2022年12月23日
毎年、秋から冬にかけてChromebookなどのデバイスに関する記事を書いています。他に書くことがないわけでもないのですが、定期的に振り返ることで見えてくることもあるかもしれません。1年目の記事では、デバイスをうまく活かせる場面もある一方で課題も多く、最終的に一部の時間でのWi-Fiオフという判断をしたという話でした。2年目の記事では、デバイスの活用に関して、どんな姿を目指したいのかという話。
3年目の2022年は、これまでの記事で書かれてきたような日常的な活用はさらに広がっていきました。学外の人とつながりながら自分の学びを広げていく人もいれば、新型コロナウイルスに関連したオンライン学習という状況でもスタッフが用意した機会だけでなく積極的に仲間やスタッフとつながる機会をつくる人もいたりと、デバイスを人とのコミュニケーションのために使うことは特別なものではなくなりました。こうした、これまでの延長としての活用は学校のいろんな場面であります。
一方で「状況」や「状態」というといいのでしょうか。子どもたちのデバイス活用の「公」と「私」の境界は、徐々に溶けているように見えます。どういうことかというと、公=学校での生活、私=家庭での生活としたときに、それぞれの生活で行われることが混ざってきています。具体的には、授業中でもゲームやSNSのことが気になってしまう。休み時間や放課後を中心にYoutubeやゲームに時間を費やしてしまう、ということが起こっています。これだけを見ると、「デバイスの良い使い方ができておらず、依存的でけしからん」という話で終わってしまいそうです。でも、これは一方からの見方のようにも思います。それは、学校での生活が、家庭での生活にも侵食しているようにも思えることも起こっているからです。例えば、学校が休みの日でも、Gmail、ClassroomやTyhoonに投稿があることをよく見かけます。これは、子どもに限らず大人も同じです。これまで実際の空間と紐づいて、「公」と「私」が分けられたものが、より有機的に溶け合っている状態へ移行しているように見えます。この状態だけを取り上げて、良い悪いを判断するものではないと思っています。しいて言えば、自分自身や相手、コミュニティのことを考えながら、状況に合わせてバランスをとっていくことが一層重要になっていくのだと思います。
また、放課後には数人で集まって、スマホのオンラインゲームをする様子も見られます。3,4年生~9年生あたりの子が集まってかなり盛り上がっているときも。また、iPhoneで簡単にできるようになった画像切り抜き機能で、LINEスタンプのような素材をつくり、目の前にいる人同士のグループチャットに投稿しあう様子は楽しそうです。学校でのゲームそのものには賛否がありそうな状況ですが、その話題は別の機会にして、友だちとの余暇の過ごし方には見覚えもあります。僕自身、小学生の時に、一度下校してから友だちの家にお邪魔してスーパーファミコンのゲームをやり込んでいた時期がありました。校区はかなり広い風越学園の2022年の様子は、そういった文化の延長にも見えます。
一方で、いわゆるデバイスやソフトウェアに関して社会の変化も大きいです。特に今年はAIがとても身近なものになったと感じています。Diffusionモデルという新しい生成モデルを使ったサービスが広がったことで、画像、音楽、文章などを生み出すサービスが増えてきました。人間が消費するよりも早くコンテンツが作られていくというこれまでと違う段階にきたように思います。
無償でプログラムが一般公開されている(オープンソースな)サービスが多く、条件はあるものの無料で使えるものも多いです。僕自身もここ数ヶ月は、いくつか試して音楽を作って遊んでいます。実際作ってみると分かるのですが、それなりに作っている感覚を得ながらも、かなり偶然性のようなものを感じます。例えるなら、シャボン玉を膨らませている感じです。大きさもなんとなく吹く強さで決められますが、正確には決められません。飛んでいく方向や飛んでいる時間も風任せです。こうしたAIにオーダーして出てきたものを調整することは「音楽をつくる」と言えるのかという意見もありそうです。しかし、この制作を通して僕はこれまでで一番音楽について学んでいるようにも思います。
また、依然としてフィルターバブル(*1)とエコーチェンバー(*2)による社会の断絶と対立が続いていて、同じことを違うように見て、自分こそは正しく見ていると言い合いをSNSのタイムラインやWebニュースのコメント欄で目にすることも多いです。もちろん技術の発展以前も、それぞれの見ている世界があったのですが、それがお互いに見えるようになったという状態なのだと思います。さらに、VRの発展により、現実を超越した仮想世界である「メタバース」も今年はより一般化し、活動場所としてのオンライン空間も発展してきました。これは身体の制約を越えた「私」でいられる価値を生み出していますが、一方でフィルターバブルやエコーチェンバーによる「それぞれの現実」を見ている状況は一層進んでいきそうだなと感じています。
*1)フィルターバブル:情報がフィルタリングされ、偏った情報や意見だけが循環してしまう状況。情報を収集するときに、自分が信じるものや賛同するものだけを選んで、それ以外の情報を省略する傾向や過去のユーザー情報から最適と思われる情報が表示されることから起こる。
*2)エコーチャンバー:自分と同じ意見があらゆる方向から返ってくる「反響室」に例えて、狭いコミュニティで、同じような意見を見聞きし続けることによって、自分の意見が増幅・強化されること。
僕は技術・家庭科を担当しているということもあり、こうした話題については考え続けないといけません。デバイスを含む技術は単なるツールであって、その使い方を指導するということであれば、僕自身も教え方を学び、子どもたちに教えればいいだけですが、そういう側面は技術・家庭科担当者としての僕の役割のごく一部だと思うのです。
デジタル社会の広がりによって、リアルなものやサービスの多くはデジタル化しました。これは一言で「便利になった」と片付けられるものではなく、新しい価値を生み出すとともに文化やライフスタイルを変化させてきました。僕自身の変化でいえば、ここ数年で財布の中にある現金はかなり減り、ATMで振り込むことも少なくなり、クラウド化によって、パソコンやスマホの容量や性能に悩まされることも以前に比べてなくなりました。
社会によって、文化が作られる側面があるならば、この変化の中で子どもたちの文化も作られていて、担当している教科である技術・家庭科は、そこ(子どもたちが作っていく文化)に関心を寄せていくこと、今まさに子どもたちがもっている文化だけでなく、少し先の未来も見据えながら次の文化を一緒につくっていくことが重要な役割の一つだと考えています。
未来について考える時に、子どもたちの様子から学ぶことも多いです。時として、大人が想定していない価値や文化を生み出すことがあります。例えば、2020年の「Zoomおにごっこ」(リンク先記事の書き手は豊福晋平さん)は、今では懐かしいですが、衝撃的でした。また、最近では、ゲームでSDGsを調べたことを表現したり、Scratchでエレベーターを再現したり、IoT開発デバイスでオンライン登校時に校内を移動するための自分のもう一つの体を作っている子がいたりいます。これが当たり前である子どもたちはどんな風に社会や生活の中の技術を見ているのか以前スタッフインタビューで子どもたちと「同じ目線に立ち、同じ方向を向くこと」について話をしましたが、これからもその目線を面白いと思いながら、リスペクトをもって一緒に文化をつくっていきたいと思っています。
子どもとともに変化を体験しながら、時には大人として考え判断する、そういった柔軟さを持てるか。よく分からないからといって考えないようになったり、自分の「当たり前」で見ようとしていないか。この変化の激しい時代に試されているのは、大人の方かもしれないです。
「友達とAIとで作り込んでようやく完成したんだ!」とすごくいい表情で、制作した授業の課題を持ってきた時、どんなふうに考えますか?いろんな立場の人の声を聞いてみたいです。