だんだん風越 2024年6月24日

子どもの時代を旅して(稲葉俊郎)

かぜのーと編集部
投稿者 | かぜのーと編集部

2024年6月24日

2024年6月18日(火)、裏風越(*)で「しんさんの子ども時代って?」を企画しました。

きっかけはひょんなことです。私が武蔵野美術大学で大学院生に講義をしたとき、そこにモグリで聴講していた知人(井上岳一氏)から「稲葉さんの息子さんが通われている軽井沢風越学園の本城慎之介さんとOnlineで対談しましたよ。アーカイブでも公開されているので、ぜひ見てください」と言われたのです。(→山水郷チャンネル #99 本城 慎之介さん
アーカイブ動画を見て、しんさんの声を聴き、とても新鮮でした。風越学園ができる前。どういう思いが核にあったのか。何気ないエピソードの断片。形なきものをどうやって形あるものにしていくのか。ゼロから学校が生まれるプロセスを改めて知る機会で、すこぶる面白かったのです。コロナ禍で、人々が集うことに禁止がかかる異常な社会状況。どのように風越学園は乗り越えようとしたのか。理想と現実のギャップ。表に出ない苦しみや悲しみは感じ取るしかありません。周りの保護者にも動画を見てもらったところ、多くの人が同じような新鮮な感覚を得ていました。

私は、成長の種が潜んでいる原型である幼少期や、その人の根っこ・ルーツに興味があります。目に見えないけれど、その人の心の歴史が展開されるオリジン(origin)はどういうものなのだろうか。「しんさんはどういう子ども時代を送ったのだろう?」と、強く思いました。私が美術家の横尾忠則さんから伺い、人生の指針にしている言葉に「人生のすべては幼年期に詰まっている。大人になってからも、幼年期を形を変えて繰り返しているだけだ。」というものがあります。大人になって目標を見失ったとき、何ものにも染まっていない幼年期の時の感性を思い出しさえすれば、その人自身が進むべき道へと戻ることができるのだろう、と受け取っています。
様々な人生遍歴を経た大人たちと子どもたちが、この風越学園という磁場に引き寄せられて人生の一瞬が交わっています。しんさんの幼年期から青年期の思いに耳を澄ますことで、奥深くにある思いの核を表に共有できるのではないかと思いました。時計の針を過去に戻し、お互いの子ども時代を響かせてみたい。誰しもが子ども時代に、学校や友人などのよき思い出も嫌な思い出も複雑に持っています。自分の子ども時代の経験は一つしかありません。だからこそ、誰かと共有することに意義があるのではないかと。

4歳の頃、父が勤める会社のレクリエーションにて。後ろの湖で冷やされているのは瓶ビール。

当日の話では、こうした5つの区切りでお話しいただきました。
・1972年(0歳、白糠町)~1975年:【ひとり期】
・1975年(3歳、釧路市)~1978年:【やんちゃ期】
・1978年(6歳、音別町)~1988年:【神童期】
・1988年(16歳、函館市)~1991年:【芽生え期】
・1991年(19歳、藤沢市)~:【開花期】

3歳まで育った白糠町。ひとり期。周囲に子どもはおらず、近所のおじさんおばさんに大切にされた時期。最初の記憶は自宅の間取り。人は不在で整然とした空間の記憶が明確にある。

3歳から6歳は釧路市。やんちゃ期。社宅で同年代の子どもだらけで遊びまくる。父にお菓子が欲しいとねだり、公衆の面前で駄々をこねて怒鳴られた苦い記憶。その後、人におねだりしなくなった。

6歳から父母が生まれ育った音別町へ。自宅の周囲は牧草地、まっすぐな道路という風景の記憶。一人で幼稚園に自転車で行ってしまう。ダイヤブロックにはまり、創っては壊し、創っては壊し続けた記憶。急性腎炎となり2か月ほどの長期入院。友人が交通事故で人格まで変わってしまった衝撃。自分が気持ちいいと感じることを優先する「ちゃんとする」ことに興味が湧き、服を選び、アイロンをかけ、靴下にもこだわる。その後、先生から期待され過ぎたストレスで起きた夢遊病はまったく記憶にない。女子との交換日記。中学でサッカーをしたかったが、サッカー部がなく、サッカー同好会を「自分でつくる」。創る喜びを感じる。不在がちだった父とは将棋のときだけ1対1となり、将棋を指しながら色々なことを話した。母からは家事や料理、生活に関わるあらゆることを学んだ。料理も得意になった。函館の高校に進学するまでは、万能感に満ち溢れていた時期。

1988年、16歳の高校時代。地元の進学校に行くつもりだったが、父親が寮生活を重視し親元離れた寮生活となる。そこで270人中250位となりショックを受ける。ただ、それは挫折としては位置付けられなかった。自分より「ちゃんとしていない」友人が成績優秀で、自分の中の「ちゃんとする」が壊れた時期。何かが壊れ、新しいものが生まれる芽生え期でもあった。

1991年、19歳から大学で湘南藤沢に移る。大学の新しいキャンパスには文化祭がなく、なかったからこそ「つくる」。お祭り好きで自分からリーダーとなり、文化祭を自分たちでつくった。ただ、来年度へマニュアルは渡さず、あえて破棄した。なぜなら、マニュアルを渡してしまうと「自分でつくる」喜びが失われるから。自分でつくることに意義がある。同じことを続けるだけでは面白くないのでは。1995年の阪神淡路大震災。ボランティアに行くが無力感を感じる。ただ、その後2週間、ボランティアのための食事をつくりに行く。母から学び取った料理の技術が役に立った。
他にも色々なエピソードが多数ありましたが、また今後もこの企画が継続することを期待して、この辺りで止めておきます。

音別町にある実家の前で撮影した風景。昔も今も変わらない。

しんさんの根っこを共有し、しんさんの幼少期の心に聞き手が没入した時間でもありました。わたしの意識は北海道へとフワフワと浮遊し、戻ってくるのに時間がかかりました。企画者としても、イメージを共有する絵画鑑賞のような場にしたかったのです。

風越学園は新しい学校です。形なきものを形にしていく必要があります。ただ、形になったらそこに安住せず、また壊しては作り続ける(色即是空 空即是色)プロセスを含んだ運動体のようなものだと思っています。水や滝の流れのようなもの。それはしんさんの幼少期のブロック作りにも見て取れます。ブロックでできたものをを完成品として陳列しておくこともできます。ただ、ブロックが接着剤でくっついていないならば、またバラバラに壊して自分なりに作り直してみる。完成品を愛でることよりも、そのプロセスに喜びを感じる。モノを壊してつくるプロセスは、自分自身を壊してつくる心の世界と呼応している。

しんさんの幼少期の人生の流れを追体験することで、共有イメージとして把握できた多くのものが新鮮でした。根底のイメージが共有できることで、言葉の背後にある思いも深く響きます。

しんさんの人生を追体験していくと、人生で出会った様々な人から魅力やエッセンスを発見して吸収し、そのエッセンスを自分なりに咀嚼して自在に身に着けているのだと感じました。引き出しが多いのです。そのことで身軽に次の手、次の手へと迅速な対応ができます。人との出会いにより、偶然を必然化するようにしてソフトウェアは常にバージョンアップされ続けています。 Responsibilityという言葉は、response + abilityの合成語であると考えれば、対応能力(response + ability)を繰り返し磨き続けることで、何事も他人事にせず自分事として引き受ける責任(responsibility)が育つのかもしれません。対応能力は、自分で責任を引き受け「自分でつくる」こととも関係があるのでしょう。

しんさんは、家族を構成する多様な人たち(祖父母も含め)から各人のエッセンスを学びとり、それゆえの懐と幅の広さがあるのです。また、学び取ったことにも執着せず、水が流れるように先へ先へと進んでいく。最新バージョンへとアップデートし続け、後ろを振り返らずに前へ進んで行く姿勢は、今の風越学園の在り方に通じているような気もしました。

大学生時代に、「自分たちでつくる」ことを大切にするためにマニュアルを意図的に破棄することも、次の人たちがゼロから「自分たちでつくる」土台を「つくる」ことです。捨てて壊すことが「つくる」ことに円環的につながっています。それは優しさのある厳しさです。

ここからはしんさんの幼少期のイメージを受け取った上で、私が感じ、受け取ったことを記します。風越学園は、「教育」をする場ではなく、「学習」をする場である。誰にも居場所が準備されている。居場所をつくることに全力を賭ける。それぞれの子どもに学ぶ機会は与えられている。 ただ、それぞれが何を求めどう生きていくかは分からない。もちろん、どう生きるかを本人は発見しなければいけないし、完全に発見できなくても糸口くらいは発見しなければいけない。 もし、向かう先の目標がぼんやりとでも定まり、その通過点として高校受験や大学受験を通らなければいけないならば、偏差値教育を否定することなく、遠い目標に向けて通過点としての受験を経る必要がある場合もあるだろう。受験勉強は子どもの時期に必要な人もいるし、必要ではない人もいる。大人になって必要となれば、その時にはじめればいい。だから風越学園が全員に何かを強制することはできない。ただ、もし自分自身が目標を立てたなら。何を学ぶべきかを自分で考え、自分でカリキュラムをつくる必要がある。自分なりの勉強法や生き方をゼロから作らなければならない。自分で作っては壊す必要があるのは、すべてにおいて通底している。スタッフは協力を仰げば協力するが、協力を求めないならば見守る。余計なことはしないが全力で応援する。

そういう意味でも、本人がゼロから「自分たちでつくる」場だ。後輩たちは先輩を参考にできてもそっくり真似はできない。なぜなら、あなたとわたしは違う人間なのだから。あくまでも「自分でつくる」必要がある。個々人にオリジナルなものだ。学校やスタッフがつくってあげるものではない。誰かが作ったものに充てはめる必要はない。レディーメイドではなく、オーダーメイド。その人自身がゼロからつくるものだ。「ゼロからつくる」という意味では全員が対等であって、その行為にこそ自分の人生を生きる喜びがある。挫折や成功もあるかもしれないけれど、それはある一瞬の点に過ぎない。長い人生を考えれば、「ゼロから自分でつくる」ことの価値も意味も分かるはずだ。

これからの時代の変化は大きい。情報の意味を理解する力、真偽を見分ける力が必要になるし、精神的な柔軟性と情緒的なバランスが必要な資質となる。学校の場の意義は大きく変化している。大人の言うことが時代を超越した叡智となるのか、古臭い偏見やお説教なのか、誰にも確信が持てない。誰も答えを持っていない。だからこそ、子どもたちは「ゼロからつくる」ことを大切にする場こそが必要であり、それさえできれば、あとは何とかなるのではないだろうか。

私はしんさんの人生遍歴を身体に通過させることで、風越学園が立体的に見えてきました。実際、私自身も「子供のころはただ遊べばいい。自分もそうだった。意識的に勉強を始めたのは高校からだった。そこからでも遅くはないのでは。」と思っていました。ただ、「本当に何も勉強しなくてもいいのだろうか」とも感じ、そもそも「勉強は誰のため?何のため?本人が自主的にするもの?家族や学校がつっつくもの?」など、迷うところもありました。風越学園は教育をする場ではなく、学習をする場であって、誰にも居場所が準備されています。ゼロから「自分でつくる」ことを大切にしているからこそ、私たちもしっかり悩み、考える。その上で、共に遊び、楽しむ。幸福な子ども時代を大切にし続ける。その中で必要だと感じたらゼロから「自分でつくる」だけだ。「自分でつくる」ことは、あらゆる領域で試されている。ゼロから挑戦する人たちが各々のオリジナルな音色を響き合えばいい、と。もちろん、今回の場に参加した方々は、各々が違うことを受け取り、自分事として考えた豊かな時間だったのではないかと思います。

しんさん、貴重な機会をありがとうございました。子ども時代の写真も当時のリアリティーが伝わりました。コロナ禍で社会が分断されていた冬の時期があったからこそ、とても心に染み入る時間でした。

書き手:稲葉俊郎

*裏風越とは、風越学園の保護者とスタッフが本気でともに遊び・学ぶことでよりよい大人のコミュニティを耕す試み(編集部注)

#2024 #わたしをつくる #保護者

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かぜのーと編集部です。軽井沢風越学園のプロセスを多面的にお届けしたいと思っています。辰巳、三輪が担当。

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