2020年2月27日
認可外保育施設「かぜあそび」がはじまり9ヶ月が経った2学期の終わりに、かぜあそびのスタッフでふり返りを行いました。
今回は、こどもではなく大人の揺れに焦点をあてたレポートをお届けします。
この日のふり返りのテーマは、「2学期を終えて気になること、みんなで改めて考えたいこと」。様々な話がでてくる中、大きなトピックのひとつになったのが「危険認識の考え」についてでした。
「焚き火で、氷を溶かしてみるとどうなる?」
「のこぎりとトンカチを使ってみたい。」
「あの木、登れるかな。あ、長い棒みーつけた!」
こどもたち一人ひとりの気持ちに寄り添いながら、自然と共に生活をするかぜあそびでは、大人がそれぞれ持っている危険に対する“ものさし”と、こどもの育ちの“見とり”から、目の前のこどもとどう関わるか、どう行動するかを判断する瞬間が何度もあります。
いろんなエピソードからこどもたちの姿を思い出し、自分のものさしと見とりをふり返る。そこで、シュンタがおうちでナイフを使いたいと話しているというエピソードから、「スタッフがナイフで削ってつくった木の剣」の話になりました。
この木の剣は、スタッフのひとりであるリリー(勝山)が、日々のこどもたちの姿から、
・ものを大切にしてほしい。愛着が持てるような自分だけのものがあるとよさそう
・長い棒を振り回し、危険を感じた場面があった。20センチくらいの長さだったら、危険なく遊べるのではないか
という視点を持ち、冬休みに入る少し前にこどもたちへ提案した道具のひとつです。
リリーがナイフで木を削り、こどもが色を塗ったり、名前を書いたりして、自分流にカスタマイズをする。そうして12月のかぜあそびには、剣を持ちフィールドの中を駆け回る姿がよく見られるようになっていました。
そして、そこからシュンタの中に「ぼくもナイフを使いたい」という気持ちが芽生えました。そんなシュンタの姿から、改めて「こども」・「もの」・「大人」の3つの関係性について、スタッフそれぞれが考えを話すことに。
・もの自体に魅力があった。こどもたちの姿を見ていると、それを使って遊ぶというより、所有することに満足感を感じていたかもしれない
・大人がつくって手渡す。その先でどうなっていくか、こどもの世界がどのように広がるか見通しを持てるとよかったのかな
・シュンタにとって、リリーは憧れの存在。自分も同じようにナイフを使ってみたい、やりたいという姿は見通しとしてあったのか。もしあったとしたら、それは経験してほしいと思っていた?
このやりとりから感じたのは、大人はこどもにとって環境のひとつでもあり、動くも、動かないも、互いに影響を与えあっている、ということ。
それぞれが持っている「見とり」と「見通し」についてもう少し話を聞きたいと思い、後日改めて、今回のエピソードをどう捉えているのか、どう目の前のこどもと向き合い、その先を見通しているのか、スタッフ(リリー・愛子さん(坂巻)・ゆっけ(井手)・みほさん(橋場))と話をすることにしました。
ー 剣についてのふり返り、リリーはどういう風に受け止めていたのかな?(三輪)
勝山:正直この1年、どうこどもと関わるといいのかすごく悩んできたし、揺れてきたんだよね。その中で少しずつ「こう関わっていきたいかも」というのが見えてきたところでもあったから、みんなの見とりと僕の見とりはちょっと違うのかもしれないな、と思った部分もあるかな。でも冷静になると、そうも考えられるのかもと思うこともあって、結局揺れ続けてます。
橋場:リリーが少し前に、「こどもたちが1からつくりあげるのをすごく大切だと思っているけど0から生み出すのは難しいから、僕は“1までのあいだ”を提供するのはいいんじゃないかと思っているんです」と話をしてくれたことがあったじゃない。私、その言葉を聞いて「そっか、そういう考えもあるんだな」って思ったよ。
勝山:やりすぎてるのかも、と思うことは自分でもあるんです。特にあのふり返りをしてから改めて、他のスタッフの在り方に目がいくようになったんだけど、「あれ、みんなそんなに遊びに入ってないんだな」と気づいたりもして(笑)。みんなの真似をしてこどもとの距離感を変えてみたりもするんだけど、でもそうすると自分自身が退屈になっちゃうんだよなぁ。
井手:私はこどもたちが0から1にするところを大事にしていて、何をやるでもない退屈な時間も大切だと思っているから、自分からはどうしても困っているとか不安げにしているとかではない限り、遊びを提案したりすることはないかも。遊びらしい遊びをその時やっていなくても、そこから何か閃いたりするのかなと思うから、私は私で違うことをする。そこで「なにやってるの?」と聞かれたら、『これやってるよ』、「おもしろそう!」、『一緒にやってみる?』という感じで、こどもが動き出すのをそばで待っているかな。
勝山:なるほど。でも0から1になる時って必ずなにか過去に経験したり、その子自身の中に蓄積されているものがあって、それが1、2、3、4…って広がっていくと思うんだよね。
坂巻:そもそも0ってないのかも。どんな環境を用意するのか、そこからこどもとの関わりは始まっているなと思うなぁ。その子が手にしたものや、気持ちが向いたものから何が始まるんだろうというのを見て、これから楽しむ世界はどんなだろうと考えて、あれかなこれかなと関わったり、また環境を用意したりして。そういうことを模索し続けることが、保育なのかもしれないよね。
勝山:僕はきっかけ以上になる関わりをし過ぎちゃっていることがあるかもと思うから、本当その都度考え続けなくちゃなあ。
坂巻:私はいつもこどもの手の中にどんな遊びが、どんな歴史が、どんな生活があるんだろうというのを見て、想像しているよ。その子はどう世界を見ているんだろうと。遊びの中にその子の興味も生活もでるから、まずじっくり観察することがすごく大事だなって。
井手:その上でどう関わるか判断するけど、自分が用意した環境にこどもが食いつかないということもあるよね。それこそ、こうなるといいなと思って仕掛けたものって食いつかないことって多い(笑)。自分自身が面白いと思って始めたことのほうが、こどもものめり込むことってある気がする。
橋場:こどもってパッと火がついても、次の瞬間違うことに興味を持つこともあるよね。でもそういう子どもたちのアドリブ的なことが楽しいと、私は思うな。
坂巻:そういう時間が、さっきリリーが言っていた蓄積じゃないけど、必ずその子のなかには残っているから、そこから違う遊びに広がったり、その子のものになっていくのかなと思う。だから保育の中に身を置く時は、「その子のものになるかな」という視点を持ち続けて、声掛けや環境の設定をしたいと思うんだよね。その子の近くにない遠いものを提案してしまうと、その子のものにならないかなって。
井手:遠いものだからこそのわくわくもあったりするんだけどね。でも小さい子だと、昨日と今日と明日くらいの世界で生きていて、一週間後、一ヶ月後、半年後の姿を自分自身では想像がつかないから、「その子のものになるか」という視点はすごく大切な気がするな。
*
いくら話しても“こたえ”は出ない。でも子どもの育ちを見とり、共に生活し、大人同士で語り合うその先にこそ、これからの風越とこどもたちの姿が続いていくのだと思います。
(2019/12/26 , 2020/01/29談)