2021年2月4日
こんにちは、神戸大学の赤木和重です。
コロナウィルスの感染拡大がとまらず,兵庫県にも,1月から緊急事態宣言が出されています。そのため,この間,風越学園に訪問できなくなっています。残念なことです。とくに私の研究スタイルは,実際に子どもの学ぶ様子や教室の様子を見て,その場で感じたことをもとに,自分の考えを組み立てるというものです。訪問ができないということで,実質,執筆がストップします。
ただ,厳しいことばかりでもありません。定期的に訪問していると,どうしても「今」起こっている出来事に気持ちが奪われます。風越学園から時間的にも物理的にも距離をとってみることで,自分が,ほんまのところ,何に心惹かれていたのか見えてくることもあります。
このように感じたのは,大学での授業がきっかけでした。12月中旬,いつものように教師・心理職を目指す学生に授業をしていたときのことです。いつものように授業から脱線し,ええ感じで雑談をはじめました。そして,いつのまにか「風越学園に初めて訪問した日(7月8日)に,一番印象に残ったことはなにか?」というテーマで話し始めていました。
そのとき,私の口から出てきた言葉は,
「『先生,筆箱,忘れたから,教室に取りに行ってくるね』という小学校4年生男子の一言が印象に残った」というものでした。
この男の子の発言の経緯は以下のようなもの。
彼を含めた子どもたちは,算数の授業のため,自分の教室(「ホーム」とよばれています)から離れた教室に移動していました。そして,勉強をしようと思ったら,子どもが筆箱を忘れたことに気づいた様子。そのときに出た発言です。このような場面は,風越学園に限らず,日々,どこの学校,どの教室でもあることでしょう。
最近,私は,風越学園における子どもの「~したい」に基づく探究・プロジェクト活動に興味を持っていましたので,この一言が出てきたのは,我ながら意外でした。でも,同時に,自分なりに確かに…と納得しました。風越学園の子ども理解や教育理念は,この一言に凝縮されていると感じたからです。
忘れ物をして取りに行くとき,多くの学校・教室では,子どもは「先生,筆箱忘れたので,取りに行っていいですか?」と先生に許可を求めているのではないでしょうか。実際,大学生からも同様の声が続出しました。さらには,このような許可を先生に求めることすらできず,忘れ物が見つからないように授業中,じっと耐えて,授業が頭に入ってこなかったという感想も出ました。
そうなんです。なぜか,私たちは,忘れ物を取りに行くとき,先生に「許可」を求めます。
これは「忘れ物」だけに限りません。人類普遍の生理現象―そう,「おしっこ」についても同じです。みなさんも,授業中におしっこに行きたくなったとき,次のような経験をしたことがあるでしょう。例えば…
「あ,やばい,おしっこ行きたくなってきた。でも,休憩時間まであと15分もあるのか。俺なら我慢できるはずだ…。いや,ちょっともう無理。こうなったら,足をがくがくさせて,尿意をごまかすぞぉぉ!お,いい感じかも。いや,でもやっぱり我慢できない。先生に言いに行こうかな。でも,なんか恥ずかしいな。それに,怒られそうだし…。今日は,先生,なんか機嫌悪そうやしな‥。あ,でも,もう漏れるぅぅぅぅ!やっぱり無理」と悪戦苦闘の末,「先生,トイレ行っていいですか?」と許可を求めたあの日を経験したことがあるでしょう。
たいていはなんとか間に合うのですが,小学校1,2年生くらいだとまれに失敗することもあるわけです(何を隠そう,私は失敗しました)。リアルおしっこもれたろうは,下手するとその後の学校生活の人生を左右するほどの重大事件です。
しかし,私たちは,なぜ当たり前のように「許可」を求めるのでしょうか。急いで断っておきますが,ここで問題にしたいのは,先生の「厳しい/優しい」といった性格の話ではありません。先生が厳しかろうが,優しかろうが,「許可」は求めるには変わりないからです。それに,これは「ちょっとした言葉使い」のように思えますが,全くそうは思いません。かなり本質的な問題です。
なぜなら,「教室は誰のものか」という極めて重大な問題を含んでいるからです。子どもが先生に,「許可」を求めるということは,教室が「先生のもの」であることを示しています。大げさにいえば,人間の根幹である生理現象までもが,先生の管理下に置かれていることを意味しています。
もちろん,だからといって,黙っていくのも違うでしょう。教室は「自分だけのもの」ではありません。先生と子どもたちがともに学び合っている場です。その場所を,勝手に抜ける行動も,それはそれで違うよなーと思います。特に小学校低学年だと,先生は心配するのも当然だと思います。
ここで,冒頭の「先生,筆箱,忘れたから,教室に取りに行ってくるね」の発言に戻りましょう。
この子どもの発言,すごくないですか!!!??? 先生に許可を求めているわけではありません。かといって,勝手にすーっと出ていくわけでもありません。自分で判断し,自分で行動することを前提としつつ,それを先生に伝え,状況を共有しようとしています。
彼の発言には,教室は「先生の教室」でもなく「自分だけの教室」でもなく,「自分たちの教室」であることがわかります。風越学園が,大人も子どももともに一緒になって学校をつくっていく方向性とシンクロしているよなぁ,と今になって思うと同時に,開校してすぐの時点で,このような発言が子どもから出されていたことに驚嘆します。
なお,後日,聞いてみると,最初は風越学園の子どもたちも「許可」を求める発言はちょこちょこあったそうです。その際に,スタッフの人たちが,「うーん,それもいいけど,でもね…」と説明をされていたとのこと。スタッフが,当初から「教室は自分たちのもの」であることを自覚されていたことがわかります。
「教室は誰のものか」問題は,学級経営(集団づくり)と密接にかかわります。ただ,それだけではありません。学習活動,なかでも,プロジェクト活動や探究活動の充実ともかかわってきます。プロジェクト活動や探究活動は,風越学園の核ともいえる活動ですが,おそらく,今後,公私立問わず,多くの学校で取り入れられる学習活動になっていくでしょう。
このようなプロジェクト活動・探究活動を始める際に,教室が「自分たち」のものになっていることはとても重要です。もし,教室が「許可」を求める場所であれば,すなわち,「先生のもの」になっているのであれば,子どもは自由にプロジェクト活動を展開できないでしょう。
先生は子どもに「自由に探究していいよ」と言いながら,子どもは先生に「●●プロジェクトをしていいですか」と許可を求めるというねじれた構造になりかねません。このような構造のなかで,子どもが「学校という枠」からはずれるような本当に自由なプロジェクト活動を展開することはできないでしょう。
子どもは,大人が思っている以上に大人の価値観を忖度します。無意識にすら忖度すらします。だからこそ,プロジェクト活動を自由に進めるためにも,教室は「誰のものか」を意識することは重要です。
ついつい私たちは,プロジェクトの「出来栄え」に注意がいきます。わかりやすいですし。でも,それだけではなく,その根っこにある学校空間,教室空間にも目を向けたいですし,そこに風越学園から学ぶ意味があるように思います。同時に,ちょっとしたところだからこそ,公立学校のなかでも,意識できること・取り入れられることはあるんじゃないかなーと思います。