2024年11月26日
2024年度、幼稚園ではスタッフの研究テーマとして「森 ◯ わたし」(もり まる わたし)という言葉を置いています。2023年度の後半から森の案内人であり写真家の小西貴士さんに伴走いただきながら「自然の中で育っていることってなんだろう?」という問いからエピソード記述※を元に、日々の実践を振り返る機会をつくってきました。
その積み重ねで得られた気付きをもとに、次年度の方向性をめぐる議論の中で現れてきたのが「森 ◯ わたし」という言葉であり、それは同時に活動フィールドを校舎前の畑エリアから森へ移すという決定に繋がっていきました。
「森 ◯ わたし」
その間で生まれるもの、育っていくこと。
それを捉えようとし、共につくる保育者がいる。
幼児期は、「わたし」の存在感が少しずつ確かになっていく、大切な時期です。
森に息づく多様ないのちに出会いながら、わたしのいのちを感じ、存在感を育んでいきます。森とわたし(子ども)のあいだには、さまざまないのちが響きあい、生命的な時間と空間が生まれるなかで、わたしの世界がふくらんでいきます。
保育者も、森とわたしのあいだにいる人(環境)として、そこで起きていることを捉えようとし、時に相互に影響を与えあいながら、共につくり、支える人でありたいと思います。
2024年4月からは「森 ◯ わたし」をテーマに、月1回エピソードを出し合い、振り返りを続けてきました。夏休み期間中には、小西貴士さんの拠点である八ヶ岳の森へ幼稚園スタッフみんなで出かけ、森とわたしの間にあるものを感じる1日をつくりました。五感をたっぷり使いながら冒険する時間を過ごすことで、自然の中で子どもが体験していることに私たち自身が近づいていく時間になり、多くの気づきを得たように思います。
これまで議論してきたエピソード数は、およそ30。短いものも長いものもありますが、それぞれに「森 ◯ わたし」へつながる大切な子どもの姿が描かれています。
エピソードを選び、語り、仲間の語りを聞く。経験年数に関係なく一人称で対話を重ねていくと、子どもの姿やそこに流れていた時間が一滴一滴ふりつもり、わたしが大切にしていることが、私たちが大切にしていることへと繋がっていく。そんな手応えのある時間になっていきました。何度かエピソードの時間を重ねた後に、さらにみんなで検討してみたいと思うエピソードを一人ひとり選んで、読み合ってみると、複数のエピソードが同じキーワードで整理できそうなことも見えてきました。みんなで検討してみたいエピソードとして選ばれたエピソードの内、ふたつのエピソードを紹介してみたいと思います。
入園して1ヶ月。姉と離れがたく気持ちが揺れているロクの森との出会いを求めて、年少さんみんなで野原へ探険にでかけると、野原にたんぽぽの綿毛が広がっている。ロクと共にミヤビも綿毛で遊び始める。
ー
ミヤビは顔の前にわたげをもっていき、ふぅーーっとおおきく息を吐いた。
にやっと笑って何度も繰り返すのが面白い。
ロクは両手でわさっと綿毛をわしづかみ、そのままボンっと放つ。
スタッフ「かたまってとんでいかないね」
ロク「それはそうでしょ〜。とばないよ」と何度も何度も綿毛を握って投げることを楽しんでいた。
ロク「みてー!たこさんみたい!」
綿毛が全て無くなった様をみて、大発見をした!というような視線でたこさんを嬉しそうに眺め続けている。
ロクとミヤビ。2人でじっくりと綿毛をみつめる時間がゆったりと流れていた。
ーーー
探険中、たんぽぽが咲き乱れる原っぱに偶然出会ったことで、ロクは思わずたんぽぽに触れ、その綿毛のふわふわに誘われるように丸ごと指先で掴んでみたのでしょう。掴んだと同時にふわふわがなくなったたんぽぽは、全く違った表情になりました。新たに現れたたんぽぽの姿にはっと驚いて「みてー!たこさんみたい!」と大発見したロク。綿毛のないたんぽぽが、ロクの世界の内側にあったものとつながって火花が散るような発見となった瞬間です。その後も、何度も何度も確かめるように、綿毛を掴んではポイっとして、たこさんを確認するロク。この行為は、この後数日間続きました。
ロクのように、子どもたちが遊びの中で「〜みたい」と頻繁に表現していることも、エピソードを集めていく過程で見えてきたことでした。森の中は、わからないものとの出会いに溢れているので、その偶然の出会いに触発されるように、子どもたちは自分の世界の内側にあるものと目の前のわからないものとを結び合わせて、その子なりのつながりを発見していきます。それは、植物や虫、石、動物など、森の中に存在するあらゆるものの境界をまたぎながら見出され、その一つひとつの発見が、その子が自ら掴みとった、そのもののもつ意味であるように見えます。
エピソードを集めていく過程で、「〜みたい」のもつ、子どもにとっての意味と同時に、子どもと共にいる保育者にとっても大事そう、ということも議論されました。森の中は、私たち保育者にとってもわからないことだらけ。だからこそ、その中での子どもの「〜みたい」をわたしたちも同じ目線で受け取ることができるのだと思います。もし室内空間の中で、大人によって構成されたものに囲まれた環境の中で保育していたら、子どもたちの「〜みたい」に対して、同じ驚きをもって隣にいることは難しいのではないかと想像します。森の中で保育者は、わからなさの中に共にいる人として、子どもの隣にいることができ、それは自ずと子どもへの応答に滲み出ます。その応答の質感が子どもたちの「〜みたい」の本当らしさのようなものへ、少なからず影響するように思います。
森の中、カイトが雨水をたっぷり含んだ木を握りしめている。
ぎゅーっとすると、ジュワ~っと水が滴る。そしてカイトはそれをちぎってお鍋の中へ。
カイト「始めは固いよ、でも、こうして水の中でまぜると〜、ぷにゅぷにゅしてくるんだ」
スタッフ「ほんとだ、これはすごいね」
カイトは、何度もぎゅーっと握って、ちぎって、まぜるを繰り返している。
しばらくして、カイトが「みてー」と言った。カイトは木くずが入った水をお玉で掬って見せた。それは、とろっとお玉に絡まって落ちていった。
スタッフ「んー、ほんとだ」
カイト「お肉でしょ〜、あとほうれん草だ」と葉っぱを入れる。「あと何入れたい?」と聞くので、「にんじん」と答えると、枯れ葉を入れる。
一緒に遊んでいたエイタが「買い物いってきまーす」と言って出かけ、細い枝を束にして持ち帰ってくる。
エイタ「これにつけて食べて。ラーメンだよ」つけ麺のようだった。
カイト「あと、何入れてほしい?」
スタッフ「調味料もお願いします」
カイト「スーパー行って来ます」と言って出かけていった。
ーーー
このエピソードの考察の中で、記録者の愛子さんはこんなふうに話しています。
森の中で時間をかけて保水して朽ちかけた木と出会い、握ると水が出てくることを発見したカイト。握って搾り、出てきた水とぐずぐずになった木とを混ぜてみたのだろう。何度も繰り返していくうちに、思いもよらず、混ぜている右手の感触が少しずつ重たく変化していき、プニュプニュになっていることを発見し、没頭していく。カイトは、「ぎゅーっと握ってちぎってまぜる」という行為の中で、自らの身体を通して木という素材の変容を見出しており、木という素材のもつ多面性を掴んでいるように見えます。
このように事物のもつ意味を自分の身体を通して見出していくことも、エピソードを集めて考察していく中で、繰り返し出てくる子どもの姿でした。ひとつ目のエピソード「わたげの世界」もふたつ目の「ぎゅーっと握ってちぎってまぜる」も同じく、子どもが森の中で、そこに息づく多様ないのちに出会いながら、思わず身体と心が動き、目の前に現れたもの・ことが持つわたしにとっての意味を見出していく。そんなプロセスが現れているように思います。こうした子どもの姿から「意味を見出す身体」というキーワードが浮かび上がってきました。このキーワードに繋がる子どものエピソードをさらに集めていくことによって、わたしたちが保育の中で大切にしていることを語ることができるようになるのではないかと考えています。
子どもの姿を真ん中に語り合いながら、わたしが大切にしていることが、私たちが大切にしていることへと繋がっていく。そんなプロセスを大事にしながら、これからも「森 ◯ わたし」をみんなで深めていきたいと思います。
※エピソード記述
実践者が心を動かされた場面をあるがままにエピソードとして取り出し、実践者の興味関心の明示と省察を含めて記録する方法論
これまで主に子ども領域でつくる仕事や書く仕事に携わってきました。子どもが育つ現場をつくる仕事に携わるのは今年で5年目です。10年先の風景を想像しながら、たのしく冒険したいと思います。
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