2019年7月3日
7月。軽井沢風越学園のメンバーが集まって3ヶ月が経ちました。
多様な立場の人が集まって、それぞれの違いを生かしながら、良いものを作る。きれいな言葉にするのは簡単だけれど、実際にはその過程で、言いたいことが言えなくて、あるいは言ってしまって苦しんだりすることもたくさんあります。
出会ってこれから何かが始まる期待感の中で、「お互いの違いを生かして作っていこう」と言っていた4月。その後、具体的なカリキュラムづくりが本格化すると、意見や考え方の違いもはっきりしてきました。その背景には、お互いのこれまでの歩みの違いも垣間見えます。
知識なくして価値ある考えなど生まれないのだから、まず知識を身につけること。下手に考えるより先に先人の知恵を調べること。そして、教育とは人類のこれまでの知の所産を引き継ぐ営みなのだから、本人に価値がわからなくても勉強させるべきこともあること。そして、教科の専門性を高めることが教師の力量の中核であること。
振り返ってみると、僕は子どもの頃から40歳を過ぎたいまにいたるまでのほとんどの期間を、そういう考え方を大事にする人たちの中で生きてきました。でも、自分にとって常識だったその考えも、ここではそうはありません。「あ、これを当たり前だと思わない人たちもいるんだ」という新鮮な発見が、議論の中できしんだ音を立てていくのに、そう時間はかかりませんでした。
また、新しい環境に移ることで、これまで向き合わずにすんできた「できない自分」に向き合う時間も増えました。プロジェクト・アドベンチャーに参加できない自分。野外で過ごすことを自然に楽しめない自分。幼い子どもたちに心からの興味を持てない自分。国語の勉強ができず、本を読む時間もかなり減ってしまった自分。
そういう「できない自分」を抱えながら、ただでさえどこから手をつければ良いかはっきりしないカリキュラムの話をすると、信念や前提となる考え方が違って停滞したときに、つい正面から意見が対立してしまいます。しかも、実践の場がないままの議論では、これまでの経験をもとにしたお互いの信念の披瀝しあい、ぶつけあいになりがちです。でも、これって「お互いの違いを生かして」いません。「良いものを作るために対立を恐れずに意見をたたかわす」というのとも違う。
もちろん相手がその信念を大事にしていることも、その背景に、ときには幼い頃から続く物語があることもわかる。それに自分の考えはどうも少数派のようだ。ここは、話を進めるためにも、自分が受け入れ、変わらないといけないのだろうか。でも、自分の意思を曲げてまで無理に変わるのは難しいし、熱も持てない。ゴールはどこにあるのだろう。そもそも何のためにここにきたのだろう……。6月、そういう状況に陥りました。
このままでは良くない。そう思って、信頼する国語の勉強仲間に話を聞いてもらったり、毎日個人的に書いている日記から、何をすべきかを考えたりしてきました。今もまだ、考えて続けています。
新しい場所に来たのに、いまの僕は、まだこれまでの物語にとらわれています。それを全て捨てることはできないし、その必要もないけれども、これからどうやって次の自分の物語を編み直していくのか。そのための材料は何か。それを探しているところなのでしょう。これまで中高生を相手に学んできたことを生かして、幼児や小学生相手にもできそうなことは何か。僕自身も楽しく感じて、子どもたちとの接点にもできることは何か。軽井沢風越学園で自分の強みにできることは何か。
それを見つけていくために、いま大事にしたいと思っているのは、お互い正面を向き合って議論するよりも、「間に仕事を置く」こと。同じ仕事の方向を一緒に向いて、一緒に手を動かす中で、その人の大事にしているものを感じ取ったり、その人の頑張りに自分も励まされたり、助けてもらったり、その人のすごさに驚いたり。自分に足りないのは、きっとそういう仲間との経験の積み重ねなのでしょう。
まだ開校前の軽井沢風越学園ですが、幸い、地元の軽井沢西部小学校と連携しており、僕もその授業に毎週参加させてもらっています。4月から野外中心の認可外保育施設「かぜあそび」も行われています。他にも小学生向けの放課後学び場「風越こらぼ」があり、7月からは入学希望者を対象にした「風越ワークショップ」が始まります。そういう具体的な仕事に取り組む中で、仲間への理解や共感を深めて、同時に自分が楽しめる関わり方や、自分の強みも見つけていけたら。そう願っています。
もう一つ大事にしたいことは、言葉にすることの難しさも感じつつ、自分の経験を丁寧に言葉にしていくこと。経験を言葉にするとは、複雑な経験に一定の輪郭を与えることです。言葉は経験をそのまま写し取るわけではなく、言葉にふちどられた経験は、実際よりも色濃くなり、かえって現実の見え方をしばってしまうこともある。それを知りながら言葉を扱うこと。
要約するとこぼれ落ちてしまう感情を大切にしながら、経験を通じて感じたこと、考えたことを言葉にする。言葉でふちどられた経験のてざわりを確かめて、自分のうちに取り込んでいく。濃すぎたら、薄すぎたら、または切り取り方が違っていたら、違う言葉に変えてみる。そういう地道な積み重ねの先に、自分の変化が見えてくること。それを信じて待つこと。
僕はいま、軽やかには飛べない、もどかしい日々を送っています。3ヶ月たってもギアが上がらず、去年までの、のびのびと自分らしさが発揮できている感覚には、正直なところほど遠い。誤解を恐れずに言ってしまうと、現在の軽井沢風越学園は、僕にとっての理想郷ではありません。でも、そういう理想の世界がどこか自分の外側にあると思っている限り、たどり着いてみると実は違っていたという罠からは、いつまでも抜け出せないのでしょう。灯を持って暗がりを行く時の歩き方で、自分も仲間も大事にしたいと思いながら、今も、手探りの学校づくりが続いています。