぶ風の声、軒端打つ雨のひびき、道行く人の足音、幼子の泣き声などに。
 共にあるということは、色どり豊かな絵画に接することでもあるが、それと同時に、ありふれた物の姿に美を見いだすことだ — バラの花の赤さ、思いにふける顔、新緑のみずみずしさなどに。

 共にあるということは、たがいに耳を傾け合うことだ。友情をもって接するとき、自分には役割があるという生き甲斐が感じられてくるのである。

 共にあるということは、自己と他者の織りなす世界にかかわることだから、ひとり楽しむ想像の世界にかくれこんだりはしない。むしろ人びとの苦悩と努力に力を合わせるのだ。

 共にあることの秘訣は、昨日と今日、今日と明日をつないでいる何げない出来事を一つひとつしっかり生き抜けるようになることだ。

カーム/クロウネンバーグ/ムトウ 著
『共同と孤立に関する14章』より

スタッフ一人ひとりが日々見て、考えていることを書くという行為によって、過去と現在と未来、書き手と読み手の思考や距離や関係性をつないでいくことができるのではないか。「かぜのーと」をそういう機会として活かしていきたいという願いがあるのだと思います。そんなことを考えながら、60号めの配信準備を進めます。

#2022 #スタッフ #リソース・リエゾンセンター

辰巳 真理子

投稿者辰巳 真理子

投稿者辰巳 真理子

変化の大きい立ち上げ期を好み、これまで様々なプロジェクトの事務局に従事。組織は苦手だが、人は好き。おいしいものと日本酒も好き。長年の探究テーマは、聴くことについて。広報、ステークホルダー管理、各種イベント企画・運営などを担当。

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