風越のいま 2023年2月23日

「私」がつくることがつくりだすこと。

山﨑 恭平
投稿者 | 山﨑 恭平

2023年2月23日

前回のかぜのーとでも少し触れたが、技術・家庭科を担当しているということもあって、僕は日常的に身の回りの物をつくったり、修理したりすることが多い。家電から、衣服までいろんなものを直すことがある。研鑚的な意味合いもあるが、その活動自体がおもしろいということもある。

電源が点かなくなった除湿器の基盤にあるスイッチを交換したところ直った

そのおもしろさこそが、技術・家庭的な学びの意義だと思っている。技術・家庭はつくるための「知識」や「技能」だけを学ぶ教科と思われがち。だけど、実際にはつくることに関連した「おもしろさ」やその先で人や世界と「つながる」ことにこそ意義があると思っているので、そのことについて今回は書いてみようと思う。

僕はつくることの「おもしろさ」には2つあると思っている。

1つ目は、それをつくる人について良く知れることだ。修理も含め、つくることに関わることで、他の人が考えたプロセスや、工夫を知ることになり、それを通して対象についての視点を新たに持ったり、解像度が上がったりする。例えば、2021年度のテーマプロジェクトでアニメ制作をしたが、作画を担当した子たちの中にはアニメを見るときに構図の良さに目がいくようになった人もいるそうだ。

2つ目は、愛着を持つことが増える・生まれることだ。自分が関わることで、他のものとは違い世界で1つしかないという価値をもつ。あるいは完璧でないことも愛着を持つことにつながる。

そしてこの「おもしろさ」にはどちらも、プロセスや感情といったことが関連していると思う。

風越学園のラボでも、毎日何かがつくられている。うまくいったと思えば喜び、難しいところでは息を止めて慎重に取り組む。あと一歩でダメな時には、少し大げさに声を出してみたり。つくるプロセスに関わるとこうした感情も一緒についてくる。

先日も、初めてScratchでゲームを作ったというトシ(5年)が、出来立ての「サメが食べるゲーム」を見せてくれた。コピーしてしまえば、なんの苦労もなくゲームが手に入るのだけど、そのつくる中で「えーなんでだろう、、、。ああ、そっか。」とぶつぶついいながら試行錯誤してつくったゲームの価値は、トシが世界で一番感じているに違いないだろう。

Scratchに限らず、インターネットで大抵のものを買うことできる時代だが、買ってきたのでは得られない価値を手にできることも、つくることの魅力を一層引き立てると、子どもたちの姿を見ていると感じる。

バグがあってもひとまず関係ない!

また、自分でつくることの価値は、自分だけで完結するものではない。自分でも満足いくものができたときには、人に見せたくなるし、苦労してできたときには、どんなに自分が試行錯誤してきたのか他の人に伝えたくなるからだ。そういったコミュニケーションが起こることで、また自分自身の感情が動き、新たなつくるが生まれていく。

minecraftでつくった作品を見せ合う。つくっている同士だと自然に会話も弾むようだ。

ここで少し、つくっているものについても考えたい。僕には4歳の娘がいるのだけど、家で手紙や絵をかいていることが多い。娘の描く絵は、絵としての一般的な価値は高くないかもしれない。手紙だって、内容も字も誰もが欲しがるものではないだろう。でも、親からしてみたら十分価値があるものだ。それは、それを見ながら娘の成長を感じることができるということももちろんあるのだけど、つくったものに彼女の見たこと、感じたこと、考えたことが現れているからだと思う。娘と世界の間で起こっていることが目に見えるかたちになっていることに価値を感じているのだと思う。

つまり、「その人がつくる」から家族や友だちにとって大切なものになる。それが、つくっているものにはあるのだ。

娘の描いた黄色いウサギのキャラクター

つくることは、楽しみや喜びはもちろん、悲しみや悔しさも含め、感情を生み出す。そして、つくることは、その過程やつくった物事を通して他者とのつながりや感情の分かち合いも生み出す。協働してつくるのだっていいし、みんなそれぞれにつくるのでもいい。大切なのは、そこにある自分の感情の動きや興味を抱くポイントに気づくこと。

風越が「子どもも大人もつくり手である」ということを大切にしているのは、そこに、自分、あるいはその人がつくったからこそ生まれる幸せがあり、それが自由へとつながっているからではないだろうか。

コンヴィヴィアリティ(自立共生)という考え方がある。元々は宴会や上機嫌といった意味だが、思想家のイヴァン・イリイチは、自立的な生活を損なう制度や道具を、コンヴィヴィアルなものにすることを主張している。例えば、文章を書く道具には、鉛筆と紙からパソコンやスマホまであり、パソコンやスマホが便利でつい選びがちだが、通知があったり別のやることを思い出したりと集中できないこともある。つまり、制度や技術に寄りかかり過ぎると不自由になり、自立して、自分が作ってみたすこし不便かもしれないものと共生していくことが、より自由をつくることになる、ということだ。

その辺の枝で作った箸置き、その瞬間世界一集中してつくった卵焼き、初めてのScratchゲーム、斬新なおこづかいシステム、サブスクに出てこないおすすめプレイリスト。家や家具など、つくることが簡単ではない場合には、「選ぶ」ことで、自分が選んだものがある生活や暮らしを「つくる」ことができるかもしれない。

なんでもいいから自分や友だち、家族が使うものを、自分の感情に耳を澄ませながらつくってみたらどうだろうか。きっと、そこが新しい世界との接点になるはず。そして、近くでそうやっている人がいて、少しでも感情が動いたら声をかけたらどうだろうか。

SNSの「いいね」ボタンやスタンプを押しているうちに、気が付いたら自分のものさしも曇っちゃうかもしれないのは、子どもも大人も関係ないかも。他でもない「私」がつくることを言葉ひとつをとっても大切にした方がいい。

#2022 #ラボ

山﨑 恭平

投稿者山﨑 恭平

投稿者山﨑 恭平

旧・亀田出身。大阪、上越を経て、軽井沢へ。手元感ある日々を求めDIYな日々。コーヒー、日本酒を愛しています。広げて、捉え直す日々にしたい。

詳しいプロフィールをみる

感想/お便りをどうぞ
いただいた感想は、書き手に届けます。