赤ちゃんは、たくさんの愛情を受け、身の回りのいろいろなものに関心を向けながら、まずは一人遊びをたっぷり楽しみます。豊かな一人遊びの時間を積み重ね、誰かと一緒に遊ぶことの楽しさを知ります。そして、遊びに応じていろいろな人と関わりを持ちます。そうすることで、他者や世界に興味関心を持ち、学んでいくのです。
どんな子どもにも幸せな子ども時代を過ごしてほしい。遊びが学びへとつながっていくこの人間の自然な育ちを大切にした学校をつくりたい。そうした思いをベースに私たちは、3歳から15歳までが一つの校舎で学ぶ「軽井沢風越学園(かるいざわかざこしがくえん)」の2020年4月開設を目指しています。
私たちは、一斉授業・画一的なカリキュラム・固定的な学級編成等に代表されるような従来型の学校教育に限界を感じている一方で、子どもが持つ学ぶ力と学校教育の可能性を信じています。自分はどんなことに幸せを感じるのだろうか、また自分以外の一緒に生活する仲間や生き物・自然を含めて、幸せになるってどういうことだろうと考え続けてもらいたいという願いがあります。
私たちは、すべての子どもの “自由” に生きるための力を育むと同時に、“自由の相互承認” の感度を育む場所が学校だと考えています。より多くの人が「自由だ、幸せだ」という実感をもって生きられる社会が、私たちの理想です。軽井沢風越学園では、このような社会の担い手を増やします。
軽井沢風越学園では「ちがう」こと、「まぜる」ことを大切にします。みんなが「おなじ」であることよりも、「ちがう」ということを知り、体験し、それを大切にしながらゆるやかにつながる学校。
いろいろなことを「わけて」遠ざけるのではなく、なるべくたくさんのことを「まぜて」新しい出会い、新しい動きを生み出していく学校。
3歳から15歳。子どもと大人。校舎と森。地域と学校。遊びと学び。ある教科と別の教科。いろいろな違いが混ざりあっているのが軽井沢風越学園です。
軽井沢風越学園は「わたし」からはじまります。
これまでの学校では、何を、どう、どこまで学ぶかを大人が決めていました。いわば「学びのコントローラー」は大人が持ち、「わたし」よりも「みんな」が優先されていたのです。私たちはそのような学校の姿から一歩先に進みます。「学びのコントローラー」を大人ではなく子ども自身が持つ。それが軽井沢風越学園の目指す学びのスタイルです。軽井沢風越学園では、何を、どう、どこまで学ぶかを一人ひとりの子ども自身が決めて、学んでいきます。そして学びの質を深めるために、自分自身の学びを問います。これを私たちは「自己主導の学び」と呼びます。
学びを決める
学びを問う
こうして「決める」と「問う」ことを繰り返し、学びを自分のものにしていくのが自己主導の学びです。
軽井沢風越学園は「わたし」から「わたしたち」へ展開します。
ブランコに乗っているちいさい子がいました。足が地面につかなくて、思うように前後に揺れなくてつまらなそうです。そこに少しおおきい子がやってきて、隣のブランコに乗り、楽しそうに揺れています。おおきい子の様子をじっと見て「どうやったらできるの?」とちいさい子。おおきい子がブランコを降りて、ちいさい子の背中を押しました。大きくブランコは揺れ、別の世界が見えました。誰かの力を借りること、誰かに力を貸すこと。子どもたちが遊びの中で行っている自然な助け合いが、学習の中でも展開されること。これを私たちは「協同の学び」と呼びます。
砂場でシャベルを使って山をつくっている子がいます。そこに水の入ったバケツを持ったもう一人の子がやってきて、そこに水を注ぎます。山に川が流れ、新しい世界が生まれます。1人ひとりの遊びがつながることで、互いに刺激しあい、新たな遊びが創造されます。子どもたちが遊びの中で行っている相互触発が、学習の中でも展開されること。このことも私たちは「協同の学び」と呼びます。
気兼ねなく「教えて」「助けて」と言える関係。他者の学びに刺激され、対話を深める中で、新たな発見が生まれる関係。このような関係が軽井沢風越学園をしなやかな場にしていきます。他者と出会い、共に生きていく。遊びも学びもこうして豊かになります。
軽井沢風越学園は自己主導と協同で探究の学びを深めていきます。
「言われたことを、言われた通りに」「決められたことを、決められた通りに」。そんな出来合いの「答え」を詰め込んでいくだけの学習のあり方は、すでに過去のものになりつつあります。変化の激しいこの時代、絶対の正解のないこの社会において、子どもたちが未知の問いに向かって探究し続けられる力を私たちは育んでいきます。自己主導と協同の学びをベースに、教科の枠を混ぜあわせた「探究の学び」を深めることが軽井沢風越学園のカリキュラムの大きな柱です。
一人であるいは複数人で、さまざまなテーマについて、「わたし」や「わたしたち」なりの問いを立て、それぞれのやり方で、心と身体と頭を存分に使って「わたし」や「わたしたち」なりの答えを出していく。それが「探究の学び」です。
「五目並べに必勝法はあるだろうか?」
「あみだくじには何か法則があるのだろうか?」
「プールの水はコップで何杯分だろう?」
「1日に30km歩けるとして、いろんな星にはどれくらいで行けるだろう?」
「このボールをもっと遠くに投げるには、どれくらいの角度で投げるのがいいのだろう?」
「アメリカへの飛行機旅行は行きと帰りで時間が違うのはなぜか、計算で確かめたい」
「針葉樹なのにカラマツはなぜ落葉するのだろう?」
「色の赤青黄を混ぜると黒になるのに、光の赤青黄を混ぜると白になるのはなぜ?」
「干し柿や干し芋ってどうして腐らないの?」
「多数決は本当に民主的なの?もっと民主的に決める方法ってないのだろうか?」
「長野県以外にも軽井沢という地名があるけれど、その地名の由来って同じ?」
「3歳から15歳までが楽しめる校庭ってどんな校庭?」
「幸せとはなんだろう?」
「みんなが美しいと思うことってあるんだろうか?」
このような問いに対しては、大人が必ずしも答えをもっているわけではありません。子どもたちは、豊富な図書資料、ICT、地域の人たち、専門家など学校内外のさまざまなリソースをフル活用して、自分たちの立てた問いに挑みます。
目指す学校像、大切にする在り方、カリキュラムの3つの軸…。私たちが目指す学校において、大人はどのような存在であるべきなのでしょうか? この問いへの答えを、私たちはそれぞれの現場で実践し続けてきましたが、まだ明確な答えを見出しているわけではありません。
しかし、ひとつだけはっきりと言えることは、大人も「自己主導の学び」「協同の学び」「探究の学び」を追究し、学び続ける存在でありたいということです。これから集う多くの仲間と子どもたちと共に、私たちは試行錯誤し続けていきます。
2017年2月1日