2020年9月9日
神戸大学の赤木和重です。コロナ感染の状況が少し落ち着いた7月9日・10日,風越学園にはじめて行きました!
風越学園のご厚意で,学校内をふらふらと好きに歩き回り,子どもと一緒にご飯をたべ,子どもや先生に自由に話しかけるという,なんともフリーな立場で参加させてもらえました。
本当にありがたいことです。
しかし,自由すぎたからか,子どもに「どこからきたの?赤木先生は漫画家?」と斜め上からの質問をもらいました(笑)。漫画家…。人生初。
こんなかわいいエピソードもあり,興奮しっぱなしであったのですが,一般的な学校とは違うことが多く,まだ自分のなかで整理が追いついていません。まだうまく言葉にできないのが正直なところです。
…と,まぁ,原稿が遅くなった言い訳はここまでにしまして,早速,風越学園に入りこんだ様子をレポートします。「一般的な学校とは違う」ところからはじめます。比べるところからだと理解しやすいかな?と思いまして。
一般的な学校との違いの1つは,風越学園は,「同一年齢・同一学習内容」の教育から距離をとっているところです。今の日本の学校では,ほとんどが,「同じ学年だけで集まった学級で,同じ教科書を使って同じ内容の授業を受ける」教育です。私たちが子どものころからずっと受けてきた教育のかたちです。当たり前すぎて,それ以外の教育をイメージしづらいかと思います。
しかし,風越学園では,「同一年齢集団・同一学習内容」の教育とは大きく異なります。例えば,次の写真を見てください。ある学級の朝の会の様子です。ちなみに,風越学園では,「学級」は「ホーム」と呼び,「朝の会」は「朝のつどい」と呼ばれます。「先生」は「スタッフ」であり,個々の先生の名前は,子どもも大人もニックネームで呼びあっています。「うまっち」とか「ぽん」などのニックネームです。
この写真を見ていただければわかるように,様々な年齢の子どもたちが,同じ学級(ホーム)で学んでいます。このホームでは,小学校3年生から中学校1年生までの子どもたちが集っています。もう,この時点で,「え?」と思いますよね。
もう1つ,一般的な学校との違いがあります。それは,「一緒・一斉」の教育から距離をとっていることです。例えば,自分たちがうけてきた教育の給食の時間を思い出してみてください。小学校のときに,「級友と班をつくり,みんなが座るのを待ち,そして,みんなが準備できたら一斉に『いただきます』をする」という経験をお持ちの方も多いでしょう。この「いただきます」が,まさに「一緒・一斉」教育の象徴です。級友と「一緒」に,「いただきます」を「一斉」に言う……そのことの是非はおいておくとしても,学校の文化として染みついています。例えば,授業開始時の挨拶,授業中の姿勢,運動会の整列,音楽会前の行進,などなど「一緒・一斉」に授業に参加するスタイルは,空気のように当たり前のようになっているかと思います。
それに対して,風越学園の授業はだいぶ違います。下の写真は,算数・数学の授業風景です。
休憩時間ではありません。れっきとした算数・数学の授業時間です。「一緒・一斉」の雰囲気が全くないのがわかるでしょう。1人で学んでいることもいれば,小グループになって勉強している子たちもいます。全体で一緒に,一斉に学習をすすめていません。
右上の子どもたちをアップにした写真です。男の子は,なんと自分のパソコンで学習を進めています。一方で,女の子たちは,お互いにやりとりしながら勉強を進めています。「一緒・一斉」とは大きく異なる方向性で学習している様子がわかります。
ちなみに,この写真は,読書の様子。リラックスして読んでいる様子がよく伝わってきます。姿勢の「一斉」感はみじんも感じられません。
一般的な学校とは大きく異なることがわかっていただけたでしょう。私は,日本やアメリカで,オルタナティブスクールはいくつか見てきましたが,このように大規模の学校(現在,年少から中学1年生まで194名の子ども)で,同一年齢の学級集団ではなく,それぞれが違う内容を学び,そして,各自のペースで学んでいく……というのは,初めてのことで,圧倒されました。でも,2日も経つとなじむのですよね。不思議です。それだけ居心地がいいのでしょう。
しかし,そもそもなぜ一般的な学校と教育スタイルが大きく異なるのでしょう。決して,「これまでの教育と違う形をとる」ことそのものが目標ではないでしょう。そうではなく,子どもの中の「何か」を大事にしているからこそ,結果として,「同一年齢集団」「同一内容学習」,「一緒・一斉」の教育から距離をとっているのだと思います。ですので,外から見たわかりやすい形式だけ真似てもうまくいかないでしょう。
風越学園は,子どもの「何」を出発点においているのでしょうか。実は,7月に入っているさなかでは,十分,つかみきれませんでした。「異年齢教育」や,風越のホームページにある「『 』になる」,はたまた「自己肯定感」なども浮かびましたし,子どもとかかわりながら「非認知能力の育ち」など,浮かんだりもしました。
上にあげたキーワードは,どれもあてはまっているとは思います。ただ,少なくとも自分のなかでは,ぴったりとはまではいいきれませんでした。
そこで,風越に2日間はいって,心奪われたのはなんだろう?と改めて振り返ってみました。真っ先に浮かんだのは,「セルフビルド」の時間でした。「セルフビルド」とは,自分のやりたいこと(プロジェクト)をする時間です。風越では特に重視されていて,
それぞれのプロジェクトがまぁユニークなんです。例えば,下の2枚の写真。女の子3人が犬小屋の制作をしています。といっても,ただの犬小屋ではありません。保護犬を学校で飼うための犬小屋の制作です。他には,蝶のための庭づくり,登下校の途中で死んでいた動物を解剖する,自然動物を保護するための活動,ロケットの作成…などなど,本当にユニークです。
活動のユニークさもさることながら,さらにいいなぁと思ったのは,活動に向かう子どもたちの姿勢です。上の写真の背景を説明します。当初,釘を打っても木と木がうまくくっつかず,困っていました。そこで女の子たちは,スタッフ(こぐま)に尋ね,ボンドとクランプ(木と木を締める機械)を使ったらよいとアドバイスをもらいました。すると,うまくくっつきそうで,そこをすかさず釘を打とうとしているところです。
釘を打っている子も,そうでない子も顔が見えていないにもかかわらず,「没頭」という表現がぴったりするような姿が伝わってきます(よね?)。このように没頭している姿が,あちこちで同時多発的にみられました。
例えば,下の写真の男の子。「この正面からみたミドリシジミ(蝶の一種らしい)の顔,大胆でかわいいんだよね」と惚れこみ,隣の女の子にしきりに同意を求めています。どうも隣に座っている子を「蝶好き,虫好き」にさせたい様子(彼女には,やんわりとスルーされていたようでしたが…)。その後,私に「標本ではだめなんだ。生きているからこそ(蝶は)輝きを放つ」など持論を熱く語ります。語りの締めくくりには,「は~~,虫になりたいわ」と宙をあおぎながらつぶやきます。その顔のメロメロさときたら! そして,蝶がやってくる庭を,学校の敷地内につくるために,庭づくりプロジェクトを開始。なんとファンディング(募金)活動まではじめているとのこと。なんと猛烈な! すごい行動力!
「セルフビルド」に象徴されるように,風越学園は子どもの「やりたい」から出発し,「やりたい」を大事にしています。その証拠に,セルフビルドは,毎日90分もの時間がとられています。風越のカリキュラムの軸といえるでしょう。
そして,「やりたい」ことは,「セルフビルド」の名の通り自分づくりにつながっていきます。上の写真のように活動に取り組んでいる子どもたちに共通するのは,「他人の目を気にしていない」「自分がどう評価されるかを気にしていない」点です。写真に写った子どもの背中が物語っています。対象に向かって,「我を忘れる」様子がうかがえます。
幼児の遊び研究者,加用文男さんが,『これがボクらの新・子どもの遊び論だ』(童心社)のなかで,面白いことを書いています。これほどまでに,子どもが「自意識過剰」な時代はないと主張しています。自分を内省的に意識する時期がどんどん早くなっていると。
この傾向は,子ども本来のものではなく,大人社会によるものでしょう。「周囲からみられる自分」(心理学では「公的自己意識」といいます)を子どもに意識させているのです。例えば,私たちは子どもの写真を過剰にとります(私もですが),そして,それを「商品」のようにして見つめる行為がその典型です。子どもに「自分を意識させている」のです。当然,子どもは「見られる自分」を意識するようなります。
しかし,考えてみればわかりますが,人から見られることばかり意識していては,活動の楽しさよりも,これが大人から評価されるかどうかのほうに注意がいきます。しかし,本来,自分がつくられるのは,「ほめられる」「注目される」ことだけではなく,活動に没頭するなかで感じる達成感や充実感のほうにこそあります。
「自分づくりのためには自分を忘れるような活動が必要である」ーーー逆説的ですが,風越の子どもたちの姿を見ると,なんだか納得できます。他者の承認ばかりもとめて,それに一喜一憂していては,自分の背骨は形成されません。まわりがどうでもよくなるくらい,もっといえば,自分のこともどうでもよくなるくらい対象と溶けあうプロセスのなかで,自分の輪郭や背骨がたちあがってくるのです。
そして,我を忘れる瞬間の子どもは,ただただ美しい。写真にうつった子どもたちの背中を見て感じます。
そして,不思議なことに,もっといえば奇妙なことに,既存の学校教育では,このような「やりたい」が十分大事にされていない状況が進行しています。この「危機」には,学力テストや社会情勢の変化など様々な要因があるかと思いますが,ここでは,子どもに身近なところで,その具体的な「危機」を1つだけふれてみたいと思います。
授業スタンダードなるものが,近年広がっています。その1つに,「グーピタピン」といって,クラス全員に同じ姿勢を求めるといった,全員に同じ規律を一斉に求める姿が強くなっています(ちなみに,グーは膝のうえに手をグーにする,ピタは足の裏を床にピタ,ピンは背筋をピンの意味です)。
この「グーピタピン」に象徴されるように,形式が決まっていてそこに合わせることが「よい」とされる雰囲気のなかでは,子どもが,自由にやりたい気持ちや行為を表現することは難しいでしょう。
ミドリシジミ大好きの子どもは,蝶にメロメロになっていたのですが,突然,「おれ,前の学校では変人って言われてて」と,「普通」の顔になってつぶやきました。想像ですが,これまでの学校では,「やりたいことを追求すると,『スタンダード』から外れるために,『変わったことをする子』とみられていたのかもしれません。
「●●博士」と呼ばれるような子どもが,学校で居場所をつくれず,やりたいことを追求できず,「ヒトと違う」というまなざしを向けられて,しんどくなっている事例にしばしば出会います。
風越学園は,セルフビルドのように「やりたい」ことを重視しています。これまでの学校の「常識」をいったん脇において(捨てるわけではない),子どもの「やりたい」を軸に,大事に大事にすすめる。すると,結果として,「同年齢でなくてもよい,同一内容学習でもよい,一緒一斉でなくてもよい」となったのでしょう。そうする必然性がそれほどないわけですから。もっとも,「やりたい」が大事にされるのであれば,同一年齢集団でもOKだし,同一内容学習でも全然OKなのだと思います。
そんな子どもの「やりたい」様子の実際は,多くの「かぜのーと」の実践報告に見ることができます。例えば,うまっちさんの報告からその様子を学ぶことができます。
「やることがいっぱいありすぎる」(馬野 友之)
「ええ話や~」で終わりそうですが,そんな簡単でもないです。なぜなら,そんなすぐに「やりたいこと」が見つからない子どももいるかもしれないからです。
そこで,後編では「やりたいこと」があまり見つからない,そんな子ども理解について,書いていこうと思います。