
2026年2月25日
年中チームで10月はじめから当日の10/17までの間に起きていたことをまとめたお月見の夜(前編)の続編です。当日の夜の後半にどんなことが起きていたのか。そこからどんなことを考えたのかを後編としてまとめてみました。
10月17日のお月見会当日。
ヘッドライトを持ってきていたマナト、ユウホは、昼間からかばんの中からヘッドライトを出して頭につけてみては、どうやったら電気がつくのか、やってみせてくれる。「夜になったら、森探険に行きたい!夜だからモモンガがいるかもしれない。あとコウモリも飛んでるかもしれない」とマナト。
お団子を食べていたら、少しずつ陽が落ちて、あたりが暗くなっていく。食べている途中に「あー!一番星!」と、ロクちゃんが第一声をあげるとあちこちで一番星を探しはじめる。残念ながらこの日は月は現れなかったけれど(お月見なのに!)、星はひとつ、またひとつと姿を現してくれた。
お団子とスープを早々に食べ終え、ヘッドライトをつけたマナトとユウホが「あや、森探険行こうよ!」と何度も声をかけにくる。私が探険準備をはじめると、いよいよという感じでマナトたちが呼びかけ始めた。「夜の森探険いくよー、行く人集まれー!」どんどん人が集まり、結局ほとんどの人が夜の森探険に出かけることになった。
探険に出発する前に、森の入り口で相談会を開いた。見まわすとあたりはもう真っ暗。いつもの森と違ってなんだか怖い雰囲気が漂っている。まるくなってどの道を行こうか、と相談すると「怖いけど、いつも通っているところなら行けるかも」ということになった。「森の動物たちがいるかもしれないね」と私が伝えると「大きい声を出しながら歩いたら大丈夫」という。そして「お邪魔しまーす」と大きな声をあげて、集いの場所から熊鈴を鳴らし、足元をライトで照らしながら、ゆっくりゆっくり歩きはじめた。先頭はナツキ。遊び場と森の境界を示す鈴がぶらさがったところまで辿り着くと、一人ずつ神社のように鈴をならしていく。「カラカラーン、カラカラーン、カラカラーン」。
しばらく歩いたところでエルナが「なんかいる!」と声をあげた。ほぼ同時に誰かが「鹿がいる!」と言って、みんなの足がピタッと止まった。私から「驚いちゃうかもしれないからライト消してみない?」と声をかけた。手元のライトのスイッチを消しおわると、暗闇に包まれた。一緒に歩いていたスタッフのわこさん(斉土)が「鹿って目がひかって見えるんだって」という。しばらくの間、みんな息をひそめてすぐそばにいるかもしれない鹿を探した。さっきより少し小さな声で「空に星が見える?」とわこさんがいうと「あ、見えた!」「見えないよー」と声が上がる。星を探す人、鹿を探し続ける人。時間でいうとわずか3分くらいだったろうか。私たちには、森に生きる生命に近づいたような時間が流れていた。
お迎えの時間のタイムリミットが頭にあり、私から「そろそろ戻ろうか」と声をかけた。懐中電灯のスイッチを押すと、あっという間にもといた世界に戻ったような気がした。しばらく歩くと前方に校舎の灯りが見えてくる。森から校舎側に向かって出てグラウンドに戻る。グラウンドにはブルーシートが敷かれていて、そこで帰りの集いをしようと愛子さん(坂巻)が声をかけた。愛子さんが絵本『ゆめみるどうぶつたち』(イザベル・シムレール文・絵/石津ちひろ訳/岩波書店)を読んでいる間、わたしの左側にはタロウくん。右側にはメイちゃんが座っていた。
絵本を読み終えた愛子さんが「森の動物たちが近くにいるかもしれないね。動物たちも空を見ているかもしれない。動物たちがいつも見ている空を私たちも見てみるのはどう?」と声をかけ、みんなその場でごろごろ仰向けになった。タロウくんもメイちゃんもじっと空を見つめている。しばらくすると、メイちゃんがお月見会を楽しみにする中でみんなで歌ってきた「おつきさまの歌」を「おほしさま」に替えて歌い始めようとしたので、愛子さんが「あ、おほしさまに替えて歌ってみるのいいね」と応えて、めいちゃんの「おほしさまー」の歌声に、ブルーシートの上に寝転がった子どもたち一人ひとりの声が集まって、少しずつボリュームがあがっていった。
おほしさま まるいの なんで なんで
おほしさま きんいろなの どうして どうして
おほしさま いなくちゃ よるは まっくら
ああー おほしさまーって おいしそう
絵本「つきよのうた」(はせがわさとみ著/文溪堂)より
歌い終わってしばらくの間、ただおほしさまを見つめ、おほしさまに見つめられているような時間が流れていた。わたしとおほしさま、わたしとメイちゃん、わたしとタロウくん、わたしたちと森の動物たち。それらを隔てている何もかもが溶けていくような、大きなひとつの塊になってしまったような、そんな不思議な感覚に私は満たされていた。
ーー
後日、この時起きていたことについて数人のスタッフとふりかえる時間があった。私と同様に他のスタッフもまたあの時間に起きていたことを特別なものと感じていた。言葉にする必要もないように思うけれど、その一部分でも触れられたらと思う。
そもそもお月見がどんな関心から始まっていたのか振り返るところから考えてみたい。7月の七夕を前に愛子さんから「祈るって子どもたちと感じることが難しいんですよね。でも幼児期に大切なことのような気がしているんです。だから七夕を今年(活動に)置いてみるのはどうかなと思っているんだけど、どう思います?」と問いかけられたことがあった。私も以前関わっていた現場で「祈り」をテーマに七夕を行事として置いていたことがあったので子どもにとっての「祈り」について、愛子さんとやりとりした。七夕はその時の子どもたちの活動の流れもあり実現できなかったが、「祈り」への関心がかたちになっていったのが今回のお月見だったように思う。
そんな愛子さんの想いと共振しているのだろう。今年度から森との境界を示すものが木製の柵から鈴へと変化したことが、お月見の時間の構成要素となった。風越幼稚園では、子どもたちが安全に森で過ごせるように、毎年春に私たちの遊び場と森の境界(そこからは子どもだけで入らないという約束がある)を示すものを子どもたちと話し合い、つくってきた。例年子どもたちと木製の柵をつくってきたが、今年の春につくったのは木と木を紐で結んで、そこに色とりどりの鈴をぶら下げたものだった。森の境界が木材によって構成された硬い柵から、風に揺れる鈴の音に置き変わったことは、森と私たちとの境界は固定されたものではなく、揺らぎを含んだ動的なものであるという世界の見方を示すことでもあり、その感覚は子どもたちの身体に積もっていったのではないかと思う。加えて、柵と異なり、鈴は紐から取れてしまうので何度も付け直すことになる。「付け直す」という行為によって自分たちのフィールドへの感度をあげていくことにも繋がっていった。
お月見の夜前編の記事にも紹介しているが、お月見の日の前走期間に、私たちは1年通して出かけている田んぼに向かう道中の神社でお月見団子を供え、数日かけてみんなで拾い集めてきた美しい秋の草花を飾り付けた。そして「カラカラーン」と鈴を鳴らし、目に見えない大きな存在を前に思い思いに手を合わせた。
その体験は、森の境界を示す鈴と重なる。境界を跨いで森の奥へ向かった私たちは「鹿かもしれない何か」に出会い、好奇心と恐れを同時に抱えながら、森の動物に近づくような時間を過ごした。ブルーシートの上で寝転び夜空を見上げた身体には、森の動物に近づいた感覚がまだ残っていただろう。そんな余韻の中で、子どもたちは森の動物たちがいつも見ている夜空を見つめていた。そして、暗闇の中、お星様に歌で呼びかけることを通して、星との間にも何か特別な感覚が生まれていたように思う。
私自身があの日感じた、境界が溶けていく感覚について矢野智司さんの著書『意味が躍動する生とは何か』の中にこんな言葉を見つけた。
我を忘れて夢中に遊んだり、美しい音楽に心を奪われたとき、あるいは時間を忘れて森を散策したりしたとき、いつのまにか私と私を取り囲む世界との間の境界が消えていくといった体験をしたことがないだろうか。優れた体験では、このように自己と世界との間の境界がいつのまにか溶解してしまう。このような体験を溶解体験とよぶことにしよう。この自己と世界との境界に溶解が生じるとき、私たちは自己と世界とを、日常生活で経験する以上にリアルで奥行きをもったものとして体験する。私たちは生命の充溢感を体験しているのだといえる。
ごっこ遊びや自然物とじっくり遊んでいる時、しばしば溶解体験と思われるような状態が現れる。それは幼稚園の日常の中に見られることだけど、お月見の夜にはそれが集団で体験されているように感じた。
森の境界や神社で鈴を鳴らし感じた大きな存在のこと、森で感じた動物たちのこと、暗闇の中で見上げた星々のこと。そうした人間以外の存在とわたしとが生きているもの同士※として出会っている。毎日森の中にいるからこそ生まれる人以外の生命との無数の出会いの点と点が「お月見」を結び目につながり、線になって、歌という振動を媒介に、わたしたちの共通体験としてゆるやかに束ねられていったのが、あの夜の体験だった。森の境界が風に揺れる鈴の音に置き変わったように、わたしたちのあの日の溶解体験は、全ての境界が揺らぎを含んだ動的なものであるという世界の見方を子どもたちの内側のどこかに、残してくれているかもしれない。たくさん遊んだ日、ポケットに残された砂粒みたいに。
※参考文献:
「生きているものどうしの想像力 アニミズムがひらく生命の保育・教育」山本一成著、世織書房刊
