風越のいま 2024年5月14日

ほんとうのことば

奥野 千夏
投稿者 | 奥野 千夏

2024年5月14日

昨年の9月、私の大学院の先生が徳島から風越を見学に来てくださった。先生は長年大学の附属幼稚園で幼稚園教諭や園長をされてこられて、現在は私のように在職で学んでいる日本全国の保育者の指導をされている。今まで日本全国たくさんの幼稚園、保育園、こども園を見てこられたことだろう。風越幼稚園は、そんな先生から見たらどう映るのだろうか。

今まで見学に来られた人たちからは、軽井沢の自然の豊かさ、そんな環境での野外保育、ライブラリーやラボなどの校舎の環境、保育者の関わりについてはよく見学後の感想としていただいていたが、先生からの一番の印象は「ここの子たちは言語能力がとても高いですね~。」だったことに私はとても驚いた。見学した方から、風越幼稚園の子どもたちの言葉について言われたのはこれがはじめてだった。

その後、別の見学の方からもまた同じようなことを言われたこともあり、これはきっと風越だからこその理由が何かあるのかもしれないと思い始めた。もちろん、ライブラリーの環境や蔵書は素晴らしく、日々の読み聞かせも大切にしている。それも風越の豊かな環境の一つではある。でも、それは他の園でもありそうだ。それだけではない「風越の子どもたちの言葉が育まれる理由を探してみよう!」とそれからしばらく私はアンテナを張っていた。

そして、そのときはやってきた。りんちゃん(甲斐)がある場で風越での実践を大村はまの教えと共に話したときに、「ほんとうのことば」というフレーズがでてきたのだ。その時には深く理解はできなかったが、この「ほんとうの」にヒントがあるような気がした。そこをもっと知りたいと思い、「大村はまの著書で、『ほんとうの』について書いてあるものを教えて欲しい!」とりんちゃんに詰め寄った。すると、「そのことについてまとめて書いてあるものはないのよ~。大村の著書や資料、評伝の中でよく出てくる言葉で、それを私が拾っていったの。」という返答にりんちゃんの研究熱心さにいつもながら驚いた。紹介してもらった『評伝 大村はま』(苅谷夏子著)に大村が16歳の時に書いた「いい人とほんとうの人」という文章がある。そこから「ほんとうの」という言葉の理解に少し近づけそうなので一部紹介する。

「ほんとうの人のすることは皆、その人自身から出ているもので、またその「いい」ということはただ天から授かったというようなものではない。その人自身で得たものだ。苦しんで苦しんで得たものだ。」

さらに、別の著書では、「自分でほんとうに追究したくなるという場面を作ること、もしそれができたら、もう、それで先生の仕事はほとんど終わったかもしれないと思うくらい」(『大村はま国語教室 11』)と大村は言っているそうだ。

お泊まりの朝、浅間山が朝焼けで赤くなっていると教えてもらいパジャマでとび出すミノリ

風越幼稚園の子どもたちは、「~したい」にあふれている。まさに、自分でほんとうに追究したい人たちだ。自然豊かな森に抱かれて、森やそこで暮らす生き物との出会い、喜びや驚き、感動といった心が動く経験をたっぷりしている。そして、自分と違う考えや思い、表現をもった仲間とたくさんぶつかる。かなしい、くやしい、表現できないモヤモヤしたネガティブな感情も含めて、日々自分の気持ちに向き合い、苦しみ、考え続けている。

私が風越で子どもたちと過ごしていて感じるのは、とくにこのネガティブな感情をごまかさず、隠さずに向き合っているということ。そして、その時間が保障されていること。

私が以前勤めていた保育園では、子どものケンカやトラブルが起こらないように、ケガをさせないようにすることが最優先だった。保護者がどう考えるかということの方が大事にされていた。当事者である子どもの気持ちをいちばんに考えるべきなのに、本人たちが納得してなくても「ごめんなさい」をさせて、ケンカを終わらせることが保育者の仕事だった。それでは、子どもは自分の中に湧いてきた感情に向き合う時間もなく、自分で考える機会も奪われていく経験だけが積み重なっていく。

風越では、保育者と保護者が一緒になって子どもたちの育ちにどんな経験が必要なのか、今子どもの思いはどこにあるのかを真ん中に置いて話しをしている。本来はどの園でもそれができるはず。価値観の違う大人がわかりあうためには、子ども以上に時間はかかるし、努力をし続ける必要はあるだろう。当時の私は、ここではそういうものだとあきらめていたところがあった。まぁ、話しがそれてしまうので自分の反省はこのあたりにして…

2023年12月のある日、朝のつどいでお散歩に行くことが決まり、準備をして集まっている間にじゃれ合っていた二人が「ひっぱった。」「うしろから急にされていやだった。」「してない!」の言い合いになり、泣き出すケンカになった。出発しようとしてから30分以上つづき、そして後半は長い沈黙のままケンカは平行線に。他の子たちは時々、「こういうことだったんじゃないの。」など言葉を代弁したり、まわりで二人の表情を伺ったりしているが、止めたり、終わりにさせようともせず、先に行こうと言う人もなく、そのまわりで二人が納得するのを待っている。周りから見ると長い沈黙の中にある二人だが、当人の心の中は言葉にならない感情や気持ちがぐるぐるしたり、それを言葉にして考えようとしていたり、二人の心の中はきっと沈黙ではなかっただろう。

心が動く経験、そしてその時の感情や気持ちを自分の中でじっくり感じて向き合って、言葉にしていく時間も風越にはたっぷりある。そして待っていてくれる、話しを受け止めてくれる仲間がいる、ということも大きいのだろうとこの二人を見ていて思った。

この日の写真じゃないけれど、ケンカをしているブンジとコウタを見守るソウタとカズト

心が動く豊かな経験、自分でほんとうに追究したくなる「~したい」という思い、その感情や思いを自分の中でじっくりと感じて、考えて、向き合う時間。待っていて、受け止めてくれる、聞いてくれる仲間や場。それが風越で豊かなことばが育まれている理由なのではないかとこれまでの子どもたちの姿から考えた。そして、言語能力が高いというよりは、「ほんとうのことば」で話す人が多いのかもしれないとも思った。

自分が自分であるときに発する言葉。安心して自分を出せる環境で生まれる言葉が「ほんとうの」言葉で、風越の子どもたちにも「ほんとうの」言葉が出てきている。自分の「やりたい」に出会えれば、本気になって自分の心の中の「ほんとう」に向き合う。そして、本気で言葉を探して考える。

もちろん、これは子どもの姿を見ている私の経験則なので、こんなこともありそう、これはちょっとちがう?など、みなさんのご意見も率直に聞いてみたい。

先日、昨年度年長児のどらにゃご保護者の皆さんがたくさんの思いと手間と時間をかけて作った卒園アルバムをいただいた。そこには卒園児20名一人ひとりのページがあり、保護者が卒園直前の子どもにインタビューをして子どもの言葉を綴っている。最後にその一つカホの「どらにゃごのおもいで」を紹介したい。

ーどらにゃごのおもいでをおしえて!

スタッフにいっぱいそだててもらっていろんなことおぼえたことが、たとえば、いっぱい、みんなとないたりしたりして、あの、これはやったらダメだな、っておぼえていくみたいな。だから、ケンカがかほちゃんにとっては、ケンカがすきってかんじ。ケンカするともっとなかよくなったり、これはこのこにとっていやなのかなっていうのがわかってく?ケンカするときはやなきもちになるけど、それがおわったときには、スッキリする。スッキリするっていうか、たとえば、なつははこういうことがいやなんだな、ってわかる。ケンカしたあとはおたがいなかなおりする。ケンカするまえとケンカしたあとはかわるね。もともとケンカをしてたのに、そのあとは、なんか、なかよくいっしょにあそぶみたいな。それでなかなおりするとき、ごめんねってなつははいってこないから、かほちゃんからいうとなかなおりできるのね。そうするとうれしい。いちばんなかよしのこといちばんケンカした。

平尾山登山で半日かけて登頂して、山頂で景色を見ながらお弁当タイムの人たち

#2023 #幼児

奥野 千夏

投稿者奥野 千夏

投稿者奥野 千夏

自然体験活動・環境教育のインタープリターから保育者へ転身。絵本とおもちゃの店の店員や、保育雑誌のライティングに携わった経験も持つ。軽井沢風越学園で新しい教育づくりに関われることにワクワクしています。

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