2023年5月11日
4月も終わりに近づく頃、私(井久保大介)は風越学園の1日を体験することができた。
公立中学校で働く私にとって、風越はものすごく特別な学校に見える、と思っていた。おそらくこれを読む人の中にも、軽井沢という立地に斬新な校舎の私学、日本の名だたる実践家が集まって最先端の授業を行うすごい学校、というイメージを持っているかもしれない。
けれど実際行ってみると、私のいるようなごく普通の中学校と同じようにごちゃごちゃしている。一言で言えば、ちゃんと複雑さを抱えた学校だった。
書きたいことがありすぎて、言葉通り複雑で本当に困ってしまうのだが、今回は私がりんちゃん(甲斐)とたいち(井上)の授業で見たこと感じたことをもとに、その複雑さについて考えたい。
風越に来て最初に見た授業は、甲斐利恵子さん(りんちゃん)の7年生の国語の授業だ。今回の訪問は、友達のたいちの「科学者の時間」を見ることが大きな目的だったのだが、たいちも、同行した石川晋さんも口を揃えて「りんちゃんの授業は絶対見た方がいい」と言われて、見ることにした。
校舎の隅っこの方に何の仕切りもないスペースがあって、そこにテーブルを囲む様に椅子が置かれ、さらに自立式のホワイトボードがひとつ置かれている。そこで国語の授業が行われる。まだ生徒が誰もいない静かな場所で、りんちゃんが今日の授業でやることをボードに書いて準備している。そこにはなんと、最初に「漢字テスト」という文字。日本の教育の最先端を走る風越(完全に私のイメージ)で、「漢字テスト」を行うらしい。ちょっと面食らうほど普通の学校にもある活動ではないか。AIでも使うのか?そう思っていると、チラホラと生徒たちが集まってくる。どうやら今日が最初の、はじめての漢字テストの日らしい。
りんちゃんが言う。「これからあがきタイムです。」子どもたちは「テストいやだー!」とワーキャー言いながら、どこにでもある漢字の練習帳を開いて最後の「あがき」をはじめる。「オレはもうあきらめた!」という子もいる。
みんなが集まってきたくらいで、りんちゃんがテストの説明を始める。「中(なか)という漢字は4画ですね。でもこれをつなげて2画で書くのは…?バツでーす。」「えー!」「つなげてかくのはバツでーす。」笑顔で答えながらボードに書く。「中の上のところ。これ突き出ているか出ていないか?ルーペで見て、もし、ちょっっとだけ突き出ていたとしても…?これは、バツでーす。」「えー!!(笑)」子どもたちは笑いながらりんちゃんの話に耳を傾ける。もう子どもたちは、「バツです」というのを若干期待しているようだ。この辺りで、場の雰囲気が何となく、子どもたちがりんちゃんの話を待つようになってくる。
「これからテストを配るね。まだ見ちゃダメよ。」そう言いながら机をまわり、一人ひとりの目の前に紙を裏返しで丁寧に置いていく。子どもたちもその紙を見つめながら、ちょっと緊張した様子。「テスト中は話をしません。あっ、あと名前はちゃんと書いてね。名無しはゼロ点です。」「えー!」「名前が無くても分かるじゃん!」「ゼ・ロ・点です(にっこり)じゃあ、はじめましょう。」「えーだって名前が無くても…」「しーっ!(小声で)テスト中は話をしないで。」それを聞く周りの生徒は静かにクスクス笑う。すると別の子が「りんちゃん、名前はフルネームで書く?」と聞く。りんちゃんは「しーっ!…呼ばれたい名前で書いて。」と答える。
そして子どもたちは静かに紙に向かいはじめる。ここまで10分経っただろうか。りんちゃんは紙に向かう生徒たちを笑顔で見つめている。そのまなざしは一人ひとりにさりげなく注がれている。
どこの教室でもありそうな何気ないやりとりを見た私は、何だかいたく感動してしまった。りんちゃんと子どもたちとのやりとりには、「ルーペで見て、突き出ていたとしてもバツ」という情報以上のものが確実に含まれている。漢字テストを額面通りのコンテンツとして捉えれば、覚えた漢字を再生して、採点基準に沿って正しく書けているか確認するという情報の確認作業だ。それこそAIで数秒で済んでしまいそうだ。しかし、りんちゃんが提示したのは、風越の子どもたちと、その場その時、何を大事にして、何を準備して、どうやって話をして、どんなふうにそれを学ぶのかといった、経験としての時間を共有することそのものだったのではないか。きっと子どもたちは、「漢字テスト」といえば、りんちゃんとのやり取りを含めた経験すべてをひっくるめて、「漢字テスト」を想起するに違いない。それは、りんちゃんと子どもたちとの間にしか生まれない、とても説明できないけれど、心が震えるような、愛おしい教室の時間だった。
漢字テストをめぐる10分足らずのやりとりを見ているうちに、校舎の片隅の何の仕切りもない場所に、たちまち国語の教室が立ち現れた。もしかすると、りんちゃんなら、青空の下で机も椅子もない野原でも、国語の教室をつくりあげることができるのかもしれないと思った。この後、自分の選んだ詩を清書する活動でも、子どもたちはりんちゃんと言葉と表情を交わしながら、しっとりと、そして丁寧に書くことに没頭していた。一緒に見ていた石川さん曰く、それはもう、魔法のようだった。
りんちゃんの授業のあと理科室に行くと、たいちが授業の準備をしていた。ちょっとそわそわしている様子だ。聞けば今日が「科学者の時間」と呼んでいる理科の授業開きのようだ。様々な道具を用意したあと、生徒の机を布巾で磨く。しばらくして子どもたちが理科室に訪れた。5・6年生。みんなすっごく元気だ。たいちも笑顔で迎える。
授業のはじめ、自己紹介も早々、たいちが自分で拾ってきたという小石を生徒一人ひとりに手渡す。子どもたちは渡された石の感触を確かめたり、机にカチカチ当ててみたり、二つの石を擦り合わせて音を出したりしている。そこでたいちは、絵本「すべての ひとに 石が ひつよう」(バード・ヘイラー/著、ピーター・バーナル/イラスト、北山耕平/訳)を読み始める。騒々しかった理科室は少しだけ静かになり、たいちの読みに合いの手を打つ様に、カチカチ、カタカタ、ゴロゴロと石の音がする。
そして「科学者の時間」についての説明。「科学者の時間は、身のまわりのことや自然のことを科学者みたいにおもしろがる時間です。」「私たちは、好きなことも経験してきたことも一人ひとり違うから、みんなでそれを持ち寄って、おもしろい時間をつくりましょう。」たいちの方を向いて聞いている子どももいれば、引き続きカチカチ、カタカタ、ゴロゴロを楽しむ子どももいる。
説明が終わると、子どもたちを前に集める。
今日のメインは、ビー玉のルーペで身のまわりのものを観察し、丸い紙に観察したものを書くという活動。たいちが10円玉くらいのビー玉を取り出し、洗濯バサミではさめば虫メガネの完成。子どもたちは興味津々。
たいちが丸い紙に観察したものを…と説明しているけれど、子どもたちはビー玉を手に取ってすでに準備万端。たいちの「じゃあ、やってみよう。」を合図に、子どもたちはビー玉を持って理科室の勝手口から外に飛び出した。
子どもたちがビー玉で観察していたのは最初の数分間。ある子が「これ、燃やせるんじゃない?」と言うと、虫メガネで光を集めて紙を燃やそうとする活動に路線変更。いつの間にかちゃんとした大小いろんな虫メガネを引っ張り出してきて、太陽の光を集めようとする。「黒い紙の方がいいんじゃない?」「危ないから水持ってくる!」「ビー玉でもできそう。」「すげえ!火がついた!」「もっと燃やそう。」「ビー玉2つでやってみよう。」「あ!ビー玉でも燃やせるよ!虫メガネと同じ?」
理科室の中では、ひとりの子がビー玉にレーザー光線を当てている。聞くと、「レーザー光線を紙に集めようかと思ったけれど、なんかもやもやした模様が映る!」「これなんだろう?ビー玉の中かな?」いつの間にか、校長のゴリさん(岩瀬)もやってきて、一緒に試行錯誤している様子。
たいちが「そろそろ終わりにする?お腹すいたから。」子どもたちは夢中でビー玉を見つめている。数人がパラパラ理科室に戻ってきて、スケッチブックに今日やってみたこと、感じたことを書く。誰かが「今日書くことない!」と言うと、たいちが「今日書くことがない!、って書いといてね。」と言う。
外ではまだビー玉で光を集める子どもがいるなかで、別のホームの生徒が弁当を広げて食べ始める。もう昼食の時間だ。理科室に戻ってきた子が、「あー今日楽しかったー!」とルーペを片手に満足そうな姿だったのが印象的だった。
とまあ、こんな感じで授業2コマ分、90分の「科学者の時間」があっという間に過ぎていった。
今日の授業は、たいちが最初想定していた授業の目的や活動とは全く異なるものになったのかもしれない。しかし子どもたちにとっては、「科学者の時間」の説明にあった「身のまわりのことや自然のことを、科学者みたいにおもしろがる時間」だったことは間違いない。授業の中でも、活動の区切りや場面の転換は用意されているが、それを始めるタイミングは子ども一人ひとりの興味や文脈に委ねられている。だからいつの間にか何かが始まって、いつの間にか終わり、また始まるといった繰り返しのような、授業と生活の境目のユルい、なめらかな時間が過ぎていく。もちろん、たいちに迷いが無いかといえばそうではないと思う。子どもをコントロールしたい自分と、したくない自分。子どもの〜したいと、自分の〜したい。教師だったら誰でも絶対感じたことのある、授業をやる上でずっとつきまとう複雑なジレンマの中で逡巡しながら、複雑なものは複雑なままとにかく進んでいこうとする姿勢が、切れ目なく連続性を伴った、なめらかな時間を生み出しているのかもしれない。
ふたりの授業を見ると、当たり前のことかもしれないが、学校って、教育って、本当に複雑なものだなあ、と考えさせられる。どんな学校でも、何がよい教育で何がそうじゃないとか、教えるとか教えないとか、学びがあるとかないとか、進歩してるとかしていないとか、子どもはどうで大人はどうとか‥‥。多くの複雑さを孕んでいる。そして学校にいる私たちは、その複雑さが故に翻弄され一喜一憂し、やがて自己嫌悪に陥ってしまう。時に複雑さから逃れようとして、どこかの誰かが指し示す分かりやすさに傾倒するも、ひと時の安堵も束の間、新たな複雑さに苛まれる。その繰り返しだ。
おそらく今の学校は、自らの持つ複雑さこそが敵であり、複雑さを分解すればするほど困難は解消され、より良い方向に進むと信じきっている。けれども本当は、分ければ分けるほど、分からなくなっていくのかもしれない。
風越は、複雑なものを複雑なままに、なんとか進むことはできないかを、子どもも大人も模索している感じがする。たった1日しか見ていないけれど、風越には複雑なものを複雑なまま、むしろより複雑な方向に向かわせようとする何かがある。それが何かはまだよく分からない。けれど、ふたりの授業はもちろん、風越を舞台に繰り広げられる子どもたちと大人の学びを見ながら、私の心は何度も揺さぶられた。
今回見たりんちゃんの国語の授業とたいちの科学者の時間。ざわざわした広い空間の片隅に、突如魔法のようにはっきりと立ち現れる国語の教室。たいちの科学者の時間は、子どもたちの複雑さをまるごと包み込むような、授業と生活の境目がゆるやかで、連続的でなめらかな時間。
学校の複雑さを敵と見なし、複雑さに抗おうとして右往左往している自分自身にこそ、本当の敵が潜んでいるような気がした。
今回は授業だけを取り上げたのだが、他にも、風越の人びとのすさまじい熱量と混沌と喜びに満ち溢れたかざこしミーティングでの出来事や、オースティン・マホーンの「ダーティ・ワーク」が大音量でかかるノリノリの掃除の時間に行われた、たいちの授業のリフレクションとか…。書きたいことはもっといろいろあるけど、とりあえず、複雑なものは、複雑なままに。
書き手:
井久保大介(いくぼだいすけ)
東京都公立中学校教員。担当教科は理科。