2020年6月1日
はじめまして,神戸大学の赤木和重と申します。専門は発達心理学です。突然ですが,「風越の教室に入ってみた」と題しまして,不定期に記事をアップさせてもらいます。
この4月から,風越学園に,研究者の立場で参加させてもらうことになりました(関係者のみなさま,感謝申し上げます)。
月に1回程度,ふら~と授業に参加させてもらい,子どもと遊び,先生と話させていただく予定です。そして,そのなかで,私が興奮したこと,気づいたこと,考えたことなどを綴っていこうと思っています。
「それだけ?」と言われそうですが,ここだけの話,それだけです…。
でも,こういう素朴な手法(いわば,観察日記のようなものですね)に,すごく意味があると自分では思ってます。
それは,風越学園の教室の中に入り込むことでこそ,見えてくるもの・書けるものがあるからです。外側からみると,「風越学園」は,斬新なだけに,様々なイメージが付与されているように思います。「エリート教育」「自由な学校」「オルタナティブスクール」「異年齢教育」「意識高い系教育」「なんやかんやいうても進学校」「フリースクールみたいな学校」などなど…。これらは一部,あてはまっているところがあるのかもしれませんし,全然あてはまっていないところもあるでしょう。ただ,あてはまる・あてはまらないいずれにせよ,このような外側からだけの言葉やイメージではわからないところに,風越の重要な本質があるように思います。
そして,その本質は,子どもの事実,授業の事実からしか見えてこないと思います。子どもが朝,挨拶をしたときの何気ない一言,先生のさりげなく出してきた質問,ライブラリーに置かれている今日のおすすめの本,保健室に掲示されているイラスト……そんな事実を丁寧に見つめ,見つけ,その事実の理由を探るなかでしか,風越学園のもつ教育の意味は見えてこないと確信しています。
そこで,毎月,風越の教室に,「たまにやってくるおじさん」として入りこみ,風越の様子を報告しつつ,今の日本の教育の中に,風越を位置づけてみたいと思います。
なお,『風越の教室に入ってみた』というタイトルですが,そうです,ごく一部の知る人ぞ知る,私の書いた本『アメリカの教室に入ってみた』(ひとなる書房)から似せて名付けました。これは,1年間,アメリカの様々な教室に入り込んで,日米の教育について考えた本です(よろしければどうぞです)(大変おすすめです!編集部・注)。
とはいえ,この連載では,『アメリカの教室に入ってみた』とはちょっと違う文体で書いてみようかなと思っています。具体的には次の2つ。
ワタクシの頭の思考のぐるぐるしている様子をそのまま見せる文体を採用することです。例えば,こんな感じです。「あ~~~わからん,これ,なんかおもろい気がするけど,なんでかわからーーーーん」みたいな私の思考も表現しようと思います。1人日記と,エッセイの間みたいな感じで書こうかなと思ってます。
というのも,風越はかなり独特な教育なので(たぶん),私もすぐに言葉にできないことが多いなと思うからです。それに,先生方も試行錯誤していながら実践をつくっておられます。そういう意味で,「完成した実践を見てそれをクリアーに示す」書き方は,うまくいかないだろうし,大事なことをこぼすだろうな,と思ってます。
ちょっとごちゃごちゃしてわかりにくい文章になるかもしれませんが,自分のごちゃごちゃ頭をオープンにすることで,一緒にあーだこーだ考えていただければうれしいです。
もう1つは,かる~い感じの文体で書くことです。教育を語るときは,「なんか,ええこと言うたろ」となりがちです。特に新しい教育について語るときは,その意義をウリャッッ~~と力説してしまいたくなります。
確かに,そういうことも大事なのですが,うーん,でも,日々の教室のなかでは,そんな意義は前面に出てきません。むしろ,ばかばかしいこと,くだらないこと,おもしろいことであふれていると思うんですよね。牛乳対決をしていたら,急ぎすぎて鼻から牛乳を出す子がいて,それを見ていたほかの子が笑ってしまって牛乳を噴出し,なんともいえないカオスな雰囲気になるとか,まぁ,だいたいサイコーにどうでもいいことが学校の日常です。
どうでもいいのですが,でも,それが学校だよな,って思ってます。
「かる~い感じで書こう」と自分を縛ることで,できるだけ風越の日常のなにげない様子も一緒に共有できればな,と思っています。あんがいまわりまわって,風越の本質を照らすことになるかな?という算段もあります。
さてさて,前置きが長くなりました。第1回は,このコロナご時世を反映して,オンラインでの訪問になりました。その様子を少し。
大きなテーマは,異学年集団における「学年」の取り扱いについて,なのですが,それはおいといて,気軽にお読みください。
今日,5月28日,はじめて風越学園の授業に参加する。とはいっても,コロナ騒動のため,神戸大学は全面出張禁止の状態。風越学園もオンラインで一部授業をされていることもあって,ZOOMというオンラインで参加させていただいた。
参加したのは,うまっちさん・ぽんさんが担任のホーム「き」(しかし,なんで一文字なんだ?)の,8時45分から9時15分の「あさのつどい」にZOOM越しに参加することに。「き」のホームは,小学校3年生から中学校1年生までの20人の異年齢集団だそうだ。
どういう感じで参加すればいいかわからず,楽しみというよりも不安でドキドキして「あさのつどい」を迎えることになった。
ぽんさんから,「自己紹介をお願いします」と頼まれていたので,毎回小学校でうける定番の必殺技「好きな食べ物はハンバーグです」を準備してのぞむ。しかし,まったくうけなかった。これが受けたのは,ふりかえるに対面マジックゆえだったのかもしれない。対面で「大学の先生」という高尚にみえる雰囲気を一瞬かもしだしたあとに繰り出す「ハンバーグ」という語感が,うけていたのだろう。今回は,そういう感じでなかったのかもしれない。オンライン難しい。
さて,それはともかく,初回の印象は必ずまとめないと,あとでぼやけてしまうので,粗い文章になるが,いそぎまとめておく。
オンラインに入ったのは,8時35分。まだつどいが始まる前ということもあって,うまっちさん,コウキくん,レイくん,(あと,2人か3人いてた)だけが画面上にいる状態。コウキくんとレイくんが,なにやらあさのつどいでするゲームのやりとりをしている。英語のしりとり?といっていたが,この時点ではゲームの内容はよくわからなかった(のちに,「highとforestは?」と1人がクイズを出して,みんなが応えていくというしりとり?ゲームだった。ちなみに,この問題の答えは,「山」。なるほど~)。
さて,そのしりとりらしきものについて子どもたちがやりとりをしているときに,うまっちさんが,「それをあさのつどいでやるの?」などと尋ねている。その雰囲気が,すいません,ほんとに先生?と思う感じ。よくある「おはよう!」「よし,今日はこれをしましょう!!!!」「元気な挨拶いいね!」みたいな元気というかうるさい雰囲気がない。かといって,友達のような雰囲気ともちょっと違う。カウンセラーでもない(そもそも子どもが困っているわけでもないし)……。
まだすぱっとくる表現がないのだけど,やっぱり先生なんだけど,その優しさは尋常ではない。そうこうしているうちに,子どももはいってきて,ぽんさんも「おはよー」とはいってくる。うん?「おはよー」が自然すぎて見逃したが,なんだかいつの間にか,すっと子どもの隣にいる感じ。
実際,あさのつどいがはじまっても,そう。「おい,次,〇〇くん,問題を読んでください!!!!」みたいな学級王国を彷彿とさせるオーラはみじんも感じさせない。子どもに説明・指示をするというより,子どもの発言の補足・解釈を広げる立ち回りをされている印象。
例えば,ある子が,口頭で,「グリーン ブラウン」と問題を出す。ただ,1回だけの発言だけだったので,ちょっとついていけない子もいた。そこで,すーーーーと,ぽんさんが,チャットも含めて「グリーン ブラウン」と復唱する。場への入り方もそうだし,子どもとの会話の参加の仕方も,子どもと向かい合うというよりは,子どもと並んでいる感じ。
子どもたちは,とてもリラックスして参加できているよな,という印象を受けた。ベタな表現で「優しい」でいいのかな・・・うーーん,なんかちがうなー,うーん,「ケア」といったほうがいいのかな。うーん。。
お会いしたときに,うまっちさんとぽんさんに,このあたりの背景を聞いてみるともう少しよい言葉がみつかるような気がする。身体的には確信できる,このリラックスしたまま授業にはいれる雰囲気をどう表現してるかは,これからの課題としておこう。
そうそう,単位が「学級」「クラス」ではなく「ホーム」という名前の由来とも関係するのか,うーん。これは形容しがたいインパクトのある雰囲気だ。
おそらく,学習場面では,また違う雰囲気になるのだろうけど,生活場面では,このリラックスした雰囲気はすごく意味があるのだろう。
私がアメリカで出会った異年齢の学校(New School@Syracuse)に入りこんだときも,そうだったのだけど,小学3年生から中学1年生までが普通にオンライン上で会話しているというのは,よく考えているとそうない。めちゃくちゃ不思議だと思う。学校ではなかなかないし,かといって塾ならもっとないだろう。普通すぎるけど,普通でないことを認識しておく必要がある。
こうして異学年どうしあつまるのも不思議なんだけど,もっと不思議なことがある。それは,異学年なのに異学年らしくないフツーの感じだ。下の子が上の子にびびっている感じもなく,上の子が下の子にことさら偉そうにする感じもない。おそらく,画面全体に,ケア的な雰囲気があふれているのは,上下関係を意識させないこともあるのだろう。これは不思議だ。
これは異学年だから自動的に醸し出せる雰囲気ではない。もし,がちがちの能力主義的先生や,年功序列的先生(なんだこの名称は)がしきっていたら,おなじ異学年の集団でも,もっと「異学年らしい」集団になっていたのだと思う(ほんまか?)。
「異学年なのに異学年らしくない」のはなぜなんだ問題について。
たぶん,こう感じさせる要素があるはず。1つは,先生のケア的な側面が,年齢という要素を中和させることがあるだろう。それは上に書いたとおりだ。
でももう1つあるように思う。それは,学年という属性を「あえて」付与していないことだ。ぽんさんに,そう聞いて,あーあーあーあーあーあー,たしかに,あー,なるほどと思った。あー,そうか,あー。
ZOOMの個人プロフィールのところで,学年を,うまっちさん・ぽんさんのホームではあえて,表示させていないという。つまり,「こうべ・だいじろう・3年生」などのように学年を表示させていないのだ。
あー,なんかこれ大事な気がする。そして,この意図は,上のケア的な雰囲気が出ていることとと底のところでつながっていると思う。
学年を表示させるということは,それが,知らず知らずのうちに基準になってしまうことだ。もちろんいいこともあるだろう。ただ,そうすると,学年が,みなのあたまに意識的・無意識的にこびりついて,それが1つの基準になってしまう。「6年生のたろうくんは,ぼくより年上」とか「きみはもう5年生だから」という,自分も含めてそれぞれが学年を意識してそれぞれを理解する。すると,異学年らしい異学年集団になってしまう。
では,学年という属性がないと,どうなるか。うかびあがるのは,「その子」そのものだ。「粉チーズ好き・さん」であり,「リッチ警官キャッシュ・こた」だ。個人の属性がダイレクトに出てくる。
実際,ZOOMの個人プロフィールでは,普通の名前もありつつ,「粉チーズ好き・さん」や「リッチ警官キャッシュ・こた」と表示されていた。学年ではなく,自分をあらわす何か(粉チーズやリッチ警官キャッシュ)が出てくるのは,象徴的だ。
そういえば,アメリカで見た異学年の学校・New Schoolでも,学年という概念がなかった。もっとも,先生は学年を知っているけど,先生が子どもに「●年生のメアリー」と呼んだことは,半年間,毎日のように授業に参加したが,ただの一度もなかった。「メアリー」であり「ジョッシュ」であり「エリカ」だった。それ以上でもそれ以下でもない。名前だ。
おそらく,「異学年」ではあるのだけど,学年を意識させない異学年であるためには,学年という属性と距離をとる意識や仕組みが必要なのかもしれない。
もっとも,長期的にはどうなるか,とか,学年という属性を付与しないことの実質的な意味や否定的な影響があるのか,とか,そのあたりはよくわからない。30分みただけだから。
なので,確定的なことはいえないのだけど,私の妄想を補強してくれるエピソードがある。1か月以上,オンライン・対面でやりとりしている子どもたちで,以下のようなやりとりがあったそうだ。ぽんさんからのメールを引用する。
そういえば先週、外遊びをしている時に、ホームの子どもたちが
「おれホームのみんなの学年知らないなー」「うん、おれたちってお互いの学年知らないよね」と話していたなぁと。
(その後学年を確認しあうかと思ったら、そのまま話が流れていっていました。笑)
なんか目に浮かびますねぇ(笑)。彼らにとっては,学年というのは,友達とのやりとりに影響を与える重要な属性でないことがわかります。そこに,年齢を越境しつつフラットな関係ができていくのかもしれません。
なんかインクルーシブ!
でも,学年らしさはそれぞれににじみ出ていた。それが不思議というかおもしろいというか。
当たり前だが,画面越しとはいえ,体格も含めたそれぞれの「大きいー小さい」は,子どもも当然わかる。そのこともあるのか,学年をとったところで出てくる「高学年らしさ」は随所に感じた。
例えば・・・小学校6年生のコウタロウくん。
みんなで英語のしりとり(だったのだろうか?)に取り組んでいるとき,だれもが答えをあてるのに必死(私もがぜん必死だった)。そして,他の子どもが正解すると,「おー」とか「くそー」とかなる。
そのなかで,コウタロウくんは,他の子どもが正解したときに,チャットで「すごい!」と書きこんでいた。
これはすごい!自分が当ててやった!はずしてくやしい!という個人的な世界のなかでおわらずに,すぐに他の子どものことにまで気をまわせるのは,高学年らしさだ。
7年生(中学1年生)のコウキくんもそうだ。うまっちさんが,そろそろ時間やで~(関西弁ではなかった気もするが雰囲気はそんな感じ)…みたいなことをいうとコウキくんは,「もう時間もないので,これが最後の問題ね」みたいなしきりをさらっと全体に言う。そして,もう1人別の男の子(名前は不明)が,コウキくんの発言をひきとって,「9時4分」と表示されている時計をモニター上に出す。もう終わりに近づいてますよ,と,みなに共有する。
ZOOMのモニターというのは,1人1人が線でひかれている構造で,それゆえ「個」が強調されるのだけど,高学年の子どもたちは,そのなかでも,つながりをつくったり,全体をみようとする。お兄ちゃんやないの!
逆説的だが,学年をとったところででてくる,学年らしさこそ,その人のしぐさとして残っていくような,個性として残っていくような感じなのだと思う。(ほんまか?もう少し考えてみたい)
最後に。
ZOOMに入った瞬間に,ある子ども(コタくん)の画面上に表示された名前が「リッチ警官キャッシュ」であった。そう!あのコロコロコミックで,昨年,連載がはじまり,金にものを言わせて事件を解決するという,すごいバブルというか,ある意味清々しさまで感じさせる,あのリッチ警官キャッシュである。
そこについ反応してしまい,私が自己紹介で,「コロコロ好き。リッチ警官とか,なんと!でんぢゃらすじーさんとか,ケシカスくんとか」と言ったところ,コタくんの食いつきがすごい!すごい食いついてくる!
彼の画面が,時間の経過とともに彼の家に秘蔵されているコロコロコミックで埋め尽くされていく。最後はコタくんの顔が見えなくなっていった。ほかの子から,「何冊あるねん」とツッコミをうけるがそれでもコロコロをアピールする。
コロコロ愛がすごい。気持ちはわかる。とにかくくだらないギャグ漫画最高だ。「ちんことうんこ,どっちが好き?」と尋ねて何になるのかわからない読者アンケート企画をするコロコロは最高だ(実はおじさんも大好きなんです)。
そんなあなたのコロコロ愛は,もうすでに,あなたの立派な属性であり,自分で自分にまとう属性,つまり,個性だ。
・・・でも,正直に言おう。コロコロの尋常でないぶ厚さは,家庭的には「じゃま」なんだ。あのぶ厚さゆえ,本棚はすごい勢いでコロコロに浸食されてしまう。1年間定期的に買った場合は悲劇なんだ。お母様,お父様も困っていることだろう。こっそり何冊か捨てられているかもしれない。でも,どうか許してやってほしい。
今日はここまででおしまいです。。半分ひとりごとの文章におつきあいくださり,ありがとうございました。
コロナの関係で,風越学園に実際に訪問できるのは,7月以降になりそうです。そのときを楽しみにして,神戸ですごしておきます。ではー。
赤木