風越のいま 2024年6月21日

その人がその人なりに考え続ける

藤山 茉優
投稿者 | 藤山 茉優

2024年6月21日

ある日の雑談がきっかけで、今年度は算数にずくを出してみることにした。(ずくというのは、長野の方言で「根気」「やる気」に近い言葉)

「国語より算数が好き」という理由で、2020年度からLG(ラーニンググループ)の土台の学びでは、毎年算数を担当してきたが、「数学」という専門教科を持つ人と一緒に方法の段階から問い直して、算数の授業を考えることを私はほとんどしてこなかった。普遍的な答えがある教科だから、その答えを出す方法(公式や筆算などの手続き的なもの)を知り、できるようになればいいのだとシンプルに考えていた。そこに「楽しさ」「実生活との繋がり」「コミュニティ」みたいなものも生まれるとなお良い、としか考えていなかった。

2024年3月。算数・数学ブランチで1年の振り返りをする中で「自由進度学習をしていて、困っていることってある?」とようへい(佐々木)に聞かれた。困っていることか・・・。気になっていることはあっても、困っていることはこれといってなかった。でもそれは、算数という世界のほんの一部しか見ていなかったからであり、これまで数学を専門にやってきたようへいは、いつ「自由進度学習をやめませんか?」を提案するか迷っていたのではないかと今になって思う。

ようへいに「自由進度学習、やめてみない?」と提案されたときは、「やめてどんな授業をするの?」と率直に思ったし、そう聞いたと思う。ようへいが私にチャレンジしてほしいことは明確にあって、それはようへい自身が7~9年生でやっている実践だった。

それまでようへいの授業を一度も見たことがなかった私は、まずは実践を聞くことから始めた。なぜそういう方法をとっているのか、何を大事にしているのか、聞いてみて「いいね」と思えば乗っかってやってみればいいし、「うーん」と思えば「ごめん、無理だわ」って断ればいいし、と始まりは結構消極的だった。その後もやりとりを重ね、「もしふっしぁんがこの実践をするなら僕も一緒に授業を考えるし、どこまで空きコマをつくれるかわからないけど、可能なら授業にも入る。」と言ってくれて、それならチャレンジできるかもなー。やってみるかーとちょっぴり重い腰を上げた。

ようへいと7年生。この日の授業の雰囲気を一言で表すと「和気藹々」。

問題は同じでも、一人ひとりの現在地は違う

こうして始まった5年生の算数は、「1つの問題をじっくり考える」日と「練習問題をする」日の2つの形に分けて授業を構成している。

「1つの問題をじっくり考える日」は、インストラクションで問題を一つだけ提示する。たった一つだけど、この問題を考える子どもたちの現在地はみんなバラバラ。その子がその子の現在地からスタートして、手元にあるものや自分の手元にはないけど、友達や仲間、スタッフが持っているものを使いながらその子なりに一つの問題を考えていく。これまでの自由進度との一番大きな違いがこの「1つの問題をじっくり考える」時間だと思う。

問題「80×2.5 どうやったら計算できそう?」の授業を構想する過程で、子どもたちからどんな考え方が出るかできる限り予想する。

ただ、考えていること、感じていることはこちらには見えてこない。尋ねれば話し言葉で返ってはくるが、それは一時的な記憶としてしか残らない。だから今年度の算数が始まったタイミングで、子どもたちに「答えに辿り着くまでにみんなが頭で考えたり、悩んだり、感じたことをノートに書き残してほしいんだよね。」と伝えた。それはようへいが 数学の授業の中で一番大事にしていることだと私は思う。書き言葉として残すことで、他者はもちろん将来の自分とも共有できる。ノートがその人らしい「作品」になるといいなと思っていたけど、セイタロウに「歴史じゃない?」と言われ、「歴史」と呼ぶことにした。(日々の授業の中でも、「日付書いてねーノートは歴史だから。」なんて調子よく使ってるし、いろんなページに「歴史」「れきし」って書いてる子もいる。)

実際にこの形の授業をするまでは、「そんなにノートに書くことあるのか?」と思っていた。せいぜい問題文、考え方、式、答えぐらいじゃないのかなと。「考えを書くからこそ思考を正確にできる」とようへいは言うけど、算数に関して言えば、板書の文化がほとんどない風越学園の子どもたちが、ノートに自分の考えやそのプロセスをどれだけ書き残せるのか想像ができなかった。

2ヶ月が経ち、ノートを開くと名前を見なくても大体誰のノートか分かるぐらいに、その人らしさが出てきている。決して丁寧で読みやすいノートではないし、「ファンタジースプリングス オープンまであと2日!」とか「今日は〇〇の誕生日」みたいな算数とは関係ないイベントが書かれていたり、漢字テストがある日はノートの余白に漢字が書かれていたりするのだが、それも含めノートが生きている感じがする。

この次の日のノートで、「ディズニーの新アトラクションだよ!」とサクラから返事が書かれていた。

この日のコトネは、漢字テストで頭がいっぱいだったよう。

ノートに書き残すことを大事にしているが、ノートを見るだけではもちろん読み取れないこともあって、授業の中でなるべく全員とちょっとでもやりとりすることを心がけている。その子が考えていることの全てがノートに書き残されるわけではないし、そもそも考えていることを書き残すことそのものがハードルになっている子もいる。ノートはその子がその子なりに考えることを助けてくれるツールの一つであり、私がその子とやりとりできなかった時間を共有するツールの一つではあるけれど、ノートに書き残すことが目的にならないようにしたいと最近は感じている。ようへいはどう思うかな?

その子がその子なりに

何をもって「その子なり」って言うのか、正直まだ言葉にはできていない。でもこの2ヶ月でその子なりにじっくり考えていたり、じっくり考えるために必要なことをしていたりする姿があったなーと思う。

①ショウタはショウタなりに ー答えが出てからどうするかー

小数のかけ算、わり算を暗算で答えを出すぐらいに、計算が得意なショウタ。学年の内容であれば、自分の力で答えに辿り着ける。1つの問題をじっくり考える日に提示される問題も、ショウタにとっては朝飯前で、GW明けにやりとりした時にも「まぁ最初に出る問題は毎回簡単だなーと思う。」と言っていた。ショウタがショウタなりに考え続けるには、ショウタが「はい、できたよ。」とノートを見せてくれた後にこちらが何を問いかけるかが重要で、ようへいは「他の方法でも同じ答えが出るかな?」「自分で考えた方法が数値が変わってもできるかな?」「逆はどうなるかな?」などいくつかの問いかけるパターンを持っているが、私にはまだない。

ショウタとのやりとりの多くは、

ふっしぁん「他の数字でやったらどうなりそう?」
ショウタ「自分で数字決めるってことは、すでに答えもわかってるってことだから、ふっしぁんが数字決めてー。」
「またかーい。えっとじゃあ・・・分数にするか!ここを7/2で・・・。」

ショウタのノート。5.6mを7/2,7/3,17/8と数値を変えてやってみる。

みたいな感じである。即席で数字を考えるもんだから、割り切れなかったり、途中で計算がメチャクチャになったり・・・まぁひどいのだが、GW明けのやりとりでショウタが言っていたのは、「最初の問題の答えが出た後に、ふっしぁんがテキトーに出してくる数字で考えるのは、結構難しくてそれはまぁー面白いかな。」ということだった。

ショウタがショウタなりに考え続けるには、私がもっと算数の世界を広く深く知る必要があるし、瞬時に次の問いかけを閃く必要がある。小数のわり算、かけ算を暗算でできちゃうショウタを「むむむ」と唸らせるほどの問いかけは今はまだ難しい。

②マナはマナなりに ーノートに書くことのハードルを下げるー

この授業の形が始まってすぐの頃、マナのノートは問題文しか書かれていなかった。授業でのマナの様子はというと一人でじっくり考えている。誰かとおしゃべりしたり、相談したりする様子はなく、とにかくノートと睨めっこ。すごく集中して考えているように見えていたが、ノートに残っていたのは問題文だけだった。

最初の頃のマナのノート。

なんとなく手も足も出ていないように見えた私はようへいにそのことを相談した。「マナが考えを進めるためにあるといいものはなんだろうね」と返ってきた。マナの手元に何があればいいのか。最初は問題文を小さくコピーしたものを手渡した。マナは文字を書くのが丁寧で、問題文を書く時間を問題を考える時間に充てられると良いかなという思いからだった。(これは後からマナの機会を奪ったなと反省した)次に、ようへいが問題文の意味を絵や図にしてマナのノートに書いた。絵や図で考えるというのは算数の時間によくやることなのだが、それがその子の手元にあって、使えるものになっているとは限らない。それ以降マナには、「問題文をイメージできるようにまず絵や図にしてみる」ことを提案し、しばらく続けた。

ある日、マナのノートがかわったなと感じる日があった。その日のマナは問題の答えにたどり着いたわけではなかったが、ノートに書かれた字から自信を感じた。それは算数の自信というよりは、ノートに何かを書くことの自信だった。

ふっしぁん「マナ、今日めっちゃノート書いてない?」
マナ「うん。なんか今日はよく書けた。」

作家の時間で、「書くことのハードルを下げること」が大事とよくKAIさん(甲斐崎)が言っていた。マナがじっくり考えるためには、まずノートに書くことのハードルを下げることが必要だったのかな。

GW明けのマナのノート。問題文に加えて、どんなふうに考えてみるかも書いてある。

③サラはサラなりに ー友達とあーだこーだ交わす中でー

サラは大抵アサ、カノ、アイの3人と一緒のテーブルに座り、算数の時間を過ごしている。計算は得意。でも1つの問題をじっくり考える日は、結構頭を悩ませている。一旦考えを仮置きして、やってみて、それが合っているかどうか検証しながら少しずつ進んでいることがノートからもわかる。同じテーブルに座る友達の声にも耳を傾けながら、その子がその問題に向き合えるようなヒントを伝える姿もよく見かける。

アイやカノ、アサのノートを見ると「ターちゃん(サラ)が教えてくれたこと」のメモがよく登場する。仲のいい人同士で同じテーブルに座ることは、必然的におしゃべりも増える。でも、仲がいいからこそ、気兼ねなく「えーどういうこと?」を伝えられたり、「これはね、・・・」と返せる気もする。その時間の8割ぐらいおしゃべりだと、おいおいとなるんだけども。(笑)

サラのノート。なんとなくわり算かな?と見通しを持ちながら、いくつかの方法でやっている。

アイのノート。「たーちゃん(サラ)に教えてもらったこと」をメモしている。

④カノはカノなりに ーとにかく書く、書く、書くー

小数のわり算のテストの日。教科書もノートも持ち込んでOKにした。ノートがあることで、スペースを気にすることなく、自分が納得いくまで何度も計算できるのはいい。カノは算数だけに限らず、とにかくよく書く人。この日のノートをよく見ると、計算をしていない筆算がいくつかある。書きながら考える。考えながら書く。カノにとって書くことと考えることは繋がっている感じがする。後日カノにこのことを聞いてみた。

カノのノート。ぶわーっと書いて、間違えても消さない。

ふっしぁん「カノさ、このテストの問題を計算するために使ったページ、計算していない筆算いっぱい書いてるけど、どうして計算していないの?」
カノ「今回のわり算のテスト、小数点あるじゃん?計算するときに小数点消さないといけないじゃん?カノ小数点を消し忘れるの。だからいっぱい書いちゃうの。あ、間違えたって思っても、消しゴムを使いたくないから消さないでそのままにしてる。」
「使いたくないんだ。」
「うん。めんどくさいって言うのもあるし、ふっしぁんが間違ったことも残しとくといいよって言うから。」
「カノにとって書くってどんな感じ?書くことと考えること繋がってる?」
「そうだね。書いてるうちに何か考えが浮かぶんだよね。(逆に)一回何か書かないと考えつかない。書くことで思いつく感じ。算数でもお絵かきしてるうちに閃くことがある。」
「じゃああのお絵描きは暇つぶしって感じでもないんだね」
「うん、そう。笑」

⑤ヨシヒトはヨシヒトなりに ー粘り強く考え続けるー

ヨシヒトのエンジンがかかるタイミングを私はまだわかっていない。答えが出そうで出なかったり、やり方は合っているのに答えが合わなかったときに、気持ち悪さを感じるのか、粘り強く向き合うことがヨシヒトにはある。この日は、授業が終わる15分前ぐらいにエンジンがかかり始めた。

ふっしぁん「ヨシヒトーもう算数の時間終わるよー。外国語始まるよー。」
ヨシヒト「これだけ。これだけ。なんかここがあわないんだよ。」
「どれ?」
一緒にヨシヒトの計算したものを見ながら数字や計算があっているか確認してみる。
「なんだよ計算ミスかよー。」

外国語を担当するあず(栗山)さんだー(山田)には申し訳ない気持ちを抱きながら、答えが合わない原因がわかり、「よっしゃー!」と言うヨシヒトの表情にやり切った感じが滲み出ていた。

仲間が呼びにくるも「まだキリが悪い」と言って手を止めないヨシヒト。

⑥アサはアサなりに ー自分の気づきを自分の言葉で書くー

5年生が始まってすぐ、算数への不安を口にしていたアサ。

アサ「4年生の頃、算数が嫌すぎて、家でちょっとずつプリントをしたら結構わかるようになったんだけど、春休みしなくなったらわかんなくなって・・・。」

そんなふうに言っていたアサだけど、じっくり1つの問題を考えるのは性に合っている感じがする。自分の手元で考えるのが難しいときは、サラやカノ、スタッフに聞いて、それをヒントにまたじっくり考える。

立方体と直方体の大きさを実際にノートに描いて考えるアサ。

そんなふうにじっくり考えることで、アサはアサなりの気づきを得て、アサなりの言葉でまとめたり、残したりする。

思ったこと:
倍がたしざんとしてふえてくる。何分の一がひきざんとして考えるとへる。

本当は倍はかけ算で、何分の一はわり算の考えだけど、アサの中には「増えるといえばたし算」「減るといえばひき算」なんだなーが伝わるまとめだった。

ノートやプリントの余白に残されたもの

今年度、この形の授業をしながらふと思い出したことがあった。それは、昨年度3年生の算数を担当していたときに感じていたことだった。特にわり算やかけ算(筆算)の単元のときに、九九がうる覚えな子どもたちがその子なりにその子の手元にあるものから精一杯答えを出そうと考えたんだな、と思われる証がノートやプリントの余白に残されていた。

マハルは、「クッキー46個を8人で同じ数ずつ分ける」絵をノートに描いて考えていた。

九九でわり算の答えを導き出すのが難しかったリリコは、丸の数を描いて考えた。

26÷7。教科書では7の段で考えていくが、ハレは26を10と10と6に分解して、その中に7がいくつあり、7に満たさなかったものがあまりだと考えた。

覚えていない九九は九九表を見て答えを確認していたユウスケ。あるときからこの方法で自分で答えを出していた。

かけ算九九は2年生の学習範囲で、一度体が覚えてしまえば、頭で考えなくても使える優れものだし、覚えるに越したことはないかもしれない。そして、教科書上では、2年生で学習したことを前提に、3年生では新しくわり算やかけ算の筆算を学習するようにつくられている。でも本来一人ひとりの現在地はそうはなっていない。だからマハルやリリコは毎回絵や図にしてみたり、ハレやユウスケは何段階もの過程を経て答えを出したりと、自分の手元でできることをして答えに辿り着こうとしていた。それはすごく時間がかかることだし、根気もいる。そして、こういう過程を経て答えにたどり着いたということは、解答欄からは見えてこない。でも、本当は答えが合っていること以上に、この姿が尊いことなんだということを当時はうまく言葉にできなかった。それが、今年度のようへいとのチャレンジを通して、「あの姿ってやっぱり尊いよな」と過去の出来事を今になって価値づけすることができた。

雑談がきっかけで始まった今年度のチャレンジだけど、私は算数・数学の専門でもなんでもないけど、私が私なりに「あなたと算数」を考え続けたこと、ようへいの言葉を借りるなら、私が私らしくを積み重ねた結果、起きていることなのかもしれない。

#2024 #5・6年 #土台の学び

藤山 茉優

投稿者藤山 茉優

投稿者藤山 茉優

山口県出身。学生時代の6年間を熊本県で過ごし、2018年に長野県へ。
これまでに出会ったヒト、モノ、コトともう一度ていねいに、出会い・出会いなおしていきたい。自分ともね。

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