2020年4月13日
4月7日の開校が14日に延期になり、開校後もしばらくオンラインでの活動となる、ということが決まったが、正直私はすぐにはこの変更が受け入れられずにいた。
保育者として子どもたちと日々同じ場所で同じ時間を過ごしてきたので、「オンライン」をなかなか前向きに考えることができず戸惑うばかり。子どもたちが安心して通えるようになるまで仕方がないことだと頭ではわかってはいても、気持ちがどうしても追いついていかない。まわりがどんどんオンラインでの対応を考え動いていくスピードにも乗れず、私はその場から動けなくなってしまった。
私は今まで、子どもたちが自分の心と体で感じることを大切に日々を送ってきた。子どもたちと一緒に過ごす中で、一人ひとりの表情や視線、ちょっとしたつぶやきや動作から、「今この子は何に興味を持って、何を感じているのだろう」、「この先にどんな環境や援助があればより深まったり、広がったりするのだろうか」と興味や気持ちに寄り添い、子どもとともに作っていく保育。
それがオンラインでできるのだろうか。関係性もまだできていない段階で何ができるのだろうか。できない理由ばかりが頭に浮かんでは不安になっていく。そんな状態からようやく動き出すことができたのは、スタッフの言葉からだった。
これはしんさんが保護者の方々にオンラインをどう伝えるかを考えてる途中の言葉。
遊びや学びが、<オンライン>にあるわけではない。
<オンライン>はただの入力装置、出力装置、回線にすぎない。
子どもたちの遊びや学びの種は、<オンライン>以外のところにある。
ただ、この状況下なので、
子どもたちの遊びや学びを、オンラインでスタッフが伴走する、支援する。
子どもたちの遊びや学びを、オンラインで伝えあい、わかちあう。
とっくんとの会話から気づかされたことも。
ぼくは、普通に開校してやろうとしていたことと、オンラインでやることと、そんなに違いは感じていないんですよねー。
作家の時間でやってることと構造的には同じようなイメージを持ってるんです。朝みんなでオンラインでも集まって、そこでミニレッスンのようなことを少しやって、あとはそれぞれの活動になる。必要に応じて一人ずつのカンファランスをしていく。終わりにみんなで集って、今日はどうだったかとか、共有したいこととか話す。
どちらも、その子のやりたいから始めるってところはオンラインでも変わらないから。
そうか、そうかもしれないな。オンライン上でずっと何かをするわけではなく、遊びや学び自体はそれぞれがいる場所でしている。時々オンラインで集まって、困ったことを相談し合ったり、アイディアを出し合ったり、刺激を受け合う場にする。そう考えると確かに変わらないのかもしれない。
それでも、実際に同じ場所で同じ時間を過ごしている時より、子どもの様子を捉えることは画面からでは明らかに見えない部分があるだろう。そこは、保護者のサポートが不可欠になる。一緒に作っていくということがすでにここから始まっていきそう。
どんな形ができるだろう。typhoonの連絡ノートやOTT(オンライン・ティータイム)で子どもと保護者と話しているとみんなこの状況をなんとか楽しく過ごそうと公園に出かけたり、庭で畑の準備をしたり、家でごはんづくりを親子で楽しんだりと素敵な工夫をたくさんされている。この期間をどう過ごすかも、保護者の人たちと一緒に試行錯誤できそう。
読書家の時間、作家の時間は大人がよき読み手、よき書き手であることを大事にしている。つまり、このオンラインの期間に私自身がよき遊び手、学び手であることで同じ場所にいなくてもきっと一緒に楽しむことができるはず。
さて。私は何にチャレンジしようかな。せっかくだからじっくり時間をかけてものづくりとかいいかもなぁ。
自然体験活動・環境教育のインタープリターから保育者へ転身。絵本とおもちゃの店の店員や、保育雑誌のライティングに携わった経験も持つ。軽井沢風越学園で新しい教育づくりに関われることにワクワクしています。
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