2022年7月20日
こんにちは,神戸大学の赤木和重です。コロナの感染状況が,多少落ち着いたこともあり,4月に訪問することができました。軽井沢風越学園に開校年度からお世話になっていますが,4月に訪問できたのははじめてです。年度最初の立ち上げの様子に立ち会えることで,いろいろなことがわかってくるのではないかな?と楽しみに参加しました。実際,訪問した時期は,1・2年目にあった「ホーム」という朝のつどい・帰りのつどいをする異年齢の基礎集団がなくなっているなど,昨年度からの変化を感じることも多くありました(※なお,「ホーム」はGW明けには設置されたようです)。
様々な場面で,興味深い出来事が起こったのですが,今回は,ちょっとしょっぱい出来事から,自由や規律について考えてみたいと思います。
中学生(風越学園では7年生から9年生とよびます)が,外部から来られたゲスト講師の話を聞く場面に立ち会いました。7年生から9年生の全員が体育館に集まって講師の話を伺います。講師の先生は,「どんな姿勢で聞いてもいいですよ」とおっしゃります。子どもたちがリラックスできるような配慮をしながら話をしてくださいました。内容についても,中学生が聞きやすいように,クイズを出すなどして進めていかれました。さらに,「12時10分まで話します」と枠も明確にされて話されていました。
子どもたちはというと,体育座りで聞く子,あぐらをかいて聞く子,1人で聞いている子,友達どうし聞く子など様々です。講師のお言葉もあって,風越学園でみる,いつも通りの様子でした。「ゆるい」雰囲気でした。
ただ,時間が経過するにつれて,私がいつもみる風越の子どもたちの雰囲気とは違っていきました。講師のお話の位置づけが,子どもには少し理解できていなかったこともあったのか,子どもたちが話に集中できる感じがあまり伝わってきません。講師のかたが,興味を引くような話をしているにもかかわらず,友達と話したり,うつむいて何かしたり,さらには,動きはじめて,体育館にある道具をこねこねと触ったりしています。見ていて「うーん」とざわざわします。
すると,スタッフのさやさんが,突如,「ちょっといいですか」と講師に断って,子どもたちの前に登場しました。いつもはおっとりしているさやさんからは,別人のような雰囲気。何事かとさやさんを注視。子どもたちも一斉にさやさんの顔を見ます。
予想外のことに,私はびっくりしてしまい,さやさんの言葉を丁寧にはメモできませんでした。ですので,正確な発言は書けないのですが,一方で,言わんとすることはすごく伝わりました。それは,「わざわざ外部から講師の先生に話をしにきてもらっている。そのときに聞く態度っていうものがあるよね」という趣旨でした。さやさんの発言は,多くの子どもたちに,伝わったようです。その後は,リラックスした姿勢ながらも,丁寧に聞いている様子がうかがえました。
このエピソードで,学んだのは,「ゆるい」と「だらだら」は違うということです。そして,今回の子どもたちの参加は,全体的には「ゆるい」ではなく「だらだら」だったように感じました。この両者は似ている部分もあるでしょう。とはいえ,「ゆるい」と「だらだら」は,大きく違います。その違いは2つあります。
1つ目の違いは,学習へのコミットメントの有無です。「ゆるい」場合は,リラックスしながらも,学びに関心をよせて取り組む姿があります。一方,「だらだら」は,学びへの関心が弱い状態です。この違いを考えるうえで,拙著(「アメリカの教室に入ってみた」)で紹介した異年齢学校(New School)の授業の一コマが示唆的です。姿勢だけみるとかなりフリーダムです。でも,この姿を「だらだら」とは感じないでしょう。なぜなら,どの子も教師の語りに聞き入っている様子がうかがえるからです。このような様子は,「ゆるい」と表現できます。逆に,活動へのコミットメントが弱ければ,おそらく「だらだら」だと感じていたでしょう。私が,体育館での様子に違和感を覚えたのは,「ゆるい」ではなく「だらだら」だったからだといえます。
「ゆるい」と「だらだら」のもう1つの違いは,他者へのリスペクトです。特に,この点をさやさんは言及していました。もっとも,リスペクトといっても,大人に従属するという意味ではありません。時間を割いて来ていただいている外部のかたに対して,気遣いを示せるかということです。話の聞きかたは様々でも,いや,様々だからこそ,他者へのリスペクトを示せるかどうかは,「ゆる」と「だら」をわける大きな違いです。リスペクトがあってこそ実現する「ゆるい」だと感じます。
ちなみに,「ゆるスポーツ」を開発された澤田智洋さんは,著書(『ガチガチの世界をゆるめる』百万年書房)のなかで,「ゆるい」にも「ポジゆる」と「ネガゆる」があると指摘しています。「ポジゆる」は,様々な参加を包摂する意味がある一方,「ネガゆる」は,「適当にやっとけばいいじゃん」に代表されるチープやロークオリティな意味があると指摘しています。私がいう「だらだら」は「ネガゆる」の範疇に入ります。
もう1つ,学んだことがあります。それは,さやさんが「ちゃんと」とは言わなかったことです。「だらだら」している子どもを見ると,「ゆる」をすっとばして,「ちゃんと」させたくなります。「ちゃんと」の意味は多義にわたりますが,ここでは,姿勢などの外形的な学習規律をとにかく守ることを指します。今回の子どもたちの様子を見ると,「おら!ちゃんと座りなさい。しゃべったらあかん!」と言いたくなります。「だらだら」を見ると,その反動で「ちゃんと」させたくなる気持ちが,少なくとも私のなかには,わき起こります。その点,さやさんは,「だら」でもなく,「ちゃんと」でもなく,「ゆる」の領域を確保しようとされたのです。
なるほどなぁ,と感じました。
ここからは,想像になりますが,「ゆる」が風越の1つの生命線であると感じられているからだと思います。「ゆるい」には,「規則などが厳しくない。寛大である」といった意味があります。ガチガチの学習規律や,意味不明(失礼)な校則などからは自由な世界が,風越にはあります。
しかし,それは危うさでもあります。下手すると「だら」に陥るからです。「だら」への陥落を踏みとどまれるのは,先にも書いた「学びを面白がれること」,そして,「他者へのリスペクト」です。そして,それは,子どもにとって簡単なことではありません。規則でガチガチに縛られないぶん,学びを面白がったり,他者をリスペクトすることが必要になってくるからです。でも,これこそが,1つの自由のかたちでしょう。「ゆる」には,危うさを伴う余白があり,しかし,その余白があるからこそ,子どものなかから生まれる規律=自律があるのでしょう。
「ゆる」と「だら」の線引きの感覚を身に着けるって難しいですね。でも,風越の子どもたちには,身についていってほしいと思いますし,十分,できると思います。それは,ときどき「だら」しながらも,すでに,日々,学びに没頭する楽しさを感じ,異年齢集団のなかで,相手を気遣う経験を積み重ねているからです。
「だらだら」に陥ることなく,かといって,「だら」の反動で「ちゃんと」に飲み込まれるでもなく,「ゆる」を確保しようとすることの意味や価値を,考えることのできる一コマでした。