2021年1月26日
1月になり今年度最後のテーマプロジェクトが動き始めました。今回の3・4年生のテーマは「まちづくり」です。まちをつくり運営をする、という自分たちの行動によって「まちが変化していくという実感」(社会参画への資質)を得ることを大きな目的としています。
今年度は新型コロナウイルスの感染予防のために、地域に出ての社会の学習が思うように進まなかったこともあり、風越学園にいながら社会のしくみを体験的に学ぶ手はないかとスタッフ(むーちゃん、うまっち、たまちゃん、あさは、なぁちゃん、はたちゃん) で話し合う中で、ドイツで実践されている「ミニ・ミュンヘン」という活動にヒントを得ました。
ミニ・ミュンヘンとは毎年8月に3週間だけ現れる架空の都市で、7歳から15歳の子どもたちによって運営されます。そこでは「ミミュ」という単位の通貨が流通しています。子どもたちは職業安定所でやりたい仕事を探し、花屋さんからタクシーの運転手、市議会議員まで様々な仕事に取り組みミミュを受け取ります。そして、受け取ったミミュで食事をしたり、他の子どもたちが作ったものを買ったりしていました。DVDで実際のミニ・ミュンヘンの様子も観ましたが、そこに映されたドイツの子どもたちのとてもいきいきした姿が印象に残りました。
ミニ・ミュンヘンをヒントに、風越学園の中での「まちづくり」でもこんな子ども達の姿が見られたら…。そんな思いも持ちながら、架空の「まち」を出現させ、そこに架空の通貨「KZC」を流通させるという、今回の3・4年生のテーマプロジェクトの設計をしました。
設計と言っても、今回私たちスタッフは最低限のことだけを設計することを意識しました。
これは、あくまでも子どもたちの「まちづくり」。それ以降の設定やルールは子どもたち自身がつくっていくものにしよう。そして、不用意に大人がルールを後出ししないことをスタッフ内での決め事としました。
ただ、お金というのは、きれい、きたない、よい、わるい、重要、不要、あらい、こまかい、などの複雑なグラデーションの中で捉えられるもので、人の心をつかむ大きな魅力をもつ反面、危うさも合わせもつやっかいなものでもあります。
学校という教育の場で、そんな人によって捉え方の大きく異なる「お金」という複雑で繊細なものを扱うことに迷いや不安もありました。場合によっては活動そのものに難色を示すスタッフや保護者もいるかもしれません。
しかし、その危うさまるごと「話し合うための種」にしてしまおう、子どもたちとじっくり話し合いながら大人も一緒にお金について考えていこう、と今回のプロジェクトでのお金(KZC )の導入を決めました。
実際、プロジェクトが始まると、いろんなところで問題が起きました。架空の通貨を介在させることで、子どもたちの間に実際の社会で起きているものと酷似した問題が生まれてきたのです。
具体的な例をいくつか紹介したいのですが、、まずはじめに起きたのは、【お金がなくなる】という問題でした。
今回、架空の通貨となるKZCはコピー機で印刷をした紙幣という形をとったのですが、子どもたちのKZCがなくなることがそこかしこで起きました。どこかに置いてきたり、落としたりしてしまったのか・・・定かではありませんが、多くのKZCが失くなった子どもたちの第一声は「ぬすまれた!」でした。このことをきっかけにKZCの活動がテーマプロジェクトの外の子どもたちにも広がったほどです。
そんな騒動の中、5・6年生のジュンとコウタロウは、KZCをぬすんだと疑われて泣いている3年生の姿を見て、「こういうトラブルが起きないように協力したい!」と信用金庫の役割を担うことを申し出てくれました。南京錠つきの金庫の中でKZCを預かってくれるというのです。(しかも無償で!)
現実でも家で管理するのが不安なほどの額のお金となれば、信用できる金融機関に預けることで安心を得ることがあります。この先、風越信用金庫の運営に関して、新たに課題が生まれることもあるかもしれませんが、今回のお金がなくなる問題とそこで生まれた風越信用金庫は、子どもたちがお金の管理はどのようであるべきかを考えるきっかけになったと思います。
この時期並行して、子どもたちから話し合いたいと声があがったのが「自分の趣味を通して人を楽しませることは仕事になるのか」というものでした。
きっかけはケンスケが路上(校舎内の廊下)でマジックのショーを行い、立ち見客から称賛のKZCレターを受け取っていたことでした。その様子を見たチサトが、その稼ぎ方はアリなのかナシなのかを話し合いたいとみんなに投げかけたのです。
この話し合いは、仕事を行う時間の中で行ったので、KZCが稼げる時間を割いてまで話し合いに参加したのは当事者のケンスケ、チサトにメグを加えた3人だけでしたが、その中では実社会におけるジレンマを映したかのようなやりとりがなされていました。
チサトとメグの主張は大きく2点でした。「スタッフが初めに話していたKZC稼ぎ方の、『困っている人』『悩んでいる人』『忙しそう・大変そうな人』からありがとうをもらう、というに当てはまらないのではないか?」「他の人ができないことをしてお金を稼ぐと不平等になるのではないだろうか?」。
それに対してケンスケは決して非難するように反論するのでなく、相手の考えも柔らかく受け止めた上で、「他の人ができないことだとしても、それは努力したからできるようになったことだし、人前でそれをやることについても勇気を出している。これは仕事として認めてほしい。」と主張しました。
主張がすれ違う中で何度も停滞しながらも、たっぷり60分間話し合った結果、1週間の期限つきで”趣味によって人を楽しませることでお金を稼ぐこと”をアリにして、1週間後にさらに不満や問題が起きれば再度話し合うという結論を出しました。
話し合っているなかで「誰かには決められたくないんだよなぁ。」と一人が(ホワイトボード書くのに必死でだれが言ったのか見とれなかった…)つぶやいて、お互いにウンウンとうなづきあっている姿は、このプロジェクトがここからさらにおもしろく、学びのあるものになっていく予兆のように感じました。
その他にも、子どもたちの話し合いによって
などが問題視され、ルールとして禁止されることが決まりました。
こうして、子どもたちの中から問題が生まれ、必要感から話し合いが始まり、葛藤と衝突の中で合意できる地点を見つけていく。まさに自由と自由の相互承認といえるここがこのプロジェクトの醍醐味だと感じています。
今回の話し合いは3人だけでしたが、この先もっと多くの子どもたちにこういった話し合いに参加してほしいと願っています。話し合うことを通して自分たちのまちを自分たちの手でつくりあげていく実感を味わってほしい。そして「私が考えた分だけ、私が行動した分だけ、まちは変わっていくんだ。」と知ってほしい。それがまさにねらいである社会参画の資質につながっていくと思います。
ぼくが口をはさむまでもなく、この話し合いの輪もどんどん広がっていくと思います。たった数人が話し合って出した結論に、納得のいかない子や、疑問を持つ子がこれからきっと現れるはずです。そして繰り返される話し合いの中で、かげで文句をいっているだけでは何も変わっていかないことに気づいたり、漫然としているだけでは自らに不利益が降りかかってくることに気づいたりと、よりよいまちづくりの視点を育んでいくでしょう。
そこからさらに、議会議員の話、選挙の話、税金の話などに発展していったとしたらどれほどおもしろいことになるだろう。3・4年生の社会科の学習内容からは大きくはみ出ることになりますが、架空のストーリーに夢中になって入り込める発達段階だからこそ、ひとつひとつの問題に対して本気になって考えることできるとも言えます。学びのチャンスはいたるところに隠されています。これからのプロジェクトの展開がどのように広がっていくのか、どのように転がっていくのか、楽しみで仕方ありません。
おそらく今後もこの活動の中で数え切れないほどの問題と話し合いが小さく繰り返し起きていくと思います。
いま現在取り置かれている問題だけでも、それぞれとても深みのあるものです。
・土地はお金がある人がたくさん買ってもよいのか?みんなに平等に行き渡るようにルールをつくるべきか?
・多数決で物事を決めることはよいのか?
・人にお金を借りることはよいのか?
・週二回の全校での清掃があるのに、加えて校舎を掃除することは役に立っている仕事といえるのか?
(二者択一の問いのマジックに囚われないように、子どもたちに問い直すことも必要かもしれません。)
これらの問題は、スタッフが事前に対策をして防ぐこともできるかもしれません。でもそうではなく、子どもたち自身が問題を問題として生成する土壌をつくり、「話し合うための種」として学びに変えてほしい。「まちづくり」プロジェクトを始める前に思っていたことを、今改めて強く思いながら、スタッフが安易に子どもからの疑問に答えたり、表出した問題を解決したりすることがないように気をつけていきます。
社会に参画するということ、一人ではなく他者と共に暮らし生きるということ。私たちスタッフも悩みながら、話し合いながら、子どもたちと一緒に考えていきたいと思います。そして今回のプロジェクトを通して、私自身も軽井沢町において、長野県において、日本において、自分の手でつくっていく感覚を得ていきたいと思っています。