2023年1月25日
算数・数学というのは、好きと嫌い、できるとできない、がハッキリする教科である。個人の差は見えやすいし、分かりやすい。そういう教科だからこそ遅れている子どもたちは遅れている子どもたちなりに学んで育つ、進んでいる子どもたちは進んでいる子どもたちなりに学んで育つということが大切である。風越学園における自由進度学習はそういった個の違いを大切にしつつ、学び合いながらコミュニティとして成熟してほしいという願いでのスタートだったんじゃないかなと想像している。
風越学園に来てからの悩みや出来事を少し書いてみようと思う。僕が2022年4月にここにきたとき、子どもたちは開校1年目にはAIドリル、2年目には教科書や問題集に基づいた自由進度学習を経験してきていた。僕はAIドリル、教科書や問題集に基づいた学習では、数学の知識及び技能を習得したり、その知識及び技能を習得する方法について学ぶことはできるだろうけど、数学的にものを深く考えることについては学べないと考えている。というのも、穴を埋めるだけのテキストや短答形式の問題では思考を表現することができないからである。
まずはその学習スタイルを変えたいと思ったが、それを変えるには少なくとも、思考を表現するような学習パッケージ(子どもたちが取り組むプリントのセット)をつくる必要がある。しかも、学習パッケージを3学年分ずっと用意し続けられるのかという不安と、またがらっと方法を変えてしまうと子どもたちの不安や心配は大きくなるんじゃないかという心配があった。そういう思いや心配があって、子どもたちとやりとりをしながら7年生については僕がえいやっと勢いで学習パッケージに基づいた自由進度学習を進める場をつくり、8年生・9年生についてはこれまで通り教科書や問題集に基づいた自由進度学習を進める場をつくった。
今回のかぜのーとでは、7年生の場をつくるプロセスについて振り返ろうと思う。
学習パッケージは、全員が期間内に終えてほしい基礎編と進んでいる子がやってもいい発展編に分けて作った。しかし、やってみると予め決めた期間に基礎編が終わらない子どもたちが続出した。これは困った。単元ごとに内容と時間を調整してみるものの、どうしても終わらない子どもたちが出てくる。これにはいくつかの理由がある。一つ目には、僕自身の内容と時間の見通しの甘さである。二つ目には、これまでの問題集や教科書と違って思考を表現することを課しているので、思考を表現することは時間もかかるし子どもたちはそれに慣れていなかった。そもそも考えるということは時間のかかることである。
それと同時に、子どもたちが数学の問題に対して何を考えているかがわからなくなってしまった。考えるということは見えにくく聞こえにくいものである。自由進度学習でなくたって問題に対して何を考えているかということはわかりにくいが、自由進度学習だと子どもが向き合っている問題が一人一人違うので、どこに躓いているのかどこで何を考えているのか、どんな方法でアプローチしているのかがより一層捉えづらく、僕の頭では追い切れないのである。超人ならばできるのかもしれないが少なくとも僕にはできなかった。
子どもたちが問題について考えていることや今ここで起きていることがわからないと、授業を改善することもできない。授業をうまくつくっていくための情報が得られないのである。さらに言うと、僕が子どもたちの本当にスゴイ瞬間に気づけなかった。僕の根底には子どもたちが深く考えている瞬間、輝いている瞬間、自分たちの限界をちょっとだけ突き抜ける瞬間を見たいという気持ちがある。子どもたちは気づいていないであろう子どもたちが考えていることの面白さや価値に気づかせたい。そういう場をつくりたいと強く感じていたのに、この学習パッケージを使った自由進度学習では、それができない。
そう思って、自由進度学習をやめてみることにした。そして、2つのことを始めてみた。何を始めたかというと、1つは計算技能の反覆練習である。数学の問題を考えるために必要な計算技能を習得するために、毎時間の最初に10分間の計算練習の時間を取ることにした。もう1つは、1時間に1問だけ考える問題を提示して、それを子どもたちなりに考える場をつくった。子どもたちが自分たちの判断で友だちと話し合い、道具を用いながら問題を考える場である。
そういうことを繰り返していたら、子どもたちの深く考える姿が少しずつ見えるようになってきた。
ある日の数学の時間の様子を書いてみよう。
7年生の子どもたちはルームに来ると、今日の計算練習のプリントと考える問題のプリントを自分で取りに行き、自分たちの学びたい場所を選び席に座る。そうして僕が今日の授業の見通しを話したり、今日扱う計算の手続きを説明してストップウォッチをスタートする。
子どもたちはこの時間黙々と計算をする。ぽつぽつ終わり始めた子どもたちからかかった時間を記録し、自分たちで答え合わせをしてミスの数を記録し自分たちの現在地を自己評価する。やり方がわからなったりするとお互いに聞き合って理解しようと努める。答えが間違っていると僕が怒られる(笑)。
それぞれが計算練習を終えたら僕が前回の授業の振り返りをして、子どもたちのプロセスや成果物の評価を伝えていく。今回の授業で提示する問題は以下の問題である(読み手は解いてから読み進めよう!)。
支援として「まずx=1,2,3のときにyがいくつになるのか、実験をして様子を観察する」よう指示した。「データを収集し変化の様子を観察する」というのは考えるための技術の一つである。この単元では繰り返し繰り返しこのことを教えてきた。
子どもたちは深く考えていた。例えば、コタのプリントにはこんな考えた跡が残っている。
xの取り得る値を16までだと見抜きx=16までの表をつくっている。つまり、x=1,2,3だけでなくコタたちは自分たちで考えてデータを整理しているのである。一方で、この問題はx=10を境界にして変化が変わるのが厄介であり、面白いところである。ハルノはココロと考えているとき、変化が変わることに気づき「これおもしろい!おもしろい!」と話していた。
ハルノはx=10のあとに求める面積の図形を台形と解釈したが、一方で三角形がそのままできると判断して考えているシュンもいた。
この子どもたちが考えることを見守っている時間、僕はとても嬉しい気持ちだった(この時間に限らないけど)。子どもたちが考える姿って本当に素敵だなって思う。決して「楽しい!」だけじゃなくて、答えにたどり着かない「苦しさ」もやっぱりあって、「楽しい」と「苦しい」を兼ね備えることが考えることにとって大切なんだと思う。
7年生の授業の取り組みを経て、8年生と9年生も一度自由進度学習をやめ「考える場」をつくりはじめた。それぞれ深く考える姿が少しずつ見えてきている。
子どもたちは子どもたちなりに考えて育つことができる。その確信をもって場をつくり、子どもたちの考えているプロセスと成果物の意味と価値に気づかせることが僕の役割だと思っている。
もちろん、今でも子どもたちが考える場を十分につくれているわけではない。考えるプロセスが子どもたちにとってお互いに見える・聞こえるように支援する必要を感じているし、答えが出てからも考えつづけることができるように支援をしていかなければならない。場にのれない子どもたちだっている。それに、数学の問題を考えるのに必要な計算技能を習得する必要もある。そもそも本当に「考える場」でいいのだろうか。
考える数学は、まだ始まったばかり。
*1 図は教科書より引用し、問題は一部変更している。藤井斉亮 他(2020),『新しい数学1』東京書籍,p.151