2017年8月17日
『勉強するのは何のため?—僕らの「答え」のつくり方』(苫野一徳、日本評論社)
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自著を紹介するのは少し気が引けるのですが、軽井沢風越学園にもゆかりの深い本だと思いますので、今回はこの本を。主に中学生・高校生に向けて書いた本ですが、小学校高学年のお子さんでも、がんばればきっと読めるのではないかと思います。テーマはズバリ、「何で勉強なんかしなきゃいけないの?」。この問いに、2500年の人類の英知がつまった「哲学」の考え方を用いて答え抜きます。
まず哲学の初歩の初歩として、2つの考え方のコツをお伝えしています。1つは、「一般化のワナ」に陥らないということ。もう1つは、「問い方のマジック」に引っかからないということです。「一般化のワナ」とは、わたしたちはしばしば、自分の「経験」を過度に一般化して物事を語ってしまうことがあるということです。特に教育は、誰もが受けた経験があるものなので、要注意のテーマです。
たとえば、かつて受験エリートだった大人たちは、そんな自分の経験を一般化して「勉強するのはいい大学に入っていい仕事につくためだ」と、自分の子どもにもしばしば言ったりすることがあります。一方、学歴を必要としない職業についた大人たちは、そんな自分の経験を一般化して「学校の勉強なんて何の役にも立たない」と言うかもしれません。でも、人それぞれ、受けてきた教育の経験も、そこから得たものも役に立ったものも立たなかったものも、本当はみんな違っているのです。
だから、わたしたちが自分の経験を一般化して言うことが、すべての人に当てはまるわけではありません。「勉強はいい大学に入っていい仕事につくためのもの」と思う人もいれば、「学校の勉強なんて何の役にも立たない」と思う人もいる。どちらが正しいというわけでもないし、どちらかが絶対にまちがっているというわけでもないのです。にもかかわらず、自分の経験を過度に一般化して教育を論じてしまうと、わたしたちは時にひどい対立関係に陥ってしまうことになります。だからこそ、わたしたちは自分の経験を一般化しすぎてはいないか、絶えず自分を振り返る必要があるのです。
もう1つの「問い方のマジック」とは、要するに二項対立的な問いのことです。たとえば、こんな問い。「学校は子どものためのものか?それとも国や社会の存続・発展のためのものか?」人はこのように問われた時、「あれ?一体どっちが正しいんだろう?」と思ってしまいやすいものです。
でも、これはまさに「マジック」なのです。この世に「あちらとこちら、どちらかが絶対に正しい」なんてことはまずありません。にもかかわらず、「どちらが正しいか?」と問われると、わたしたちは思わず、どちらかが正しいのではないかという思考のマジックに引っかかってしまうのです。
学校は子どものためのものか、それとも国のためのものか? これは、実はそもそもの問いの立て方が間違っているのです。答えは簡単。学校は、子どもと社会、どちらのためのものでもあるに決まっています。だからわたしたちが問うべきは、「学校はどのような意味において子どものためのものであり、どのような意味において社会のためのものなのか?」という問いであるはずなのです。
と、以上のような哲学的な考え方をいくつも駆使して、本書では「勉強するのは何のため?」という問いに答えていきます。その過程はぜひ実際にお読みいただければ嬉しいですが、ひとまず「答え」を言っておくと、この問いには「絶対に正しい答え」などというものはない……のだけれど、その上でなお、次のような「納得解」には辿り着けるはず。すなわち、勉強するのはわたしたちが「自由」になるためである、と。
わたしたちは、誰もが「生きたいように生きたい」、つまり「自由」に生きたいという欲望をもっています。でも、「自分は自由だ、自由だ」などとただ主張しているだけでは、わたしたちは「自由」に生きられません。「自由」に生きるためには、それだけの「力」が必要なのです。だからわたしたちは、その「力」を手に入れるために様々なことを学ぶ必要があるのです。
と、そうだとすれば、わたしたちは学校について次のような問いを立てなければなりません。「今の学校は、子どもたちが『自由』に生きるための力を本当に育めているのだろうか?」と。まだまだ全然不十分。わたしはそう考えています。だからこそ、子どもたちが今の社会で本当に「自由」に生きられる力を育める学校を作りたいし、日本の、そして世界の学校を、そのような場にしていけるよう努力していきたいと思っています。
さて、その「学校」ですが、勉強するのは「自由」になるためだとしても、なぜわたしたちは、それをわざわざ「学校」なんて場でする必要があるのでしょうか?今の時代、勉強はインターネットで十分できてしまいます。にもかかわらず、わたしたちはなぜ、学校なんてところに行かなければならないのでしょう?
これについても、ズバリ「答え」を言ってしまいます。それはわたしたちが、「自由の相互承認」の感度を育むためである、と。わたしたちは誰もが「自由」に生きたいと思っています。でもだからと言って、ワガママ放題をしていると、他者の「自由」を傷つけることになってしまいます。そうすれば、お互いに争いになり、結局は自分自身の「自由」もまた失うことになってしまうでしょう。
つまりわたしたちは、自分が「自由」に生きるためにも、他者の「自由」を認められる必要があるのです。これを哲学では「自由の相互承認」と呼んでいます。詳しくは割愛しますが、実はこの考えは、人類の1万年におよぶ戦争の歴史を通して、まだわずか二百数十年前に哲学者たちによって考えられた社会の根本原理でもあります(エッセイ「〈自由〉と〈自由の相互承認〉とは」を参照ください)。学校教育は、この「自由」と「自由の相互承認」を実質化するためにこそ存在しているのです。
と、ここでもう一度、わたしたちは次のように問わなければなりません。「今の学校は、子どもたちに『自由の相互承認』の感度を十分育めているのだろうか?」これについても、わたしはまだまだ全然不十分だと考えています。過度の管理主義、集団主義、体罰、いじめ……。「自由の相互承認」の土台を掘り崩してしまうようなことが、学校では今もたくさん起こっています。
だからこそ、「自由の相互承認」の理念にとことん基づいた学校を作りたい。そしてそれが、全国の「新しいふつう」になってほしい。そう願っています。
本書では、ほかにも「いじめはなくせるの?」とか「未来の学校はどうなるの?」とかいった問いに答えています。わたしの考えでは、「いじめ」は原理的には「なくす」ことが可能です。そして本書で書いた「未来の学校」こそ、今わたしたちが作ろうとしている軽井沢風越学園にほかならないのです。