2020年9月9日
神戸大学の赤木和重です。前編では,風越学園が大事にしていることは「やりたい」ことを教育の出発点にして,それを大事にするということを述べてきました。
しかし…そんなすぐに「やりたいこと」が見つからない子どももいるかもしれないません。みなさんも,そういうとき,ありましたよね?
ちなみに,私は小学校のころの夢は「公務員」。もちろんやりたいから公務員というのではなく,とくに夢もないし,安定してるからという理由で。我ながらがっくし…。
私ほどではないにしても,大学生を教えているとなかなか「やりたい」ことが見えてこない学生がいます。例えば,卒業論文では,自分のやりたいことを追求します。しかし,その「やりたいこと」が決まらない学生がいます。学力の問題ではありません。どうも「やりたい」ことが自分でもわからないようなのです。
そういう意味では,「やりたい」ことに突き進む前に,そもそも「やりたい」こと見出すのって一般的にも難しい気がします。
そんな思いを持って,学校内をふらふらしていると,とあるホームに入りました。男子3名がいました。ふらふらと入ってきた私を見て,ホーム内の空気が変わりました。「あ,やば」みたいな空気。彼らは,さりげなく,パソコンの画面や携帯をささっとしまったり動かしたりします。どうもゲームサイトを見ていた感じです。
禁止されている行為ではありません。なのですが,なんとなーく,「よくないよなぁ」という空気が流れました。こっちも気まずくなって,「今,何年生?」とか,さっきも聞いた質問をするなど,さらに場を気まずくします。結局,数分後,3人がそのホームを出ていきました。あちゃ。。。
その日の夕方,スタッフと少し話す機会をいただきました。そこで,このエピソードを「モヤモヤ」というかたちで語りました。そのとき,私の中には,素朴に「やりたいことを見つけさせたほうがええんちゃうの」という気持ちがありました。
スタッフ間でもいろいろ意見が出されました。そのなかで,2つ,印象に残ったスタッフのフレーズがありました。1つは,「やることがとくにない子どうしで集まるよね」というフレーズです。2つは,「やることが見つからなくてもいいのでは?」というフレーズです。
スタッフの言葉に,ああ,なるほどなぁ,と思いました。学校とは,「やりたいこと」を追求する場をつくると同時に,「やりたいことが見つからなくてもよい」と安心できる場をつくることなんだと。
私とはちあわせた子どもたちも,決してさぼりたくてさぼっているわけではなかったのだと思います。バツの悪さはその表れです。特に,私が訪問した7月上旬は,1つの大きなプロジェクトが終わった直後だったので,ちょっとほっとしたこともあったようです(「やりたい」ことはしっかりあった子どもたちのようです)。そんな子どもたちに,「はい,次も,なにかやりたいこと見つけなさい」とあれこれ求めるのは酷な気がします。
そもそも「やりたいこと」が見つからない問題は,個人のせいにはできません。これまでの公教育では,子どものやりたいことを出発点にするよりも,教師の教えやすさや,教師の指示に合わせることを求める傾向が強かったことも背景にあるでしょう。授業スタンダードもその1つです。特に,「教師の指示に従うのがよい」という学校文化で育ってきた子どもほど,すぐに「やりたい」ことは見つからないでしょう。
加えて,やりたいことが見つかるには,タイミングというものがあります。そのタイミングを待つ,もっといえば,「今は見つからなくてもいいんだよ。いつか見つかるから」と子どもを信頼する大人の姿勢が大事です。子どもが安心して,立ち止まれることで,そろそろと外の世界にあれこれ目を向け,探索しようという気持ちが出てくるのだと思います。
「やりたいーやりたくない」にかかわらず,「いる」ことのできる場所があることが大事なのかな…とスタッフの発言を聞きながら思いました。そういう意味では,「ひとりで手持無沙汰でいれる」ことが,「やりたいこと」をみつける最初のステップかもしれません。
「やりたいことがみつからなくてもいいよ~」だけで,ほっといていいわけではないとも思います。「やりたい」ことを見つけるのは,子ども自身ですが,そのきっかけづくりは,教師の仕事です。
何が大事になるのでしょう。いくつかあると思いますが,ここでは2つあげます。1つは,子どもと対話することです。2つは,集団のなかで「やりたい」をはぐくむこと。
まずは,なにより子どもと対話することです。「やりたい」ことは,個人のなかだけで生まれてくるわけではありません。世界(ものや人)とのかかわりを通してうまれてくるものです。特に,「やりたいこと」が見つからない子どもというのは,そもそも世界とのやりとりの仕方が固定化していたり,狭くなっているところがあります。
だからこそ,スタッフが,子どもと対話しながら,子どものやりたいを一緒に見つけていくことも重要です。もちろん,その際の禁句は,「やりたいことはなに?」という超ベタな質問や,「自由にやりたいことやっていいよ」という丸投げです。対話を通して,子どもの「やりたい」ことを探り・一緒につくっていく具体的な様子は,以下のスタッフ(ひっきーさん)の記事に描かれており,参考になります(この箇所の執筆についてもひっきーさんとのやりとりを参考にさせていただきました)。
2つ目に大事なことは,集団です。とくに異質な集団が,子どもの「やりたい」ことの根っこを太らせていくことになります。次の写真を見てください。イタチ(?)の解剖に没頭している子どもの姿です。…が,ここで注目したいのは,没頭している子どもではなく,没頭している子どもを見ている小さな子どものほうです。
私の写真技術のまずさで,表情をうまくとらえられませんでしたが,「これは…このお姉さんは…なんなんだ…」という肯定的なとまどいのあるまなざしです。
幼い子どもたちにとっては,目の前で行っていることの意味や面白さは十分理解できないでしょう。しかし,同じ学校のお姉さんが一心不乱に解剖しまくっている,その没頭している行為を見て,当初は意味はわからなくても,その姿から,「なんなんだ…」知的好奇心の芽が育っていくのだと思います。
そもそも,個の「やりたい」はきわめて狭いものです。自分の「やりたい」ことだけだと,どこかでマンネリ化し,縮小再生産していきます。個だけにあわせると,個の能力はたいてい矮小化します。異質な他者と出会い,自分の枠からは超えた予期せぬところで,「やりたい」の幅は広くなります。
集団で学ぶことの意味の1つは,「やりたい」ことの幅を広く深く
あと1年後に,子ども自身が,「おれ,こんなプロジェクトをやりたいとは夢にも思ってなかったけど,今はこのプロジェクトもうめちゃくちゃやばい」みたいに感じてもらえるといいですねぇ。自分ではありつつ,今までの自分とは違う自分になっていく感じ。
そんな「変態」したとき,そばにはきっと,素敵な仲間がいるはず
そんなこんなを夢見て,毎月のフィールドワークがますます楽しみになってきました。それに,私も1年後,「やばい,こんなこと,書くとは思えなかったけど,まじで楽しくて,いろいろわかってきたわ」と興奮できたらいいなーと思います。中年でもまだまだ「変態」はできそうな気がしてきました。異質の
それでは,また次回,どうぞよろしくお願いいたします。