スタッフインタビュー 2024年10月21日

ここにある日々が、わたしをつくってゆく。(末永 真琳)

末永 真琳
投稿者 | 末永 真琳

2024年10月21日

2023年度から風越学園に参画したまりす(末永)。今回のスタッフインタビューは、スタッフプロフィールページの「自分のことを一言で表現すると?」という問いに『そのまま』、「苦手なことは?」という問いに『不自然なこと』と答えていた彼女の在り方にたっぷりと触れるような、そんな時間になりました。 (編集部・三輪)


山に向かって歌う子ども時代を過ごして。

私、生まれが長野の上田で、山が聴いてくれていると本気で思って山に向かって歌を歌うような子だったんです。山や川、田んぼ、畑の中で育つような暮らしをしていたこともあって、虫や花と会話したり、ただ雲の動きを見ているとかそういうのが好きで、ずーっと自然と一緒に遊んでいました。

風越学園の前は、東京の公立幼稚園で4年働いていたんですけど、自分が表現したいことはもっとたくさんあるという感覚が強くなってきて、退職することを決めました。そこから1年間、子どもの頃やっていたように、声を持たないものの声を表現したり、目には見えないものを絵で描いたりするようなことをやっていきたいと思って、歌とダンスと絵を描く活動をしていました。

ライブペイントで本来の地球の在り方を描いた時の写真。その土地やその場所に集った人から受け取ったものをそのまま表現している。(撮影者:游木トオル)

その中で、「自然や森との暮らし」「表現・アート」「子ども」というものを軸にしたいと思うようになって長野に戻ってくることにして、少しずつやりたいことを形にしていくための準備をしてたんですけど、何から手をつけたらいいかわからなくて結構打ちひしがれてしまって。 そんな中、夫がたまたまネットで風越学園を見つけたんですよね。そこで初めて私も風越の存在を知って、ホームページの一番上に書いてある『遊ぶ 学ぶ「  」になる』の『「  」になる』という言葉を見た時に、あ、これだって。というのも、今まで描いてきた私の絵が全部そこに当てはまるような気がして、ここだったら正解っていうものはきっとないだろうし、変わり続けてく自分っていうものも、毎日の子どもたちの暮らしの揺れみたいなものも、どの瞬間もそこに当てはめていいんだろうなって思えたんです。

うまく形にはできなかったけれど、長野に戻ってきてやりたいと自分の中で描いてたものとも重なって、そこから自分一人で形にしていくということより、誰かとそれが一緒につくれるのかもしれないということにものすごいワクワクして、そこから風越に参画させてもらうことになりました。

今をみんなで分かち合うことの豊かさ

__ 去年1年間過ごしてみて実際どうでしたか?どういうことを感じたり、どんなこと思いながら過ごしてきたのかな。

決まっていることがあまりない中で暮らしやそれぞれの自由を模索していくことは、ものすごくカオスなんだろうなと思っていましたが、思っていたよりもずっとカオスでした(笑)。

でもその中で、変わり続けていく今を自分も感じ続けてられていることや、ここで過ごしている人たちもそれを大事にしているというところにギャップはなかったというか、やっぱりそういう場所なんだなっていうことをすごく感じていて、ここに来てよかったと思っています。

あと、それまで働いていた公立の幼稚園では一人でクラス担任を持っていたし、そのあとの活動時期も一人で動いていたので、一人で何かをしようとしていた時点で違ったのかもしれないなということをすごく痛感させられたし、みんなでつくることの面白さと難しさをたくさん感じた1年でもあったかな。

__ たしかに、風越の幼稚園は学年ごとの緩やかな担当制を持って保育をしているけれど、学年ごとではなくみんなで保育(暮らし)をつくっているという印象を受けます。ミーティングなども幼稚園スタッフ全員で行うことも多いですよね。

そうですね。1つのことを決める時もそうだし、私たちはこれを大事にしたいと思っているよねと全員が納得するまでに、ものすごくたくさんのやり取りや時間をかけて対話を重ねています。たくさんのやり取りが必要だからこそ、これってどうなんだろうと一人でそれを抱えている時間も長くて葛藤することもあるし、本当に一つひとつのことがゆっくりと進んでいくこともあるけれど、そんなにすぐに決まることなんてないよなっていうことに改めて気づくことができたし、そのわからなさみたいなものやその日々を楽しんでいる自分がいます。

__ それを楽しめるのはすごいなあ。

それを自分はやりたかったんだなって思います。決まっていることをこなすとか、 こうだっていう正しさみたいなものを主張するよりも、今をみんなで分かち合っていることの豊かさみたいことを風越で過ごしているとすごく感じるんですよね。

たとえば、自分はこういうことを大事にしているということを誰かに伝えると、 その人ならではの見方の、私とは別の角度から見えていることみたいなものとすごく共鳴したり、全く逆の方向から見てたけど、実は同じことを大事にしたいと思っていたんだねみたいなことを風越に来てからたくさん経験していて。

それが人数が増えれば増えるほど立体的になってくんだなっていう感覚をすごく体感しているし、みんなで見えてきたものだからこそ事が動くじゃないけれど、前に進めていけるみたいなことを実感することがすごく多いです。

その世界を私も感じたいって思っているよ。

__ 一度、保育の現場から離れたまりすが、改めて今、子どもたちと過ごす日々の中でどういうことに面白さや豊かさを感じているのかお聞きしたいです。

その人その人と出会えたってことがまず面白いというか、大人子ども関係なく、「こんなふうに世界を見ている人がいるんだ!」ということを見させてもらうのが好きだなぁと、改めて感じています。特に子どもたちはその子の見たい世界をそのまま心でも身体でも受け取って表現するから、こんな世界を見ていて、こういうところを楽しんでいるというのがそのまま感じられるじゃないですか。

そんな子どもたちを見ていると、そういうところを見ている自分というのもすごく自覚するし、自分はやっぱり表現とか、その子が何に手を伸ばそうとしているのか、何を見ていて、何を生み出そうととしているのかみたいなところに一番心が動くんだなと感じています。 それを見れるのが嬉しいというか、生きてるなって感じがするというか。

__ 何かに手を伸ばそうとしていたり、その子の内側にあるものを表現している子どもたちの隣りにいる時に、まりすが大事にしてることがあれば教えてください。

「その世界を私も感じたいって思っているよ」ということを伝えはしないんですけど、そう思いながらそこにいる感じはあります。特に今年は年少を担当して、風越というところに初めて来た子どもたちが、それぞれにどんどんそこにあるものを自分の中に取り込んでいく姿をたくさん見させてもらっているので、それを一緒にたくさん感じたいけど邪魔はしたくないなと。

しかもそうやってそばにいると気がつくんですけど、子どもたちってそこにある世界を自分の中に取り込んでいくということを感覚的に一人でやっているのに、気づいたら束になっていて「あれ、みんないるじゃん!」みたいなことがすごく起こるんですよね。これが面白そうってなったら、だーってみんなで行く、年少さんのつい体が動いちゃう感じがあぁいいなって思うし、誰かの面白いみたいなものの熱量に吸い寄せられるみたいなことが起きるのを、自分も一緒にたっぷりと味合わせてもらっています。

__ その人に出会えたってこと自体に喜びを感じて、基本的に面白いと思いながら子どものことを見てると思うんだけれど、そんなまりすが難しさを感じたり葛藤することって保育の中であるのかな。

葛藤だらけではあるんです。面白さみたいなものを感じる一方で、同じぐらい、これどういうこと?!なんでこんなことになってるの?!みたいなことがすごくたくさん起きていて。特に、子どもたちのある意味その人っぽさみたいなところで葛藤することは多いかもしれない。これは大人も子どももそうだけど、他者と関わることで、いろんな自分に出会う感じ。嬉しいこともあるけどそれだけじゃない、自分に出会う。感情的になったり、頑なになったり、関係性やコミュニケーションの中で無意識的に繰り返しちゃってることもあるし、こんな自分を受け入れたくないみたいなことも起きる。でもそれってすごくその人に関わる大事なことだったりするじゃないですか。その人の今に関わる大人として、起きていることに対してできることはないけれど、葛藤しているその子の今に心を向け続けていきたいし、子どもたちが「自分はここにいる」っていう安心の中で思う存分葛藤して、行ったりきたり揺れられる日々に、大人ができることはあるなと思う。私はその絶妙なさじ加減とか、間合いとか、うーん難しいって思うことばかりです。

森にいると、わたしの中でわたしになっていく。

__ 最後に、これから風越の中でチャレンジしていきたいなと思っていることや注力したいと思っていることがあれば聞かせてください。

この先、自分が大事にしたいと思ってることは結構はっきりあって、森や自然というもともとこの世界ににあるものと人とが一緒に歩んでいけるような生き方をしたいなと思っています。自分が身を置く場所で起きることや、暮らしの仕組みの一つひとつが森にとってどうなんだろう、この地球を担ってく子どもたちにとってどうなんだろう、この場に集う人にとってどうなんだろう、ということを考えていきたいので、風越でも、そういうことを大切にしている私がいるということを、日々、大事にしていきたい。だから、これをするという目標みたいなものはないんですけど、一日一日、目の前のことに素直でありたいなと思うし、同じ場所で過ごしている人たちといろんなことを共有したい。

あと、森や自然というものと人との距離がどんどん離れている社会ではあるけど、元々同じところにいたものなんだから、その元々持っていた自然と人間との距離感を大事にし続けていけるような暮らしを風越でもつくっていきたいなと思います。

__ 2022年度から、外環境づくりのパートナーにパーマカルチャーデザイナーの四井真治さんを迎えたり、幼稚園スタッフは今年「森◯わたし」をテーマに研修をしていることも、まりすがそう思うようになることに影響を与えているのでしょうか。それとも元々そういう感覚がまりすの中にはあったのかな。

そういう感覚は、自分が幼児期に自然の中でたっぷり暮らしていたことがベースにあって、それが風越に来たことでまた自分の中に蘇ってきた気がします。

それこそ今年、「森◯わたし」の研修では「森の中で育つものとは?」という問いを持ちながらみんなで子どもたちのエピソードを共有したりしているんですけど、私的には「森にいることで、わたしの中でわたしになっていく」みたいなことかなと思っているんです。

__ わたしの中でわたしになっていく、ですか。

人間の身体って開かれたところへいくと開かれるし、閉じられたところへいくと閉じてしまって、環境にすごく影響を受けているなと思うんです。それは多分、もともと人は常にそこの環境にあるものと言葉じゃないものでずっと会話しているからなんじゃないかなと思っていて、開かれた自分でそこに在る世界と会話する。それが一番起きやすいのが森の中なのかもしれないなって。それが風越にきて自分にも起きているなと思うんです。

だから、言葉にするのは難しいけれど、私が生きているこの場所にあるものや一緒にいる人、風が吹いて、水が循環していて、木々が空に向かって生い茂っているっていうそのままのこの世界と、常に感覚を通して会話している状態が普通というか、自然体であるという感じがしていて、その一番自然体な自分でいられる場所で日々暮らすことで、自分という存在が自分らしいまま確かになっていく、つくられていくみたいなことが起きるんじゃないかなと。風越の暮らしが、子どもたちにとってそんな日々であるといいなと思っています。

あ、そうだ。最近、風越で過ごしてきた中で生まれた歌ができあがって。それが一番、わたしが風越で感じていることが伝わるかもしれません。

「ヨロコビノセカイ」(作詞・作曲 marisu)
ある日森を歩いていたら あしもとに光る石を見つけた
その石は わたしに 声をかけた 旅にでよう
ある日川で遊んでいたら 森のいのちが光りはじめた
その七色の光に包まれて 鳥になった
わたしは どこへでも行けた わたしは 何にでもなれた
溢れる世界は いつまでも そばにいてくれた 
わたしの喜びが溢れる歌を 
いつだって 笑って きいてくれたんだ 空と山が一緒に

ある日森を歩いていたら 聞こえたよ光る石をみつけた
その石は ちゃいろくてまるくて 光って見えない
ある日川で遊んでいたら 小さくて柔らかい 手のひらに
握られたいのちを大事そうに 見つめていたんだ
あなたにはなにがきこえたの? あなたは何を見ていたの?
溢れる世界は どこまでも 輝いてるだろう
あなたの喜びが 溢れる歌を いつだって 笑って きいていたいんだ
空と山に包まれて

ここにある日々が わたしをつくってゆく
いつまでも大切に思ってるよ
続いてく 今を抱きしめて

 

インタビュー実施日:2024年9月19日

 

#2024 #スタッフ #幼児

末永 真琳

投稿者末永 真琳

投稿者末永 真琳

長野県出身。歌って踊って絵をかいて、いろ、おと、ひかりの世界を表現することが好きです。子どもたちと身体でたくさんのことを感じながら、森と暮らす日々をおもいきり楽しみます。

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