風越の教室に入ってみた 2024年6月24日

【第16回(最終回)】私が,風越学園から学んだこと,悩んでいること,考えていること

かぜのーと編集部
投稿者 | かぜのーと編集部

2024年6月24日

神戸大学の赤木と申します。今回で「風越の教室に入ってみた」の不定期連載記事を最後にいたします。といいますのも,昨年度末で,軽井沢風越学園の訪問をひと区切りさせていただいたからです。本当は,継続して訪問したかったのですが,年々,大学の仕事が増えて余裕がなくなってしまい…。残念ですが,しかし,いつか再訪する日を楽しみにしています。また,いつも私の勝手を聞いていただいた本城さん,岩瀬さんはじめ風越学園のスタッフ,そして,保護者のみなさんや子どもたちに,感謝申し上げます。刺激的なのにリラックスできる時間を本当にありがとうございました。

さて,最後の記事では,コロナ禍もあって,細々とではありましたが,開校から4年間継続して風越学園を訪問して学んだこと,悩んでいること,考えていることを,いくつかのトピックに分けて書きます。ちなみに,最初は「学んだこと」というだけのフレーズにしようと思ったのですが,「いや,待てよ…」と考えなおし,「学んだこと,悩んでいること,考えていること」というフレーズに修正しました。「学んだこと」は多くあったのですが,同時に「悩んでいることや考えていること」も多かったからです。
風越学園を訪問するたびに,「かぜのーとに書こうと思うけど,なかなか言葉にならない…」と逡巡することがありました。端的にいえば私の力量のなさが原因なのですが,それだけではなく,風越学園自体が,どんどん変化し,かつ,その変化に,スタッフ自身もいくらかの迷いがあり,その理解が追いつかなかったということも関係しているかなと思います。2,3か月あけて風越学園に行くと「あれ? カリキュラムが変わった? 活動の名前が変わってる?」ということがあり,また,スタッフも揺れていることがありました。そんな悩みに立ち会いながら一緒に考える・悩むことが多くありました。そのため,「学んだこと」という完了形の話だけではなく,私が「悩んでいることや,考えていること」という現在進行形の内容も含みこんで書くことにします。

●(狭義のテスト)学力,大丈夫?問題

 圧倒的小物感満載なトピックから始めることになり恐縮ですが,疑問に思っていたことがあります。それは「(狭義のテスト)学力,大丈夫?」という疑問です。学力といってもその中身は幅広いのですが,ここでいう狭義の学力とは,高校受験などに通じるテストの学力についてです。そもそもこのようなこと自体を気にするのが風越学園にあわないのかもしれませんが,やはり気になります。風越学園では,探究中心に時間が割かれていることもあり,いわゆる多くの人がイメージする一般的な「教科学習」の時間が少なくなっています。「風越学園は遊びの学校」と揶揄されたことがあるとも聞きました(私は「ほめ言葉」と受け取りたいのですが,一般的には「揶揄」となるのでしょうね)。

こんな問題意識もあって,2023年度の卒業式の合間に,9年生(中学3年生)こうたろうさんに時間をいただき,直撃インタビューをしました。こうたろうさんの話を私の責任で編集して紹介します(ご本人には許可を得ています)。こうたろうさんは,一時期,風越学園の敷地内にある森の中でかやぶき小屋をつくって暮らしていました。

そんな彼に「風越って受験勉強する時間って少ないと思うけど,あせったりしないの?」と尋ねてみました。すると,「受験に対するあせりは全くなかった。逆に,受験勉強ばかりだともたなかったと思う」「実際,7,8年生のときに土台の学びの時間で勉強をして,ペーパーテストをしたけど,いい点をとれなかったし,楽しくなかった」「そんなときに(学校の活動で)フィリピンに行く機会があった。海で暮らす民族の人に(英語で)質問したいし,仲良くしたいと思った」「それに,そのひとたちのことを風越学園で広めたいこともあって,英語をすごくがんばった。森のなかで,英語のライティングなどに取り組んだ。洋楽を聞いてリスニングを勉強したりした」とのことでした。

参考:「子どもたちは何を見、感じ、考え、学んだのか。 ーワールドアンバサダー フィリピン渡航の記録(後編)ー

こうたろうさんの考えるスケールがでかすぎて,小物質問した自分に恥ずかしくなりながら聞いていました。彼にとって学力とは,「テスト」という狭い物質で完結するものではなく,あくまで,自分の生活のなかで湧き出てくる「学びたい」という気持ちと結びついたものなのでしょう。だからこそ問うべきは,「テスト大丈夫?」ではなく,「その学びは,自分の気持ちと結びついているのか?」なのだと思います。

さらにいえば,その「学びたい」に代表される「やりたい」をとても丁寧に扱っています。
こうたろうさんは,多くのプロジェクトを立ち上げたり,携わっています。一方,プロジェクトを断ることもあるそうです。その違いは何か尋ねたところ,次のように答えてくれました。「つくるということは,企画・運営することそのものじゃない」「自分に向き合って『本当にやりたいことなのかな?』と立ち止まっている。それに,(何がやりたいかはっきりせずに)モヤモヤした期間もある。そんなときは,いろいろ考えて,他の人と話したりしている」とのことでした。
『「学びたい」という主体的な気持ちが大事』と私たちは気軽に言います。しかし,そのような「学びたい」「やりたい」「つくりたい」は,こうたろうさんの発言を聞けば,それほど軽々しくいえることではないことがわかります。自分に問いかけたり,他の人と話したり,考えたりしながら,「学びたい」気持ちを丁寧に,そして,確かなものとして,つくっていくのでしょう。だからこそ,確かな「やりたい」となったとき,学びを着実に継続し,進めることにつながっていくのだと思います。

●風越学園とは,「やりたい」が生まれてくる場所のことである

こうたろうさんは,このような「~したい」気持ちには,風越学園という環境が重要だと語ります。「風越学園は,『あれ,やりたい』が生まれてくる場所」と端的に表現します。

このように表現したのは「他の人のやっていることを見て,そこで心動いて,自分もやってみたいと思えるから」だそうです。逆に,風越学園の居心地が悪いと思うときは,「自分たちでつくろうとしていないとき」だそうです。そんな状態で「企画・運営だけがすすむときは,『追われ続ける仕事になる』。だからこそ,そういうときは,定期的にゆるくおしゃべりして,お互いのことを知ったり,風越学園のめざすところを話したりして,それぞれがつきすすむことを大事にしていた。ただ,それは,『すりあわせる』ことではない。お互いがやりたいことをやることが大事です」と話してくれました。

この話を聞きながら,その場で「おおぉぉぅ…」とうなってしまいました。中学生と話しているとは思えない,確たる思想があります。人生の先輩から教えを乞うている気分でした。実際,乞うておりました…。「あぁ,そうなんですよ,ワタクシ,そんな感じで,いつの間にか仕事に追われ続けているんですよ。おっしゃる通りです…。」と納得と反省を含めつつ,こうたろうさんの話から,私なりに以下のことを学ぶことができました。

・自分のやりたいことを追究することが何より大事であること
・しかし,そのやりたいは1人では生まれないこと。少なくとも生まれ続けるわけではないこと
・他者の「やりたい」に触れることで,自分の「やりたい」が生まれること
・そのためには,他者とのおしゃべりが大事であること
・でも,そのおしゃべりは,「合意」という名の同調的内容にならぬよう気を付けること

以前,私は,拙著(『アメリカの教室に入ってみた』(ひとなる書房)で,「違いながらつながる」教育の重要性を論じたことがあります。そのこととも意識し,かつ,こうたろうさんの話を踏まえるのであれば,風越学園の教育は,「違いながらつながることで,やりたいが生成されていく教育」と名付けることができるのかもしれません。

【発展的余談】
とはいえ,「やりたくないことはさせなくていいのか?」「やりたいことが見つからない子はどうするのだ?」という指摘があるかもしれません。特に風越学園では,自由な時間が多く,一般的な学校のように「強制力」が少ないために,やりたくないことをしなくてもいい状況や,やりたくなければフラフラしたままになることがしばしば見受けられます。この点については,私自身,まだまだ整理ができていません。理想的にいえば,カリキュラムのなかでの豊かな学びに触れたり,他者(友だち・スタッフ)との交流するなかで,やりたいことが生成され,そのやりたいことを突きつめていく,ということになるのでしょう。結果として,当初は「やりたくない」ことにも意義を見出して自主的にやっていくことになるプロセスが想定されます。実際,このようなプロセスをたどる子もいます。ただ,短期的には,そうそううまくもいかないこともあるのではないかと思いますし,もっと違う発想があるような気もして,グルグルしています。

●インクルーシブ教育について

ここから話を変えます。インクルーシブ教育についてです。
私が風越学園を訪問した動機の1つに,インクルーシブ教育をより深く考えたかったということがあります。インクルーシブ教育というのは,様々な子どもがともに学びあう教育のことです(より詳しくいえば,「障害のある子どもなど様々な特別な教育的ニーズを無視せずに,全ての子どもの違いと多様性を尊重し,学習活動への参加を平等に保障する学校教育全般の改革」のことです)。一般的な公立学校の「同学年・同一内容・同一進度」を基調とした授業では,インクルーシブ教育を進めるには限界があると感じていました。だからこそ,異年齢混在で遊ぶ・学ぶ風越学園に,大きな可能性を感じての訪問を継続していました。訪問するなかで,学んだことや考えていることは,以下の2つに集約されます。

1つは,「理想のインクルーシブ教育」なるものはどこにもない,という当たり前の事実です。言いかえれば,「このような教育をすれば,すべての子どもが,必ず包摂されるのだ」という学校はないということです。これは考えてみれば当然です。どの学校にも,カリキュラムがあります。カリキュラムの自由度や質は,学校によって異なりますが,それでもカリキュラムは存在します。時間割はない学校も少数であれあるでしょう,しかし学校という場がある以上,「ない」というカリキュラム自体はあるといえます。
そして,カリキュラムがある以上,そのカリキュラムのなかで(障害のある子どもに限ったことではないのですが)学びづらい子どもたちが出てきます。風越学園も例外ではありません。「異年齢」や「まざる」ことを標榜していても,どうしても学習や生活に乗れない子どもたちがいます。むしろ,学級規律や学級規範を緩めて,自由・自主的な学びのなかで,様々なニーズのある子どもたちを包摂しようとするほど,学びに入りづらい子どもたちが出てくるのは,ある種必然だとさえいえます。しばしばマスコミなどで,「これが理想のインクルーシブな学校だ!」と喧伝されることがありますが,距離をもって考えたほうがよいだろうと思います(もっとも,訪問当初は「理想だ!」という頭から風越学園を見ようとしていた自分がいたのですが)。

2つめに,完成された理想ではないからこそ,風越学園には,インクルーシブ教育の方向性を示唆する蓄積ができつつあるようにも感じます。風越学園の利点は,カリキュラムの自由度が相対的に高い分,自分たちのやり方(授業の仕方,スタッフの付き方,集団編成の仕方など)を変更できる余地が多いところです。もちろん,このことは,時には,ウェルネススタッフを中心に,「なにどのように考え,対応していいのかわからない」と戸惑うことにもつながります。私も,明確な参考になるモデルがないので,いつも「そうですよね,悩みますよね~」と聞くばかりでした。ただ,この4年間のなかで,少なくとも私にとってはいくつかの方向性を感じることができました。具体的には,次のようなことです。

1) 子どもの表現を大事にする・共につくる:

原点はここだと感じます。子どもの「やりたい」という気持ちを表現として受け取ることはもちろん,「教室に入らない」「ゲームばかりする」といった子どもの行動も,表現として受け取ることからはじまるのかなと思います。そしてこれらの表現を大事にするからこそ,一緒にその表現をつくり,広げていくことができるのだと思います。例えば,写真のようなヒトコマです。卒業式のときに,飛び入りで,子どもとスタッフがデュオになって熱唱するシーンでした。スキルの上手下手を問題にするのではなく,教師が子どもを教えこもうとする意図もなく,ともに表現をつくっていく情熱が2人にはあふれていました。だからこそ,聞き手も,熱情的な表現を受け取り,大いに盛り上がりました。面白くて感激するパフォーマンスでした。インクルーシブというと,ついつい「一緒に学ぶには?」という問いを立てがちです。しかし,まずは,「子どもの表現を大事にできているか」という問いを持ちたいものです。

2) 他の子どもの関心に関心をもてるようなかかわり:

もっとも,子どもの表現を大事にするだけでは,逆説的ですが,表現は固定化し,閉じていきます。同じことをしていると,案外,「やりたい」広がりが出にくいものです。そういう意味で,様々なことにやってみたいと思えることが大事なのですが,そうなると,えてして,「教師のやりたいことを押し付ける」ということになりがちです。どうすればいいのか悩んでしまいます。この矛盾を考えるうえで,先に登場してくれたこうたろうさんの話がヒントになります。こうたろうさんは,「他者のやりたいことに触れることでやりたいことが生まれる」と語っていました。実は,これはインクルーシブ教育を進めるうえでも大事です。あるコミュニティに参加し,かつ,そのコミュニティを創造していくときに,他者の関心に関心を寄せていくことが重要になります。集団で遊ぶ・学ぶことのよさがここにあります。友達と一緒に何かを取り組む,もしくは取り組まないまでも,その場にいて見たり,感じたりすること(もちろん,本人のやりたいことに,まわりが関心を寄せてくれるというパターンもあります)が,やりたいことの幅を広げ,深めていくことになります。

3) スタッフや子どもが「その場にいない子」のことを想像する:

インクルーシブ教育というとき,その場のコミュニティのありかたが,問われているとも感じました。風越学園の場合,子どもの移動できる空間が広いこともあり,学習の時間,教室にいない子どももちらほらいます。もちろん,それが一概に悪いことだとは思っていません。他の場所で,やりたいことを追究していく子どももいるでしょうし,様々な事情でその教室には居づらい子どももいるからです。そういう意味で「教室にいない」ことそのものは,重要な問題ではありません。

ただ,「教室にいないことを(スタッフが)気にしているかどうか」は,包摂的なコミュニティをつくるうえでは重要になります。この点について,開校3年目の途中から,複数のスタッフが問題意識をもっていることを感じました。だからこそ,少なくないスタッフが,朝,子どもたちの出欠をとるときに,その場にいない子のことも気にかけていったのだと思います(当たり前のことのように思われるかもしれませんが,流動的なカリキュラムが多い風越学園で,ここを常に意識することは簡単なことではありません)。そして,このことは,子どもたちにも当たり前のように,根付いていきました。全体活動をするときも,4歳や5歳の子どもが楽しめるかどうかを意識して説明スライドを創ったりしていることが増えました。「教室から外れた子どもをどう参加させるか?」よりも「参加している立場のものが,そこにいない他者をどのように想像するか?」という問いのほうが重要でしょう。次の写真は,卒業式の「借り人競争」のひとこまです。小さい人も,大きい人も,同じように活動に吸い込まれている様子がうかがえると思います。これも,想像力が遠くまで届いている場づくりゆえのことです。インクルーシブ教育は,マジョリティ側の改革です。そのためには,「見えない人を想像する」ことが第一歩になるのだなと感じます。

●最後に

2023年に,イタリアのピストイアという小さな町の幼稚園や子育て支援センターを訪問しました。アートを生かした保育などユニークな実践が多くあり,とても刺激を受けました。ただ,それ以上に印象に残っているのは,保育施策を説明してくださった教育委員会の方のお話でした。「私達の保育を数年後に見に来たらガラッと変わっていることに驚くと思うわ。だって,私たちの保育は,いつもちょっとずつ変わっているから」と言われました。
「これがいい保育・教育」というよりも,「あれこれ悩みながらちょっとずつ前に進む(そもそも前に進んでいるかどうかわからないことも含めて)保育・教育」が,魅力的なのかもしれませんね。私が風越学園をいつか再訪したとき,「あれ?全然違うやん」と戸惑って思わず笑ってしまうくらい「変態」しまくった風越学園に出会えることを楽しみにしております。

4年間,本当にありがとうございました。

#12年のつながり #赤木和重

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かぜのーと編集部です。軽井沢風越学園のプロセスを多面的にお届けしたいと思っています。辰巳、三輪が担当。

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