2021年1月13日
2020年11月17日と18日、風越学園を観察させていただきました、東洋大学の勝田光です。ここで働く澤田英輔先生(あすこま)と3年前からリーディング・ワークショップ(読書家の時間)に関する共同研究をしています。今回訪問した目的は、澤田先生が新しい学校で1日をどう過ごしているのかを知ることでした。前の学校であれば、1日「金魚のふん」のようにくっついていても、他の先生方と交流する機会はほぼありませんでした。ところが、今回は澤田先生が日中、同僚と関わる機会が多く、さらには「ふん」の私に話しかけてくる方もいました。ですから、「澤田先生密着記」ではなく、「風越参観記」の体裁をなんとか繕えるだろうと思います。
2日間、澤田先生にはりつき一番印象に残ったことは、国語の授業中、サンダーこと山田先生に「長い時間一方的に話してしまったけれども、どうすれば良かっただろう」と相談したり、はたまた、理科の授業に飛び込み、「グループで今日の振り返りを書きましょう」と指示を出すたいちこと井上先生に続いて、「振り返りのことばは『今日は充実していた』ではなく、『森で過ごすための具体的な情報を集めた』など、何をどうしたかを書くと良いですよ」と国語的な視点から助言を行ったりしていたことでした。つまり、澤田先生の国語の授業を助太刀する人がいると同時に、先生もまた国語教師としての専門性を生かして他の授業を積極的に支えていたのです。そのために、様々な場所を忙しく行き来する澤田先生を見失い、一人オロオロするのろまな私を不甲斐なく思う気持ちを幾度も抱いたことも手伝って・・・
前任校でも図書室で授業を行って司書に助けてもらったり、参観者を積極的に受け入れて自身の授業を振り返る時間を作ったりしていた澤田先生が、こうした風越の環境で生き生きとされていることはよくわかります。しかし、他の先生方もこうして、澤田先生が突然授業に入ってきて生徒に助言したり、あるいは今後の授業展開について相談にのったりすることを嫌がる様子もなく、むしろそれを求めていたことに驚きました。例えば、我が家の定番料理のレシピをCookpadに登録し、やがては世界のkitchenに広げて世界地理を学ぶプロジェクト学習を行なっていたうまっち(馬野先生)。彼は、放課後、澤田先生のもとにやってきて、今後の授業について、ゆくゆくはレシピ本を出版するつもりだ、と実に楽しそうにお話しなさっていました。澤田先生もレシピの書き方について国語的な視点から助太刀することを申し出て。
さて、このような風通しの良い環境において、澤田先生の授業は、前任校のそれとどう変わったのでしょうか。2日間授業を見て気づいたことを書きます。もちろん、たった2日間みただけですし、日々変化する澤田先生のことですから、盲人が巨象の「しっぽ」をにぎって「象とはこういう生き物だ!」と語る滑稽さはありますが・・・
澤田先生の変化として、まず気づいたことは、生徒に知識・スキルを教えようとする意識が強くでていたことです。前任校のリーディング・ワークショップであれば、典型的な言葉がけとして、「楽しめてる?」、「今何ページ?」がありました。また、生徒への指導方針を記録したものを読んでも、「興味を持っているらしいので、そのまま」など、生徒が楽しんで本を読む経験ができているか否かを重視していました。一方、風越では、今読んだ範囲で、質問を箇条書きで少なくとも5つ以上書き出し、さらにそれを「浅い質問」と「深い質問」に分類するよう指示するなど、読みのスキルを習得させようという方針が明確にでていました。また、個別の生徒への指導方針を記録したものには、「若おかみは小学生!」シリーズを読んでいる生徒に対して、より難しい本に挑戦させてみようと書かれていました。ここにも、楽しんで読む経験を保障するよりも、より熟達した読み手を育てようとする意識がうかがえます。
これは、リーディング・ワークショップだけでなく、ライティング・ワークショップ(作家の時間)の実践にもみられたことでした。今回、澤田先生は、歌人の時間と称して、既存の短歌あるいは新たに創作した短歌に写真を添えて一つの作品をつくる実践に取り組んでいるところでした。そのカンファランスでのこと。短歌と写真のつながりがすぐに読み手に理解されるような作品にしないよう指示していたにもかかわらず、短歌に「枯れ葉」の言葉を入れ、かつ枯れ葉の写真を使った生徒がいました。今日中に完成させなければならず、明日は観賞会。すでに作品を完成させ、個人読書に入っている級友もそれなりにいました。それでも、澤田先生は、彼の作品の褒めるべき点は褒め、今日中に写真を撮り直して、読み手の想像力を掻き立てる作品にするよう励ましていたのでした。
他にも、下の句を「赤に染まったいための床」から「暖かった昨日までの体温」に修正した生徒にその理由を聞いたり、美しいという言葉を使わずに海をどう表現できるか悩んでいた生徒が「これ良い!」と思えるまで一緒に類語辞典で言葉を探したり、一人ひとりの制作過程により添ってカンファランスを行なっていました。さらに完成作品についても、写真と短歌の組み合わせからどんな意味世界が生じているか、音の響きの良さ、そしてこの作品を作り上げたことが言葉の使い手として今後どう役立つか、詳細なコメントを付した上で次に何をしたら良いか、具体的な助言を与えていました。このように、一人ひとりの生徒がもつ読み書きの力を見極め、少しでもそれを高い次元にひき上げようとする姿は、見かけの物腰の柔らかさとは裏腹に、凄みを感じさせるものでした。澤田先生は、前任校とは生徒数が違うからですよ、とおっしゃっていましたが・・・
さて、ここで、サンダーこと山田先生と話して考えた風越におけるワークショップ型の読み書き授業、それ自体について書いておきたいと思います。実は、前任校における澤田先生の実践において、教師が学習課題を提示して教科書教材をみんなで読む授業と、一人ひとりが読みの目標を決めて自分で選んだ本を読むワークショップ型の授業を比較した時、生徒がー少なくとも見かけ上はーより学習に没頭していたのは、前者の教科書を使った授業でした。ワークショップ型の授業では、一定数「だらだら」している生徒がいたのでした。歌人の時間では、そうした生徒がおらず、みな熱心に作品作りに励んでいました。その違いについて、これまで教科書を使った授業で行なっていたことがワークショップ型の授業に吸収されたことにより、勉強に向かう緊張感が加わったためだと私は解釈しました。この解釈を山田先生にお話しすると、「生徒の違いもあるのではないでしょうか」と、こちらの考えも受け止めてくださった上で、穏やかに別の解釈も示されたのでした。どうも、6、7年生と、5年生より下の学年では、リーディング & ライティング・ワークショップへの没頭の度合いに差がある様子でした。
澤田先生の前任校は、勉強ができる生徒が集まる学校でしたから、「風越の6、7年生は学習への意欲が高い」というだけでは説明がつきません。また、前任校における調査で実施した質問紙とインタビューにおいて、「みんなで共通の文章を読み、お互いの解釈を比べ合う授業の方が集中できる」という趣旨の声は、一定数ありました。風越では、こうした教科書を使った一斉授業のスタイルに近い実践として、むーちゃんこと村上先生による「のはらうた」の詩を複数読み、何かになりきって新しい詩を作り、その詩を共同批正する授業がありました。こちらはーほんの少し見ただけでの物言いになってしまいますがーどうしたらより良い詩になるか、詩の技法に言及しながら低学年の児童が熱心に語り合っていました。
現時点では、生徒が読み書きの学びに没頭できる環境を教師がどう整備するか、どうしたら彼らの読み書き能力をよく伸ばすことができるか、楽しんで読み書きする経験と知識・スキルを習熟することのバランスをどうとれば良いか、私は答えを持ちません。少なくとも、ワークショップ型の授業と教科書ベースの授業にはそれぞれ強みと弱みがあるというのが、澤田先生とのこれまでの共同研究でわかったことです。風越に来た澤田先生は、ワークショップ型の授業に事前の動画配信やカンファランスを通して知識・スキルを教授することにより、両者のタイプを統合して、この問題に答えようとしているようにみえます。とはいえ、山田先生が指摘した通り、生徒の要因も見過ごすことはできません。例えば、前任校では、生徒たちが自主的にやっていた漢字練習を風越では授業中に行なっています。一人で本を読むためには、漢字をある程度読める必要があり、目の前の生徒はそれが不十分だと判断したのでしょう。ですから、これまで併用していた、リーディング・ワークショップと教科書ベースの授業を単純に統合しているわけでもないと思うのです。
今後、「ワークショップ型の授業と教科書ベースの授業の統合」という緩やかな仮説を持ちつつ、澤田先生が風越の子どもたちに最適な読み書きの学びをどう作り出していくのか、その現場を捉えて分析したいと思っています。最後になりましたが、風越に入り、澤田先生の授業を参観することをご快諾いただきました本城理事長、岩瀬校長に心よりお礼申し上げます。