だんだん風越 2025年8月26日

「学校にいきたくない」から始まる長い話(保護者)

かぜのーと編集部
投稿者 | かぜのーと編集部

2025年8月26日

「学校に行きたくない」から始まる長い話。

2年前の春。新学期が始まってしばらくして、娘が頻繁に腹痛を訴える様になり、あれ、おかしいぞ、と思っていたら、「学校に行きたくない」と言い出した。しばらくは、なんだかんだ娘は頑張って登校していたが、ある朝ついに車から降りられなくなった。

最初にしたことは、学校で何かトラブルがなかったか調べることだった。娘に聞いてもスタッフに聞いてもこれと言った出来事はなかったようだった。

さて、困ったぞ。何を聞いてもほとんど言葉を返さず、うつむいて「わかんない」ばかり言う娘。ここで問い詰めたら絶対にダメだということだけはわかった。母は口を閉じ、目を開け、耳を傾け、よくよく娘の様子を観察して、ほとんど発してくれない数少ない言葉を繋ぎ合わせて推測すると、娘の言う「学校に行きたくない」は、どうやら「学校に行きたいけどなんだか不安/心配でいけない」ということのようだった。(1年後、娘にインタビューをしてみたら、正確には「学校に行きたくない、でも行かなきゃいけないと思ってる、だけどなぜか行けない」ということだったらしい。)

その時の娘の状態を一言で表すなら「困っている(困惑している)」だっただろう。何が起きてどうしてそうなったのか、どうしたいのか、何一つわからない。わかるのは、今までと同じ場所で同じことをしているのに、なんだか違ったことが自分の中で起きていて、どういうわけだか学校に行けなくなった、という事実だけ。この時点で、私は原因追及しないことを決めた。きっかけになった明確なトラブルがないなら、本人が自覚していない何かがあり、それは1つではなく、複数の要因が絡んでいるだろうと思えたし、それを紐解くことにエネルギーを注ぐより、今どうするかに注力した方が良さそうだと思ったのだ。

さて、どうしようか。娘は全身で学校へ行くことを不安がる(心拍数が上がり過呼吸気味になる)と同時に、学校へ行きたいと言い、一度も「帰る」とも「休む」とも言わなかったし、どんなに時間がかかっても、泣きながらでも学校へ行った。(振り返って思うに、この「行きたい」は、どちらかと言えば「行かなきゃいけない」という切羽詰まった気持ちだったのだと思う)

この泣きながら苦しみながら登校し続けることは、果たして娘に必要な頑張りなのだろうかと、何度も自分に問いかけ夫とも話し合った。家で気が済むまで休めばいいのではないだろうかとも考えた。同時に、一度休んでしまうことを覚えたらもう2度と学校に戻れないのではないかという不安も感じていた。(1年後のインタビューで娘も「休んだら本当に学校に行けなくなるかもしれない」という思いを抱いていたことがわかった)日々、どうしたら良いか迷う中、行きたいという娘の気持ちが一番大事だろうと自分に言い聞かせ、毎朝車を出した。

朝、駐車場に着いた車からなかなか降りられず、何時間も車の中にいる日々が続いた。車からは降りられたけど、駐車場から校舎へ向かえず、何時間も駐車場で座り込んでいたこともある。車のハッチバックを開けて二人で座り、車の中から校舎を眺め何時間も過ごしたこともある。駐車場までスタッフが迎えに来てくれて、なんとか校舎へ行けたこともあるが、何回も迎えに来てもらったのに、なかなか行けなかったこともある。それでも娘は毎日、何時間かかっても、なんとかして自分の足で校舎へ向かったのだ。母はそれを車から見送る日々だった。

そうやって過ごすうちに、どうやら授業時間中は校舎へ入るのにものすごく抵抗があるが、放課後はそうでもないらしいことに気付いた。16時半まで居残りしている日も多かったので、授業時間の何かが娘にとっての壁になっているらしい。この気づきは、学校そのものが嫌なのではない、とも解釈できて少し安心した。とはいえ、何が壁になっているかはわからなかった。

そうして、1ヶ月くらいが過ぎ、気温が上がってきて朝の時間を車内で過ごすことが難しくなったある日、私がトイレに行きたいと言い、母と離れることを嫌がった娘は渋々一緒に校舎まで行くことを承諾した。(この時までは、母が一緒に校舎へ行くことを娘は頑なに嫌がった。)校舎へ行きトイレを借りて、暑い車中へ戻るのは熱中症の危険があるから無理だと話し、なんとか校舎で居場所を探すことになった。スタッフエリアから2階へあがり、人通りの少ない廊下の隅で二人でじーっと座っていた。次の日は空いている部屋にこっそり入り(母がこっそりスタッフに許可を得た)一緒に過ごした。

この時期をきっかけに、母と二人で校舎に入ることを娘は渋々許容してくれた。のちにその時の心境を聞いてみたところ「ママと離れるのは嫌だったけど、一緒に行くのは悪目立ちしそうでそれも嫌だった。でも行ってみたら思ったより目立たなかったから、まあいいかなと思った」とのことだった。自分のステルス機能に感謝だ。こうして毎朝、母もお弁当を持って朝から放課後まで、学校で娘と過ごす付添登校の日々が始まった。

校舎の中に入れるようになったが、人と接触するのは難しいようだった。人が近づくと逃げ出しどこかに隠れて出てこないのだ。どうやら娘は、自分が望まないことを誰かに強要されるのをとても怖がっているようだった。そして、「どうしたの?」「なんで?」「どうしたい?」とあれこれ聞かれるのも怖かったようだ。なんせ、何が起こっているか自分でもわからないのだから、聞かれたって答える言葉がないのだ。

娘は周囲の人が、自分に何かをやらせようとしない、答えを求めないということを確認するまで、人が近づくことをよしとしなかった。母はスタッフと娘の様子を共有し、娘から接触するまでは、遠くから見守って欲しいとお願いした。同時に、校内に娘が安心して過ごせる場所=安全地帯が必要だと思った。そして校内で娘の“安全地帯”になり得る場所を探して彷徨い歩く日々が始まったのである。毎朝、校舎にたどり着いたら、母はスタッフと相談し、その日過ごせそうな場所を探した。

安全地帯探しは2階のミーティングルームから始まった。ガラス張りで、人が通ると中が見えるし、完全に外界と遮断するより、ガラス一枚隔てた距離くらいの方が行き来しやすいかも、と思ったのだが、その思惑は見事に外れた。娘は廊下を誰かが通る度に体を怖張らせるのである。そう時間がかかることなく、ここは娘の安全地帯にはならないことを悟った。

次に試したのは保健室。娘が信頼するはるちゃんのテリトリーだ。だが、保健室も割と人の出入りが多いので、落ち着かない様子で、娘の心の準備ができている時はお友だちが会いにきてくれるのも楽しげだったが、日々、気持ちに波がある状態ではタイミングが合わないこともあり、ここも安全地帯にはならなかった。

次は、保健室奥のミーティングルーム。ここは小さく、廊下から中が見えず、いろいろな喧騒から離れていて、人の出入りがなく落ち着いて過ごせる場所だった。どうやら、外部と隔絶された場所が必要だった様だ。ようやく安全地帯をたどり着いた気がした。すると、ここで母と二人で過ごすうちに娘は「ちょっと行ってくる」と言い残し、一人校内探検へ出る日が増えてきた。数分で戻ってくることもあれば、出て行ったきりお昼まで戻らないこともあった。

どこで何をしているかはその日によって違った様だが、色々な情報を繋ぎ合わせると、授業に出たり、ライブラリーのお手伝いをしたり、隅っこで本を読んでいたり、つぶらに勉強を教えてもらったり、あれこれ試していた模様。のちに娘に聞いたところ、何かあっても逃げ込める安全地帯があるから、怖くても不安でもそこから出ていけるし、やってみようと思えたのだという。安全地帯は大事だよな。

そうして、少しずつ人と関わり、友だちと関わり、集団で過ごすこともできる様になって、浮き沈みはありながら、個室で過ごす時間が減って来て、時折、母は帰って良いと言える日があり、だんだん付添登校の日が減って来て、なんとか1学期を過ごし、2学期に入り、元気いっぱいとは行かないまでも、登校不安の嵐は少しずつ鳴りを顰め、付添登校は必要なくなったのだった。あ〜、これはひと段落だなと思ったのは年末ごろだったと思う。

この試行錯誤の日々でありがたかったのは、スタッフは大抵のことは許容してくれるだろうという信頼感だった。その日、その時の思いつきをやらせてもらえるというのは、本当にありがたかった。行き当たりばったりというか、その日暮らしというか、臨機応変というか、とにかく「今」を生き、先をみない、考えないという過ごし方を選べたのは、周囲の理解とサポートのおかげだとつくづく思う。その土台として、関係スタッフと毎日情報交換をし、娘の状況を共有し、それぞれの思いや考えを伝え合う努力は必須だった。

この長い日々の始まりのころ、色々足掻く自分を感じつつ、ある時ふとひらめいた。娘の発している無言のメッセージは「ちょっと黙ってて。今、考えてるの!自分のことは自分でするから」じゃなかろうか、と。娘は誰かにこの状況を解決してほしいんじゃない。黙ってそばにいて、自分でなんとかするのを待っていて欲しいのかもしれん。それに気づいたとき、これは正解じゃないかもしれないが、私なりにはいろんなことに納得がいき、そういうことだと思っておこうと決めた。ということは、この状況を改善できるように働きかける相手は娘ではないということになる。私は何をすればいいのだろう。何もせずに待つという選択肢は私にはなかったのである。とはいえ、具体的に何をしたらいいのかはさっぱりわからないままだった。

迷った私は以前聞いたごりさんの言葉を思い出した。「大人の不安は大人で持ち寄って、こどもには背負わせないぶつけない。」よし、まずはごりさんを捕まえよう。そうして私は、自分が信頼できる人と次々に話をして、自分の抱える不安や心配の解消方法を模索することにしたのだった。

娘は何か深刻な問題を抱えていて、専門家のサポートが必要なのに、私がそれに気づけず事態を悪化させてるのではないだろうか?という不安に対しては、信頼できる複数のスタッフに娘と私の現状を話し、娘に専門家のサポートが必要な兆候があったら私に率直に伝えてほしいとお願いした。

母と離れることを不安がる様子に、このままずっとこの状態が続いたらどうしよう。これを許容するのは甘やかしなのではないだろうかという不安に対しては、心理学の専門家と話し、子どもが親を求めるのは親子関係がうまく行っている証でもある。子どもがもうあっち行ってと言うまでとことん付き合えばいいと教えてもらった。

日々、いろんな不安や心配が湧き上がる自分を持て余すことについては、毎晩、typhoon(学校と家庭のオンラインコミュニケーションプラットフォーム)の連絡ノートにその日の出来事を「娘レポート」としてアップし、自分の中から言葉にして外に出すことで気持ちを整理するようにした。これは、スタッフとの情報交換としても有用だった。(のちに、我が身の振り返りとしてとても役に立った)

私が何か余計なことをするんじゃなかろうか、親が一番子どもの成長の邪魔をする、という持論がどうしても頭から離れないという不安については、信頼できる複数のスタッフに、私の行動を見て思うことがあったら率直に伝えてもらうように頼むことにした。

“親バカ力”を舐めちゃいけない。我が子への愛ゆえに親はいつだって盲目になるのだ。だから、第三者の目を、判断を仰ぐことは絶対に必要だと思った。ただし“専門家”である必要はないとも思った。娘の成長を見守ってきてくれた人で、私が知っている人で、少なくとも、私が信頼でき、娘が好感(またはそれ以上のポジティブ感情)を向けている人がいい。そして、忘れちゃいけないのは複数人の助けを借りる事だ。3人よれば文殊の知恵である。

そして一番大事なのは娘の頑張りと私の奮闘は連動しないし、比例も反比例もしないということだ。ただ、お互いにベストを尽くしているというだけなのだ。これを一緒にしてしまうと、ややこしいことになる、ということは毎日何回も自分に言い聞かせた。

そうして、いろいろな人と話すことで、私の役割は、娘が答えを探すための時間と空間を整えることだろうと思った。それが前半に記した安全地帯探しである。

そんな試行錯誤をしつつ、並行して取り組んだのは、この出来事を自分ごとに変換する作業である。娘になにかしてあげたいけどできない(やっちゃいけない)、というジレンマを解消するには、この時間を自分にとっての「良い時間」に変換しなくてはいけないだろうと思った。そのために、私がこの時間でやりたいこと、楽しいことを探そう。そうしたら、娘にも「あなたに寄り添っているこの時間は、私にとっても良い時間だし、私は楽しんでる」って言える。「あなたのために(〜してあげているのに)」という禁句(自分の気持ちの押し付け)を言わないで済む。この時期の娘と私の間で、どんなことであっても嘘や取り繕った言葉は信頼関係を壊すと確信していたので、本当のことだけを口にしようと決めていた。つまり、私はどうあっても、この時間を楽しむために何かを見つける必要があったのだ。幸いなことに、この決意は報われ、スタッフの理解と協力を得て、時間をかけて少しずつ学校で自分の居場所(手仕事)を見つけ、結果として昔からの夢の一つを叶えてしまうというほどに存分この時間を楽しむことができたのである。

今、振り返って思うに、こういうことは親が(あるいは周囲の大人が)主導してなんとかしちゃいけないんだということだ。それは一時的な回避策にはなるかもしれないし、そこそこスピード感があるだろうし、親は安心できるかもしれないが、結局、こどもが納得していなければ、解決にはならない。解決しないまま、周囲の力に流されてしまうと、再び同じような問題に直面した時に、最初からやり直す羽目になるのだ。本人が、この問題を自力で乗り越えた、と思えないと、苦しんだだけで何も手にしないまま通り過ぎてしまうのだ。たとえ、どんなに時間がかかっても、どんなにもどかしくても、どんなにもっといい方法があると思っても、親はサポートに徹し、主導権を握ってはならないということはよくわかった。

あれから2年以上経った今も正解がなんだったのかはわからない。きっとずっとわからないままだと思う。ただ一つ言えるのは、娘の側に寄り添って、口を閉じ目を開け耳を澄まし、娘が自分を必要としてくれた時には全身で答えようと寄り添ったあの長い長い時間は、私の中では“良い時間”であったし、これから先も宝物のように思っていくのだろうと言うことだ。

そして、2年後の春、また娘は「学校に行きたくない」と言い出したのである。そうかそうか、行きたくないか。よし、母は仕事を整理し、付き添い登校でもなんでもできる様に諸々調整し、どんとこい、とばかりに準備を整えた。

ところが、数日後に娘は「あの時(2年前)と今は同じじゃない。あの時は何が起こっているかわからなかったけど、今日は、どうして行きたくない気持ちになるのかわかってるから。」と言った。そして、2年前は頑なに学校を休むということを怖がっていたのに、あっさり「今日は学校行かない」といって休んだのだ。自主休暇を取って、「学校行きたくないんだよね・・・・・・」と言いながらも、翌日からは渋々ながら登校した。その後も、「行きたくない気持ちはどこからくるのか」「どうすれば今の気持ちはマシになるのか」と母や信頼できるスタッフとの会話や、関連する本を読むことを通して自己分析を重ね、小さな工夫を積み重ね、それでも時々湧き上がる「行きたくない」の波と共存しながら今に至るのである。

2年前の難しい時期を、自力で乗り切った娘は、2年分成長して今も自分の足で歩いている。そこに迷いはあっても揺らぎはないのだ。

そう、2年前を基準にした私の前準備はほとんど要らなかったのである。今の私の役割は、娘が話したいと言う時にいつでも耳を傾け、娘が対話の中から自分の答えを見つけ出すのをじっと待ち、求められた時だけアドバイスを伝え、求められない限り聞き役に徹することである。(時々失敗して余計なことを言ってしまうのは母の愛ゆえの暴走ってことで許してもらっている)

娘は問題が起きた時は自分で解決したいのだという。「だって誰かが解決してくれたら、何が起こったかわからないでしょ。」と言う。ごもっとも。

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かぜのーと編集部です。軽井沢風越学園のプロセスを多面的にお届けしたいと思っています。辰巳、三輪が担当。

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