2024年4月23日
前回の記事「自然の中で育っているものってなに?どらにゃごチームのいま」」の中で書いた自然(森)の中で育っているもの。
日々、森や庭で遊び、暮らし、様々な生き物との出合いや関わりをくり返す中で、「あ、むしがいる!」「お花きれい」というだけではない、より深くそのものへと思いを馳せたり、じっくりと細部まで観察する目や心が一人ひとりの中に育っているのを感じている。その根底には、どこか森の生き物たちへの尊敬があり、僕はそんな子どもたちの姿になんとなく”いい”と感じているのだと思う。
あれからも続いている「自然の中で育っているものってなに?」という問い。日々、起こっていることを森にまかせっきりになっていないだろうか。もう少し、森で起こっていることや要素(森の中にある育ちや学び)を浮かび上がらせたい。そう思いながら子どもを見ていると、そこで一つみえてきたことは、絶妙な”力加減”だった。
冬のある日。ソリすべりの後、転げたシホとコトホ。
そのままゴロリとしたまま動かないので、そっとのぞいてみた。
シホが雪をみてつぶやく。
シホ「ねぇ、みて雪。チカが教えてくれた雪見えるね」
コトホ「本当だ、なんかいっぱいだね」
シホ「ぎゅってすると見えないんだよね」
コトホ「でもさ、のせるだけだととけちゃうよね」
シホ「そおっとだよね、そおっと」
この出来事の少し前にどらにゃごチーム(2023年度年長グループ)で電車の旅にでかけた。その日は午後になり雪がふっている中を歩いて帰ってきた。降ってきた結晶がいつもよりも大きく、手のひらに乗せると結晶が肉眼でも確認できるほどだった。その様子をスタッフのチカ(奥野)が話してくれたことを思い出していたようだ。
ぎゅっとしたり、動かせばたちまち溶けてしまうであろう雪の結晶。大切にしたい気持ちを手のひらにのせて「そおっとそおっと」とのぞく二人。
なるほど。なんとなく過ごしていると当たり前のように過ぎてしまいそうだけど、自然の中で子どもの絶妙な力加減をみることがある。例えば、同じ雪でも投げる時はぎゅっとするし、やわらかい雪の感触を残したければ優しくにぎる。自分の手のひらに合う大きさややりたいことで力加減が変わってくる。こういった力加減は一年中、日々の中の様々な場面で起こっていることにふと気がついた。
夏の終わりにたくさん飛んでいるとんぼを捕まえる時は、羽が傷つかないように2本の指でそっとはさむ。木の枝を歩くイモムシを持ちあげる時には、ぎゅっとしすぎればイモムシはたちまち反応して身体をくねらせるので、そおっとつぶさないようにゆっくりとつかむ。
春先に生えてくるオオイヌノフグリを摘む時は、すぐに落ちてしまう花びらの形がくずれないように包み込むようにやさしく摘む。
色とりどりの木の実はドングリのようにかたいものもあれば、柔らかいものもある。その実に応じてぎゅっと掴むのか、指先でそおっと掴むのかはちがう。
柔らかい実はつぶれないように掴んで、そおっと摘む。
泥団子をつくる時、はじめはぎゅっとかためるけれど、砂をかけて磨く時はゆっくりと丁寧に砂を落として磨いていく。
そんな絶妙な力加減は一年中起こっている。そして、この自然(森)の中で育った力加減は、人に対しても起こる。「一緒にやろう」と遊びに誘って握る手。泣いて困っている小さい人を握る手。僕が気づいていなかっただけで、子どもたちはその絶妙な力加減で自分ではないものとの関わりをいつもしているのだ。
だからこそ、改めて子どもたちの世界をどうみてみるか。大人からしたらちょっとしたことも、見逃さずに大事にしていきたいと思う。
まだまだこれからも自然と子どもたちの間で起こっていることを見つつ、そこに僕はどう在るのか、関わるのか。自分自身の絶妙な間隔も育てていきたい。
長野県生まれ。
身体や絵、色などで表現したり、つくったりすることが好きですが、これといって決まったスタイルがあるわけではありません。そのときの自分が「心地よい」とか「よりよい」と思うカタチで表現するようにしています。 風越学園にくるまでは“健康”というキーワードを軸に、ちがった分野の世界をわたり歩いてきました。学生時代からのテーマは『究極の健康づくり』、自分らしくいることで幸せな毎日を過ごしたいと思います。
ダンスを通して子ども〜大人まで伝えたり関わったり、舞台に作品を出したり、自分自身も大小様々な大会に現在もチャレンジしています。かたまった表現にならないように新しいものに出会ったり、こわしたり、つくることが好きです。