風越のいま 2024年8月19日

本当のことは「からだ」が知ってる?

井上 太智
投稿者 | 井上 太智

2024年8月19日

身体性ってなんだろう?

かぜのーと 編集部の辰巳さんとひかちゃんとのおしゃべりの中で「身体性」をテーマに書いてみたら?これまでそんなテーマはなかったし、「身体性」のことを大事にしてるんでしょう?と声をかけてもらった。

(僕たちスタッフは身体性、当事者性、コミュニティの視点を持って子どもたちの学びを考えようとしている。)

そんなおしゃべりをして、いいね!なんか書けそう!と少しずつ言葉にしてみたのが数ヶ月前。だけどなかなかしっくりこない。筆が進まない。身体性のことは確かに大事にしているんだが、、僕はこのかぜのーと を書くのに大変苦労していた。

だって、身体のことを頭を使って書くのだからな。この原稿を僕の身体が書いてくれたらと心から思う。頭じゃなくて、身体で書きたい。だから、一度、思考をおいて、湧いてくる言葉をここに残してみられないだろうか。そんな、身体で書くかぜのーと 。
自転車で風を切ったときに聞こえる「ビューーー」という風の音、その時「あぁ〜、、気持いぃ〜〜〜〜」と自然に漏れてしまう声のように書きたい。
そんな風にかけたらいいのだけど。

学校はどうしても、こうあるべき、こうした方がいい、こっちの方が学べる、意味があるということに回収されていく。そうやって学ぶ学校はこれまでの常識の枠を出ることなく、学校で学ぶという劇のようにみんながその生徒役を演じていく。生徒という与えられた役ではなく、一人ひとりがいきた生命体として生き生きと学ぶとしたらそれは、その子たちのエネルギーが湧いてくるように学び、そのエネルギーを発散させられるように学ぶことだろうと思う。その時、子どもたちの身体の動きはきっと今とは全く違うはずだ。ではスタッフはどうやってそこにいるのだろう。スタッフも自分のそこから湧いてくるエネルギーを流れるように使っていくにはどうあれば良いだろう。そんなことを考えている。劇で言うなら即興劇だ。

風越が大事にしている身体性というものは、頭だけで学んでいくのではなく、身体が知っているという状態だ。新しい考え方に出会った時、そうそう、そうだよね、わかるわかる!とすでに知っていたかのように実感できることでもあるだろう。または、そう感じられるような体験を豊かにすることだと思っている。特に風越では幼小中の繋がりがあり、年少から入学する子にとっては12年間をここで学ぶことになる。幼稚園時代の◯◯ひたる経験はその子たちの身体に何を残すんだろうか。

聴き合うからだ

僕は最近、小さな子たちのホーム(1〜4年生)と過ごしていることもあって、忖度のない、思ったことをそのまま口に出す子どもたちから、まっすぐに仲間と関わる気持ちよさを感じさせてもらっている。例えば朝のつどい、幼児期にたっぷり話し合って決める経験をしている子たちは話し合いを諦めない。とことん話し合って決めようとする。45分のつどいの時間を30分近く何を遊ぶかの話し合いに使ったりもする。結局、残り時間も少なくなってじゃぁ今日はこれで!といつもの歩きオニになるというのがよくあるオチだ。そんな時に、うまく話し合える方法や折り合いの付け方を教えようとしてしまう自分もいたりして、自分で自分に「おいおい何やってんだ」と突っ込みたくなる時もある。

こうした時間が自然と生まれていくのは、自分の声が仲間に届き、また仲間の声が自分の身体に響き、聞き合ってきた実感が身体に残っているからではないだろうか。一方で、そこに耐えられない子もいて、二言目には「早く遊びたーい」という。その気持ちも理解できる仲間たちは、うんうんそうだよね。早く遊ぼうと共感している場面もある。他者を想像することや、ホームというコミュニティを意識しながら過ごすからこそ考えがぶつかるが、そこを諦めない身体になっていく/なっている、気がする。

ジン「ホームの日は逃走中をやります!」
ミチ「やります!ってまってよ、まだやるとは決まってないでしょ。それにこの前もやったじゃん?ホームの日なんだから、いつもできないこととか、もっと仲がよくなることしようよ」
ダイト「じゃあミチは何したいの?」
ミチ「だからそれを今考えてるんでしょ!」

ツムギはそれをニコニコと見ている。
話し合いはこんな調子だ。

幼稚園時代に歌っちゃいたい時に歌い、踊っちゃいたい時に踊ってきた子たちだ。
身体に誘われるように、歌うように、踊るように、過ごせたらいいな。

参考記事:「もぐらといっしょに寝たい!キャンプ計画の始まり」(今の2年生が年長さんの時のお話)

もぐらといっしょに寝たい!キャンプ計画の始まり

 

お互いの声を聴ける身体になっていくこと。これは身体性と言えるだろうか。

同じホームスタッフのれいちぇる(宮下)にこんなことを言われたことがあった、「たいちさん、結構ちゃんと座るように声かけますよね?何かこだわりあります?」(僕を知っている人は意外だと思った人も多いだろう?僕は意外と姿勢のことが気になる。)

うーん、難しい。これは風越学園の抱える課題の一つでもあるのだけど、子どもたちは話を聞くことがすごく苦手だ。ホームで過ごしていると聞き合うことが本当に大事になってくるのだけど、聞き方も知らないわけだから、まずは聞く身体をつくっちゃおうという気持ちが湧いてくるのだ。だからごろごろと寝転がりながらつどいに参加している子がいたら、起きて聞く姿勢をつくろうと声をかけている。でもこれって、聞くために、聞こうとする姿勢をつくって、聞くモードに入るということだと思うのだけど、それってどうなんだろうな。背筋を伸ばして手はお膝…もどうかと思うけれどそう言いたくなる気持ちもちょっとだけわかる。

カンタの一歩

今年度のアドベンチャーでの体験を考えてみたい。アドベンチャー沢登りは新しいプログラムだ。沢を登っていくわけだが、当然、ハーネスとロープ(命綱)をつけて超えていくような場面もたくさんある。沢にボッチャーンといくことだってある。ドキドキしながら次の一歩を踏み出していく。

ひょいひょいと岩を超えていくような軽快なステップで超えていく子たちの中で、一際慎重なカンタの姿。自分の背丈くらいの岩に足を乗っけたところで、うーんと小さく声がもれる。カンタの身体はOKサインを出していない。この一歩が行ける感じは、その一歩一歩を積み重ねるしかないんだよな。

ガイドのムネ(河合宗寛)が、そっと手を置き、滑らないようにサポートする。カンタはグッと踏み出し、一つ上の岩へと進んでいった。身体のバランス、動き、力は本人にしかわからない。だから、この一歩は本人の身体が出すOKサインで動く一歩だ。この一歩でバッシャーンと行くこともある。でもそのバッシャーンが気持ち良くて、次からもっと深いところを選んで飛び込むような子もいるから、どんな一歩を選ぶかは本当にわからない。

このプログラムで、僕はゴツゴツした岩を抱いて寝た。 自然にお邪魔させてもらう立場としては十分なおもてなしだった。

大人はどれだけ身体性を生かしているのか。これは結構大事な問題だ。
心と身体で感じたことだけが、その人の声に力を持たせる。
もう少しアドベンチャーの話をつづけよう。風越の一つの登竜門、7年生と9年生ではセルフディスカバリー(未知の自分と出会う旅)というアドベンチャープログラムがある。9年生は自転車で軽井沢から日本海を目指す。その旅の経験を通して自分と仲間と向き合うわけだ。僕は今年一緒に自転車を漕ぐことになった。伴走スタッフといっても、本当にきつい登り坂だ。大人だって当然しんどい。引率や伴走という立場でもあるけれど、共に同じ経験をすることで、仲間という意識が自然と芽生えてくる。「一緒に、頑張ろう」「キツイよな」と子どもたちに自然に言葉をかけている。子どもの安全とチャレンジをサポートする伴走者は、気がついたら一人の挑戦者の気持ちになっていたりもした。キツイのは登り坂だけじゃなく、下り坂もキツイ。力いっぱいにブレーキを握り、なんとか持ち堪える。下り終わると僕の手は震えていた。休憩で口にする水の美味しさ、木陰の涼しさ、登り坂の苦しさも、大人と子どもで同じ経験を共にした。この五日間は子どもたちの姿、子どもたちの声が、自分に跳ね返ってくるように見えた、聞こえた。子どもたちの葛藤が、自分の葛藤のように感じられた。
五日間で発せられた僕の言葉は、本当の声と言えただろうか?

森に誘われて

科学者の時間では時々フィールドワークをする。それがいつかっていうと、年間計画通りなんかじゃ全然ない。僕のからだ が自然に誘われた時。それはいろいろある。この記事(「『見えないだけ』の詩から始まるわたしとわたしたちの世界」)にもあるけれど、子どもたちの表情、声のトーン、雰囲気が僕の身体に訴えかけて来ることもある。「子どもたちのこの感じ、わかる?明日は外だよ外!」と。そのメッセージを受けとってしまうと理科室にはいられない。パッと外をみると、森の緑が風に揺れて僕(たち)を誘っているようだった。

フィールドワークと言っても、「歩いて見つける」こともあるし「見つけて観察」という時もある。今回はさらに違って「すごして感じる」だ。目をつむって生き物に触れる、芝生に寝っ転がってアリの気持ちになってみる、最後は自然の音をただただ聞いた。9年生はそれぞれに、そして時々仲間と戯れながらすごしていった。

そうそう、中学生のこころとからだには自然の癒しが必要なのさ。

アドベンチャーもフィールドワークも、結局は「野に出ろ!」ということが言いたいの?という気持ちも湧いてくるだろう。いや、でも、そういうことでもない気がする。
僕は、学びそのものを楽しむことと、共に学び合うことを授業で大事にしているのだけど、学び合うことが身体化されている状態(身体が知っている)ってどういうことか考えてみたい。「教室で学ぶ」上での身体性ってなんだろなぁ。当たり前のことを書いてしまいそうだけど、いってみよう。

実験も身体でするもの?

子ども達が理科室にやってくると、アウトプットデーやら、アドベンチャーやら、気になる漢字テストやら、ホームの日の話なんかが自然と始まる。そういう時間になんとなく子ども達の旬がわかる。授業に気合いを入れてくる子なんてほとんどいなくて、それよりもっと大きな何かに気持ちはどこか奪われがちだ。(中学生なんてそんなもん)
始業の区切りはなく、まぁそろそろやるかという感じで声をかけて授業に入る。まずはみんなの状態チェック。誰がいるとかいないとか、朝はいたけどどっかでサボってますとか。小さく真ん中の机に集まってもらい、その日に扱うテーマや実験を演示しながら見せていく。多くの理科の先生からは「雑」だと思われるような説明なんだろうな。でも、それくらいでちょうどいいと思う。僕が望むのは言われた通りにやりましょうではなくて、言われることはだいたいで、自分でたくさん工夫しましょうである。
僕の授業は、席があるようでない。そう、最初はくじを引いて出会った人とおしゃべりをするけれど、その先は必要に応じて動く。自分のために、仲間のために、面白いから気になったから、様々な理由で動く。そこから当事者性を発揮するための身体の動きをつくりたい。

授業のメインディッシュ、化学実験は子どもたちに大人気。「今日も化学実験した〜い」と子どもたちは何か実験することをとっても楽しみにしている生き物だ。堂々と火遊びできちゃうし!くらいに思っている子も絶対にいる。

この化学実験も、脱線する身体をつくる大事なプロセスである。科学者の時間は、子どもたちがそれぞれにただ好きなことをやっている時間ではない。中学生には単元の問いやおすすめの実験を課題として手渡している。その世界に飛び込んでみて、やってみて、あなたは何を感じたのさ?というところを深める授業だ。正直、教科書に書いてあることくらいわかっちまおうぜという気持ちもある。(いや、学び尽くしてわからなくても、そんな時はわからない自分を愛せばいいのよ?)これを読んでくれている大人が昔やったであろう、これっていったいなんの役に立つの?という原子や分子の話を子どもたちは自分とつなげながら、仲間と学び合いながら、面白くしていくのが良い。そこには教科書を読めばわかるとか、先生が説明すればわかるとか、そんな学校劇は通用しない。目の前で起きた現象を精一杯観察し、考えて、さらに対象にアプローチする。

そうそう、面白いことがあった。9年生の化学実験(電池の実験)でレモン電池というものがある。異なる二枚の金属とレモン(電解質)があれば電池になるというもの。これはなかなかすごくて、レモンに金属を二枚指して回路を作ればオルゴールの音がなるのよ?そこに子どもたちは自分で野菜や果物を用意してきている。中にはお弁当のおかずを献上する子も。それを一つひとつ電池になるのか検証する。もちろん音がでたり出なかったり。「なんか、みずみずしさが足りないね、焼いてみようか。」「たしかに、野菜って火を通すと水が出るもんね。」そんなこんなで、焼いた野菜の電池は音が大きくなったりしちゃうから面白い。もちろん、音が小さい場合は焼いてみようなんて教科書には書いてない。電解質は水に溶けたら電離するということだから本質的かもしれないな。それを無意識にやってしまう小さな科学者さんたち、なかなかやるなぁ。

もちろん未熟な部分もある。まだまだ実験が下手だ。それは技能の熟達ということだけでなく、見えないことをどれくらいイメージできるかということでもあると思う。
8年生の内容は化学分野だ。これまで状態が変化するだけだった物質が、原子と原子の結びつきが変わる。化学変化に立ち会う事になる。さて、この化学変化をうまく起こさせるコツとはなんだろう?それは、世界を小さな粒々でみられるようになるかだ。原子の世界はもちろん目に見えない世界。目の前に飛んでいる酸素を「あ、酸素だ!」と吸う子はいない。でも僕たちはこの目に見えない酸素がたくさん飛んでいる空気をすって、目に見えない二酸化炭素を吐いている。
そこで、この目には到底見えない小さな小さな世界の化学反応をうまいこと起こすには、ちゃんと粒と粒が出会うように実験しないといけないってことだ。
だから、試薬はよくよく混ぜる。

「ねぇ、まだ〜?」たまにこう聞かれる。
「粒と粒が出会えそう?」と僕は返す。
「もーー!」と言ってグルグルグルっと乳鉢の中で試薬を混ぜる。

目で見てよく混ざってないという時点でアウト。粒と粒の出会いを演出するように、実験をしてもらう。混ぜて加熱するだけと思われがちだが、意外とうまくいかないのが化学実験だ。それをやってみるからこそ、あぁ、本当に小さな粒の反応なんだなと実感できると思っている。そうそう、このこれでもかってくらいに混ぜ混ぜする行為自体が粒子をイメージする瞑想タイムでもあるわけだ。これって身体性?

学び合う価値も身体が知ってる?

他者と学び合うというのは、言葉では確かにわかりやすい。そりゃそうだ。他者とコミュニケーションをとって共に協力するわけだから誰もが大事なことだと頭では理解できるはずだ。でも学び合うコミュニティのつくり手になるには、学び合う身体を獲得することが大事だと思う。身体が自然と動き、関わり、それが良い経験につながっていくこと。学び自体が個人の問題として完結するのではなくて、共につくった結果として面白い世界が生まれたり、コミュニティの変化を感じられること。子どもたちの良い状態があれば、学び合うことや協力し合うことが自然と起きてくる。そんなことを感じたのが夏休み前の最後の授業、ムサシのモヤモヤに仲間が数名集まってあれやこれやおしゃべりしているシーンだ。

この時、一生懸命に教えているのは、サンちゃん。その直前にサンちゃん自身がこの問題を考えていたのもあって、スッキリ理解できた快感をムサシと共有したいのだろう。そこに他のメンバーも一緒に聞きながらツッコミを入れている。共に学ぶ、学び合うってこんな感じ、、を身体に刻む時間だ。

ユロとソウタの距離感もいい

ラボがつくっているものは?

風越学園のラボはものづくりの場だ。大きな物も小さな物もたくさんつくる。
この夏までにたくさんみられたのはお箸作りや、スプーン作りじゃないだろうか。子どもたちは手を動かしながら、硬い木と葛藤していた。硬い木だからこそ、これだけ削れた!ねぇみてみて〜!やっとスプーンぽくなってきた!と小さな変化を報告してくれる。
多くのスプーンが完成品のイメージと程遠い物だろう。でも子どもたちは本当にそのスプーンがお気に入り!というような顔をしている。

ここで経験していることはおそらく、つくりたいもののイメージと、実際につくってみたときのギャップがあることだろうと思う。こうしたかったのに、こうなっちゃったー…!だからラボではたくさんの失敗作をつくっているとも言える。
しかし、そのプロセス自体が自分の手で感じられる最高のギフト?なんだと思う。

この失敗(と言っていいかわからないけれど)をした時、それが受け入れられない子ももちろんいる。もう嫌だ!やらない!と怒っているような子もいたりする。もちろん、それは誰かが慰めてくれるわけではないのだけど、そのままではなかなか終われないのが僕たちつくり手であるということなんだと思う。あれ、さっきまで怒ってなかった?という子が新しい紙や新しい材料を手にまたつくり始めるということがたくさんみられる。
さぁこんな風につくる経験をたくさんつんだ風越の中学生は、コミュニティをつくるだとか、場をつくるということだって実感を持って語るようになっていく。それってすごいよな。いやぁ本当にすごい。スプーンの持つところが細くなりすぎてしまったように、うまい具合に参加者のやりとりが起こらなかったときや、小さい子たちが自分たちのつくった場に参加できなかった時に、思った通りにうまくいかなかったな…と悔しがる中学生の姿は、スプーンの出来栄えに一喜一憂したり、それでも自慢げに見せてくれる小さい子たちとどこか似ている。

さて、ここまでが僕の身体が語った身体性だ。と言っても身体と同じくらい頭も働いてしまった気がするな。
身体で感じて、心が揺れて、思考も確かになっていく。いや、確かになるというより、確かめ合うような感じかな。やっぱり、なんとも言い足りない。言い足りないぶん、みんなの声も聞いてみたい。そんな風に、一つひとつ実感のある世界をこの手で共につくる旅。
そうそう、僕たちはもともとすごい感覚の持ち主だったはず。これまでのこと、これからのこと、自分が経験するいろいろなことを、「身体(からだ)」で捉え直してみる。身体の声を聞いてみる。そうして進んだその先に、さらに面白いことが待っている気がしています。
それでは、共によい旅を。

井上 太智

投稿者井上 太智

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